2007年10月22日月曜日

『在日外国人の住民自治 川崎と京都から考える』を読んで(その2)ー朴鐘碩

「共生」の問題点を探る-『在日外国人の住民自治 川崎と京都から考える』を読んで(その2)

【日立就職差別裁判闘争の抹消】
まもなく40年になる日立闘争の意味と歴史をどう評価するか?
これはいろんな角度から検証する必要があります。
「『ルサンチマンとパラダイムの転換』-上野千鶴子をどう読むか-」参照

山田職員が編集委を務めた市民向け啓発冊子「在日韓国・朝鮮人を理解するためのハンドブック」に、日立判決が掲載されていました(1990年12月、市民局刊)。ところが、国籍条項撤廃宣言(1996年)以降、市は人権資料から日立裁判を抹消しました。
撤廃宣言前まで、市職労・民闘連などの運動体は市役所前で派手なパフォ-マンスを演じ撤廃を叫んでいました。撤廃宣言後は、ピタッ!と止まりました。彼らは、問題があることを認識しながら、(当時の)高橋市長の「英断」を評価し、目頭が熱くなるほど歓迎しました。
外国人に門戸を閉ざしていたこれまでの地方自治体制度の撤廃宣言は、運動体にとって「成果」、行政にとって「英断」の図式を想定し、互いに祝杯を上げるシナリオができる筈でした。「もはやこの川崎・横浜・神奈川で市長の『英断』に抗議・批判する運動勢力はいない」という彼らの予測を裏切り、川崎の撤廃宣言は差別を固定化する、と私は市長に抗議文・公開質問状を提出しました。運動体の図式とシナリオは崩れました。抗議文と公開質問状は、「共生」の実態を暴露・批判する出発点になったと言えます。また、市長の「英断」はなく、国・自治省の事前承諾を得たことも明らかになっています。このような経過もあって、市・運動体・組合は、「運用規程」の問題分析に頭を使うべきなのに、「共生」の実態を次から次へと暴露し批判する「連絡会議」への反発を強めたと思います。

当然、これまで「人権・共生」の契機となった日立闘争を都合よく人権資料に掲載し、利用してきた市・運動体は、今後その扱いをどうするか、検討せざる得なくなったわけです。歴史を歪曲した「つくる会」の教科書が人権団体から厳しい批判を浴びていますが、市は「つくる会」と同じように、日立闘争の成果を都合よく人権施策で利用し抹消しました。
李牧師、裵館長、山田職員3人は日立闘争を語っていますが、ふれあい館に日立闘争の資料はありません。私が館長に資料を求めた時、彼は「どこにあるか知らない」と対応しています。資料がないということはふれあい館に集う人達やスタッフに、地域活動の出発点となった日立闘争の歴史・意味を伝えていないということです。市当局が人権資料から日立闘争を抹消したことも触れていません。
3人の発言は、日立闘争のかわりに指紋押捺拒否闘争を「共生」の起点にしたいようです。確かに、指紋押捺拒否闘争は「全国的な政治課題」となって「『在日』にとってはものすごい転換点」であり、「罪人扱いに等しい」指紋押捺を廃止させたことは、成果を得た闘いでした。
ところが米国の9・11事件以降、テロ対策の一つとして、政府は外国人の取り締まりを強化し、外登法(入管法)を改正しました。ニュ-カマ-と呼ばれる外国人の指紋押捺が義務付けられたのです。この時は「全国的な政治課題」とならず、人権運動体は抗議行動も起こさず沈黙しました。オールド・ニュ-カマ-ズの間で、外国人を差別・分断を生み出す結果になり、新たな問題が浮上しました。指紋押捺拒否闘争は何であったのか、人権運動のあり方・総括が改めて問われることになりました。
(李)「自治体の意識変化」は、「私はある意味で82年が境だと思います。」
(裵)「一般論としては、指紋の問題ぐらいから意識をしてくるというのが一つの見方です。」
(山田)「指紋押捺拒否闘争で、『在日』の問題が『在日』の多住地域だけの問題ではなく、やっと全国的な政治課題になった」
(裵)「91年というのは我々『在日』にとってはものすごい転換点だと思っているんですが意外とそういう認識はありません。」
(裵)「70年代に始まった(日立闘争と言わず)権益擁護闘争が、行政闘争に広がりを持っていくわけです。」
(李)「最後になるけれども、私個人に即していえば日立の就職差別と闘いながら『在日』の問題に関わってきました。」
こうした発言から、地域運動と日立闘争の繋がりを「できるだけ否定しよう」としているのではないか、と思います。彼らの思惑は別にして、生き方を賭けて作り上げた民衆の歴史を消すことはできません。

