2008年10月21日火曜日

拉致問題と在日の民族主体性の問題

みなさんへ

11月の立命館大学のシンポジュームでの発題の依頼を受けて、20分で何を話すべきか、いろいろと考えています。皆さんのご意見、ご批判をお願いします。

私たちはこの11年、川崎において「共生」批判を展開してきました。その間、世の中は「共生」賛歌で満ち、私たちのような「共生」批判は、まるで「共生」を推進する運動体に対する誹謗中傷であり、超過激派集団ではないかとの陰口を叩かれてきました。

それがこのところ世界の「多文化共生」の先進国から、どうも「多文化共生」というのはマイノリティを吸収していく、国民国家の新たな統治政策ではないのか、という意見が出始め、それを学者が発表しだしたようです。しかし私たちはその世界の動向を知り、日本の学者の見解を学び、川崎で「共生」批判をしていたわけではまったくありません。

私たちは、川崎の「共生」運動の実態を知れば知るほど、これでいいのかと考え、問題の所在は何かを突き詰めるのに10年かかったということです。私たちは、「当然の法理」というのは日本的な差別思想にもとずく政府見解であることははやくから認識できました。従って、川崎が「門戸の開放」を実現しながらも、その根底には、「当然の法理」を前提にし、法ではなく国籍によって、外国籍職員には市民の自由と権利を制限する職務と昇進を禁ずるという川崎の独自の解釈で、市の職員は法に基づいて市民に対するべきという法治国家の原則を破るという大きな、致命的な過ちを犯していたことも分かってきました。しかしそれらのことが「共生」の名の下で、市民・運動体・市の組合・行政が一体となって行われている事態を見て、私たちは「共生」批判をせざるをえなかったのです。今は多くの研究者の助けを得て、新自由主義社会の下での「多文化共生」とは何かという明確な問題意識を持ち始めています。

しかし一方、日経連の外国人労働者の必要性を主張する動きに対しては、早くから批判がありました。そのことも「共生」の名の下で言われだされたので、「共生」はおかしいという指摘もあったようです。しかしそのようなニュー・カマーの労働者の導入に対する批判はありながら、川崎の「共生」運動は在日の提案からなされ、川崎市の外国人施策は日本で最先端を行っているという評価は揺るがず、「共生」が権力と一体化し始めたことにたいする、内在的な批判はなかったようです。

従って「共生」批判には、私たちのような川崎の在日の運動の流れをしっかりと捉えた上での内在的な批判と、ニューカマー政策が「共生」の名の下で行われていることに対する外在的な批判があるということがわかります。

しかしよく考えてみると、この川崎での「共生」の流れは、日立闘争から地域活動をはじめそこから指紋押捺印運動などを経て出てきた概念だとすると、私が40年前から主張してきた、在日朝鮮人として、本名で生きるということは実は共生ということではなかったのか(共生と「共生」の違いは、後者が権力と一体化してきたことを指す)ということに気が付きました。

そうすると今や、本名で生きるということさえ、元入管の職員が在日の新しい像として言い出すようになり、完全に「多様性」とか、「多文化共生」という概念として権力側の言葉として使われてはいるのですが、そもそも在日の生き方として、本国の統一・民主化闘争連帯という政治運動に関わることのみが在日の主体性であり、日本名を使い本籍をいつわるような朴鐘碩の運動には協力できない、それは在日の「同化」傾向に拍車をかけるだけとしてきた民族主体性を求める人たちは、日本に定着し、共生を求める動きそのものを批判してきたのであり、「共生」に対しても外在的な批判しかできなかったという理由がよくわかります。

そしてまた在日の民族主体性を求めて韓国に留学に行きそこで民主化闘争に関わり「北のスパイ」として逮捕された多くの人たちには、これまでその逮捕は南の「でっちあげ」ということでの釈放運動がなされてきたのですが、民衆が国境を越え北に「不法」に行ってきたことが何が悪いのだという論理で、「でっち上げ」論は不問に付されてきました。徐京植氏などは岩波で、そのような北に行き南で捕まった200余名の人の活動を高く評価するような記述をしています。実は私も、総連の幹部から日立闘争のさ中、北朝鮮に行かないかと誘われた経験があります。民族意識に燃え始めた私とってそれは実に魅力的な誘いでした。徐氏が指摘するようなそのような200余名の在日もまた、総連の誘いを受けその手配のもので北に行き日本に戻ってきたことは間違いないでしょう(個人の力でそんなことはできません)。

これまでその行為は在日の民族意識の結果、国家を超えた民衆の行為として、むしろ称えられてきました。しかしよく考えてみると、それは拉致を実行した北朝鮮・総連の組織的な体制において可能であったのではないでしょうか。拉致は無理矢理に日本人を連れていき、在日は自ら総連の誘いに乗り「主体的」に北、我が分断された国の北側に行くのだという自らの意思で行ったということは異なります。しかしそれらの行為を可能にしたのは、実は北朝鮮及び総連の戦略であり、「不法」に自由に国境を越えて北と日本を往来するというシステムがあったからなのではないでしょうか。実に、拉致問題と、在日の「不法」に北に行くという問題は表裏一体ではなかったのかと考え始めました。

在日の主体性論議が最近亡なくなったという立命館大学の主催者の表現に、私はひっかかります。まず、私たちが盛んに論争してきた「在日の主体性論」とは何であったのか、この論議をいかなるタブーを設けず、まずきっちっりとすべきです。以上の論議を進めるに際して、私は、日本は植民地支配の過去の謝罪を行っていないこと、従軍慰安婦や強制労働に対する不払いなど数多くの問題が残っているという点では、恐らく上記の徐氏たちと同じ意見です。また、拉致問題が日本のナショナリズムを喚起し、日本の歴史的な課題を曖昧にしているという点、及びその拉致問題で民族学校の子弟に対する差別事件が続発しそれを日本のマスコミも報道さえしていないという点、でも同意します。

ただし私は、日本人の「当事者性」を問いつめながら、在日もまた、歴史に対する「今日の責任」については日本人と全く同じように問われているという点を曖昧にし、在日の歴史的責任は本国の状況に関わることという認識には同意できません。国境を越え、東北アジアで全民族的な視点から新たな共同体を模索する考え方にも積極的にはなれません。それは李建治が分析するように、韓国という国民国家の前提・強化につがる視点を払拭していないということだけでなく、私にはそれは民族観念であり、国境を超える作業は私たちが生きる、まさにこの日本(私が強調したいのは私たちが住む地方自治体)において、足もとから国境を超える実践を始めるべきであると考えます。これは発題内容ではありません。そこに結び付くかもしれませんが。みなさんのご批判をお願いします。

崔 勝久

skchoi777@gmail.com
携帯:090-4067-9352

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