2007年9月18日火曜日

「共生」批判についてーURLの釈明

URLがanti-kyoseiになったことで「反・共生」と捉えられるという指摘
がありました。

日本語のメインタイトルは「『共生』を批判する」ということで、「反・共生
ではないことを改めて表明いたします。

私たちは「共生」と共生を使い分けています。即ち、上野さんが基調報告
で強調されたように、共生ということばそのものに一定の意味・内容が
こめられているわけではなく、その単語によって何を、どのようにしようと
するのかという動機(思惑)、及びそれを政治的にどのように利用している
のかという実態が問題になります。

共生はもともと生物学の分野で使われていた単語で、たしかに差別の
不当性を求めるときに当事者から発せられる言葉でもあります。
在日する多くの外国人との関係のあり方を模索するときに、その共生と
いう単語が使われ、そこで地道な活動があることをよく知っています。
私たちは、それらのこと全てを「反・共生」ということで否定しているのでは
ありません。

7・15集会の事務局の見解(ブログ内に掲載)、を読んでいただければ
私たちの立場はよく理解されるものと思います。

具体例を挙げましょう。川崎の青丘社理事長の李仁夏氏は、自分たちは
マイノリティの立場で共生の必要性を訴えているので、マジョリティが(
少数者の包摂のために)使っているのとは意味が異なる、ということを
過日強調されていました。

しかしそうでしょうか。少数者が権力者と提携して、少数者の立場を強調し
(「反権力の権力」(李建志『朝鮮近代文学とナショナリズム』)、一定の
既得権を与えてもらったために権力者の問題点を指摘しないというのは、
共生が少数者か多数者のどちらから発されたかということより、差別・
抑圧の固定化であり、自らが「権力者」になっていること に無自覚なので
あろうと推測します。そうでないと、外国人は「準会員」と 言い放つ阿部
市長に、その「口封じ」をしたなどということを放言するはず がありません。

差別・抑圧に対して「共生」という名の下で、一定の飴を与えながら・
その当事者に対する差別・抑圧を固定化するというのは権力にある
ものの常套手段ではありませんか。私たちは、そのことを国民国家の
原理的な問題ではないかと考えています。

少数者の当事者が、自らを差別・抑圧する為政者に対して、その非を
諌めるのでなく、みずからその為政者の作るシステムに参加していく
ことをスローガンにするというのは何ということでしょうか。「要求から
参加へ」とは、差別だなんだといわないで、外国人も政治の枠に入って
行こうという提案です。これは誤りです。参加をして、何をしてきたの
でしょうか、何をしているのでしょうか。この10年で全てが建前であった、
結局は為政者にとって(宣伝の意味で)価値があったということでしょう。
しかしこの外国人市民代表者会議という川崎方式は、東京、横浜から
地方に広がる様子です。そのいずれもがまた、それらが単なる
「ガス抜き」であったことに気つくでしょう。

行政と運動体が一体になって賛美するのが、外国人市民代表者会議の
設立です。決定権もなく、市長への諮問の立場で、それもその参加者の
決定に様々な問題があるのに、どうしてそれをそのほど大きな成果として
報じてきたのでしょうか。上野千鶴子さんの基調講演の最後の「応用問題」
で、川崎の問題点をいくつか指摘されました。彼女はその中で、外国人
市民代表者会議は「行政のパターナリズム(温情主義)」と看破しました。
李先生もそれを認めざるをえなかったようです。

ということで私たちは、共生ではなく、「共生」を批判するのです。


事務局

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