【地域と教育現場】
李仁夏・裵重度・山田貴夫・江橋崇・宇野豊・崔忠植・文京洙・姜恵楨の8氏が後半で座談しています。
「今の国旗国歌の法案の問題だとか、教科書の問題、そういうことにものすごい影響されて、やっぱり私は日本人なんだから日本の教育をきっちり受けたいと。・・地域の学校の卒業式では、来賓の人は喜んで立って、我が意を得んという感じで、君が代を歌うわけですよ。私は歌うのがいやだから終わってから入場するんです。それだけでもうやり玉ですよ。」と、東九条の崔園長は現場の状況を語っています。「共生」をめざす地域も右傾化とナショナリズムの問題を避けることはできません。
李牧師は「チマチョゴリを着た民族学校の子どもがいじめを受けるということは川崎ではないということが、朝鮮学校の尹日赫校長によって発言されているのを見ても、今おっしゃられた現象が川崎ではあまりない」と、競争を煽る受験戦争・ホームレスの人たちへの虐め・差別の現実を考慮せず、「共生」の成果を自慢しているようです。
李牧師がナショナリズムの問題にぶつかった時、どのような姿勢で臨むのか?公立学校に通う子どもを持ち、人権運動に関わる親は、国旗・国歌とどう向き合っているのか?校長・担任教師に中止を求めているか?という課題は避けています。企業もナショナリズムを煽っていますが、(連合)組合は黙認しています。

市が青丘社(ふれあい館)に委託しすべての児童を対象にした「わくわくプラザ」で小1児童が2階窓から転落し、頭蓋骨骨折の重傷を負った(2003年11月11日マスコミも大きく報道した)事件の根本原因は未だに究明されず、書類送検されたにも拘らず、理事長や館長をはじめ誰も責任をとっていません。民間(企業)ではありえないことです。
企業・組織の不祥事の内部告発、欠陥製品の暴露、無理なノルマから起こる人身事故が発生していますが、企業は、製品の不良が発覚すれば根本原因が判明するまで徹底的な原因追求・再発防止・責任が問われます。人身事故であればなおさらです。
(「拝啓 ふれあい館副館長 三浦知人様」崔勝久)参照。http://homepage3.nifty.com/tajimabc/new_page_78.htm

ふれあい館周辺の大ひん地区(桜本を中心とする7つの町)の公立学校、神奈川県の「ふれあい推進校」で「差別を克服する実践が公教育の現場で実施された」と書かれています。
しかし、事件(事故)の責任を現場の人間に押し付け、真の事故原因も解明できないのに「差別を克服する実践」ができると思えません。また教師自身が言いたいことも言えない、沈黙を余儀なくされている現場で他人の子どもの人権を本当に擁護できるか疑問です。管理職である校長・教頭は国から国旗・国歌を義務付けられ、教師に押し付け現場を監視する役目を担っています。反対・批判すれば厳しい処分を受けます。主任制導入、管理強化、負担増大の中で教師たちは声を発することも困難な状況です。

連合傘下の組合・組織は、自治体職員、教師、企業の労働者の個を認めず、「共生」を強制しています。民族差別・排外主義の裏に(教育)労働者への人権抑圧があり、差別を制度化した「運用規程」があります。許認可権のある管理職に外国人は就けないと明記しているわけです。韓国人は校長・教頭になれないということです。さらに教え子たちは非常勤になれても正式教員になれません。川崎市が「運用規程」を改悪し、職務制限(差別)している事実を、教師たちは教え子にどう説明しているのでしょうか?
地域のオモニ(母親)から「自分の子どもが就きたい職に就けず国籍を理由に(就職)差別されたらどうするか」と、問われた市の人事課長は、「諦めさせる」と応えています。この官僚職員の返事は、市長の「外国人は準会員」と同じ、つまり「外国人は2級市民だから差別に屈服しろ!」ということです。
また、川崎市は、国籍条項撤廃宣言、「運用規程」完成、外国人市民代表者会議発足後まもなく新たにポ-ルを設置して国旗を常時掲揚し、23年ぶりに中止していた自衛隊員募集を再開し、映画「南京1937」を上映する市民団体に対して妨害する右翼団体の行動に屈して会場変更を求める要請書まで出しています。さらに市(教委)は「つくる会」教科書採用を否定しませんでした。
李牧師、裵館長、山田職員3人は、「共生」と現実が乖離している一方でこうしたナショナリズムを煽る市(権力)とどう対峙するのか、座談で一切議論していません。

民族差別という狭い視点と「共生」スローガンだけでは、戦争に向かう国家権力・行政と対峙することはできません。社会全体が右傾化している中で、川崎市が配慮して弱者である外国人への差別・抑圧を緩和し、権利を拡大し強化することはありません。
あるとすれば、「パ-トナ-」である市職労組合、運動体を利用して、問題点、課題、矛盾を隠蔽し、表面的に飾った限定された範囲の「共生」を拡大するだけです。
李牧師自ら、「共生というのは上から行くと同化になってしまう。少数者の個別に生きる主体が発信することを受け止められる社会が本当の意味の共生で、そういうものを目指せる運動がこれから大事」「鄭大均氏の意見が地方参政権の中ですっかり権力に取り込まれてしまっていますね。それは非常にある意味で危ない」と語っているように、「共生」は、運動の「成果」を刈り取り、常に弱者を痛めつける権力の思想であり策略です。(鄭大均氏も後で述べる地域活動に一時的に参加しました。)
東九条の宇野氏は、「行政は権力です」「行政とのパ-トナ-シップ」とはっきり言っています。弱者を虐げる権力を批判・糾弾せず、何故運動体は行政と一体となって「共生」を賞賛・強調するのでしょうか?いくら当事者が「力のある側に自らを置く同化ではなく、社会的少数者側が発する共生への参画を呼びかけ」ても、権力は人権運動の「成果」を逆手にとって悪用し、組合・運動体を包摂し、社会的弱者を抑圧・分断・管理・統合します。運動側の成果を述べるだけでなく、その成果が為政者の立場からはどのように見えるのか、その両面を見ようとしない運動の評価は一面的です。ふれあい館建設の意義を語るとき、同時にそれが市の委託事業であり、市の民営化政策を担う施策であったことも押さえなければなりません。物事は多面的に評価しないとその全容が見えません。

【「多文化共生教育とアイデンティティ」】
「桜本保育園の開園」
「長女の公立幼稚園への入園手続きの際、“向こう岸の人がここに入っちゃいけません”と断られたのが、被差別体験の原型となる。あとで牧師の子どもであることから入園を認められたものの、この原体験が李仁夏牧師に対して在日同胞に目を向かせるきっかけかけとなった。」(P64)この文書を読んで「あれ?」と思いました。
李牧師は、「長女の入園差別」事件を、最近特に強調しているようですが、私が教会に出入りしていた頃、あまり聞かなかった話です。「在日同胞に目を向かせるきっかけとなった」のであれば、日立闘争以前から差別した幼稚園に抗議した(?)歴史があるということになります。
その歴史があるのに、当初、何故教会が就職差別に関心を示さなかったのか疑問です。礼拝後、崔氏は信徒から冷たい視線を浴びながら必死に日立裁判を訴えましたが、役員の中には教会が支援することに反対する人もいました。日立本社糾弾闘争の頃からマスコミが大々的に報道しても、「本当なのか?」と疑う雰囲気さえありました。
「牧師の子どもであることから入園を認められた」のであれば、「牧師の子」でない、差別に抗議もできない、弱い立場に置かれ不安定な生活を強いられている多くの朝鮮人の子どもが差別されていた当時、どうして地域で何のアクションを起こさなかったのか?という疑問が生じます。
日立闘争、地域活動のような人間解放を求める運動は、教会信徒の全面的な協力・支援を得るまでに紆余曲折を経て時間を要しています。
人権運動は「個」から始まります。当事者が「おかしいことはおかしい」と主権を訴えて闘いは始まるのです。運動体・組織は沈黙、静観するだけです。私は、普通に生活していたおばさん、あのアメリカの公民権運動の発端となったおばさん・ロ-ザ・パ-クスが座席移動を拒否した時、彼女はどのような考えで拒否したのか?を考えます。彼女は、人間として「おかしことはおかしい」という単純な怒りと疑問から行動を起こしたのではないでしょうか。

日立闘争の意味を訴えた崔氏が、教会青年から「同化論者である。日立闘争は同化に繋がる。」と青年会の代表委員をリコ-ルされた時、「長女の入園差別」を体験し、日立闘争を支援した李牧師は、自分の信徒である崔氏をリコ-ルした「事件」にどのような対応をしたのか、在日韓国教会はその後、リコ-ル事件をどのように総括するのようになったのでしょうか、気になります。

「桜本学園の前身-池上町子供会」
「子供会は、1974年8月から週2回、町内会館・民団韓国会館を借りてその実践が始まる」と誰が語ったのか?「週2回」は間違っています。
全く何もない状態から始めた子供会は、まずチラシを作成し子どもたちに配布することから始めました。それは、子供会と言える内容ではありません。土木作業、ダンプ運転手、水商売などきつい不安定な職で生計を立てる親を持つ、迷路のような細い路地で遊んでいる子どもたちにとって、青年たちは、「良きお兄さん、お姉さん」であり子守役でした。予測したようにオモニ(母親)から出た言葉は、「総連なの?民団なの? えっ!教会の人なの。あんたたちももの好きな青年だね」と皮肉られ、毎日顔を合わせるようになると「信頼」関係ができるようになったのです。
教会は、差別に苦しむ地域住民の実態、社会問題に目を向けない信仰理解とは何か?と問われていました。観念として理解するもののいざその問題に直面した時、李牧師はじめ教会役員、保母たちから「新築されたばかりの教会・保育園が汚れる。子どもたちが暴れて教材・設備を壊したら誰が責任持つのか?」という子どもたちへの偏見・反発が当然のように出てきました。教会・保育園は使用できませんでした。それでも青年たちは外で子どもたちの遊び相手となり「週2回」(と決めることはできる筈もない)でなく毎日プール、炎天下でソフトボール、夜は空き地で花火をしました。教会を開放するように関係者を説得したのは(後の青丘社の初代主事)崔勝久氏です。青年たちは、夜・反省会で出会った子どものこと、その子どもの親は何をして生活しているかを話し合い、翌日のプログラム・教会から池上町まで歩いて子どもを集める準備に追われ、教会青年会室で寝泊りしていました。翌年から町内会館です。

李仁夏牧師は、「同化ではなく共生を-『在日外国人の住民自治』出版にあたって」「二つの地域運動(川崎・桜本と京都・東九条)は力のある側に自らを置く同化ではなく、社会的少数者側が発する共生への参画を呼びかける。それは少数者側が責任主体となることを意味する。」と書いています。「共生」は運動体を包摂する権力のイデオロギ-である、と主張する「連絡会議」の批判を意識し反論しているようです。
しかし、呼びかける主体が少数者(「共生」批判する市民団体「連絡会議」)を排除しています。批判・問題・矛盾を隠蔽し、自分たち組織にとって都合のいい、仲間内の意見・成果だけを取り上げ「共生」を賞賛・賛美することは、馴れ合い・癒着・寄生であって共生と言えません。李牧師の「共生」は明らかに偽装です。
そもそも弱者との「共生」を求める人たちが、「感情的な反発」で意図的に真摯な議論・対話を避け、権力者(強者)と同じ手法で、何故批判(者)を無視し、排除するのでしょうか? 弱者である外国人の声を「市政に反映」するために外国人市民代表者会議を求めた人たちが、何故批判(者)を排除するのでしょうか?人間性、信仰理解、理性が問われます。

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