★北岡伸一『福沢諭吉と明治維新 独立自尊』(ちくま学芸文庫)の最後の福沢評。そう、そうだろうな、納得する。
「『学問のすゝめ』や『文明論之概略』で切り開いたものは、福沢個人において実践されたことによって、さらに巨大な影響を後世に及ぼしたのではなかろうか。その意味で福沢はやはり近代日本最大の精神的指導者であったのである。」
北岡伸一は、福沢は大陸膨張政策の源流ではないとして以下の4点を挙げる。本当にそうなのか?
1)日清戦争を文明の野蛮に対する戦争とする福沢の見方は「簡単に否定できない」。「清国の影響下にあったのでは、朝鮮が独立を維持できないことも、発展できないことも、ほぼ明らかであった。」
2)福沢は朝鮮の独立を本気で考えていた。「朝鮮の併合や保護国化を明確に否定していた。」
3)福沢は政府の肥大化に反対し続けた人物であり、植民地化に賛成したとは考えられない。
4)福沢は日本の将来は貿易立国と考えており、大陸国家となることに日本の未来がかかっているとする大陸主義者の発想と無縁である。
★福沢が「時事新報」を創設したのは明治15年3月1日。その方針は独立不羈。「一身独立して一国独立す」を主義として推し進めることを目的とした。「畢生の目的、唯国権の一点に在する」とある。
それがどうして征韓論にいくのか、この点を福沢の著作を読みながら解き明かせるのかが、課題。
★「福沢は、日本を代表する知識人であるのみならず、世界クラスの思想家である」という著者の「はじめに」に書いた言葉に、私は同意する。「福沢を第一級の知識人たらしめているのは、彼が直面した課題の大きさと、それに対して示した彼の回答の深さである」。
しかし何故、征韓論にいくのか、それは彼の日本を第一級の国にならしめたいという思いからなのであろう。ヨーロッパの偉大な思想家でヨーロッパのアジアの植民地支配を批判せず、当然視していたことと同じなのだろう。福沢に対する内在的な批判が必要不可欠だと思う。それは近代批判につながる。
★『学問のすゝめ』が書かれた時期について
北岡伸一『福沢諭吉と明治維新 独立自尊』(ちくま学芸文庫)より 140頁
「『学問のすゝめ』は、廃藩置県と岩倉使節団の出発直後に書きはじめられた。そしていったん終わったかに見えたが、征韓論で政府が分裂した直後に、再開されて書きつづられ。西南戦争勃発の直前に完成した。『学問のすゝめ』は、まさに明治維新の完成期に書き上げあげられたのである。」
★「授業料」という単語は福沢の命名!
北岡伸一『福沢諭吉と明治維新 独立自尊』(ちくま学芸文庫)より 128頁
「教授も矢張り人間の仕事だ、人間が人間の仕事をして金を取るのに何の不都合がある、構うことはないから公然価(値)を決めて取るがよいというので、授業料という名を作って・・取り立て」
★福沢は1862年の二回目の外洋で「二都二港の開市開港延期要請」のために幕府の通訳(特使)としてヨーロッパに行き、ロンドンから友人に手紙を送っている。このときに国の制度や陸海軍の規則、貢税の取り立てに関心を持ち、富国強兵の必要性(重要性)を強く意識するようになったようです。
「先ず当今の急務は富国強兵に御座候。富国強兵の本(もと)は人物を養育すること専務に存じ候」
まだ確認はできていませんが、ここに福沢の征韓論の目覚めがでてきたのではないでしょうか。
★福沢諭吉『文明論之概略』を読み進める
これは福沢から1世紀半近く経った現在からみて、正当で的確な文明論のように思える。福沢は侮れない、もっとしっかりと彼の実態を把握しなければならないと強く思う。
第三章 文明の本旨を論ず
1) 文明とは何ぞやー文明第一主義者ですね、福沢は
・「人間万事、この文明を目的とせぬものはない。・・・すべてにわたって、その利害損失を比較計算するには、・・・もっぱら文明を進歩させるものを利としてこれを退歩させるものを害とするほかはない。・・。いたしくもこの文明を助ける効能があれば、その欠点にはしばらく目をつぶらなくてはならぬ。」
2) 不文未開の四態
3) 文明とは人の知徳の進歩なり
・文明とは、・・・衣食を豊かにするとともに、人格を向上させることである。
・安楽と高尚をもたらすものは、人間の智徳なのだから、文明とは結局人の知徳の進歩といってよいわけだ。
・文明国と称する国でも、必ず幾多の欠陥があるのは当然であろう。
4) 政治の体制は必ずしも一様なるべからず
・君主制時も必ずしも不便ではなく、共和政治も必ずしも良いとはいえぬ。・・・だから政治は、その内容について見るべきで、体裁だけで論じてはならぬものである。
・形式にこだわって、実質を無視する弊は、古今にすくなくないのである。
5) 君主の倫は天性にあらず
6) 合衆の政治も至善にあらず
7) 諸国の政治は、今正にその試験中なり
・政治は人間社会の一要素にすぎないのだから、その一要素の形だけを取り上げて、文明の価値を判断することはできない。
・現在の世界の文明は、まだ進歩の途中にあるのだから、政治も同様に進歩の途中にあるということはいうまでもない。
・文明は1頭の鹿のようなものであり、政治や学問や経済などは、各々これを追う猟師のようなものといえよう。
・射法にばかりこだわって、肝心の矢を射あてることができず、みすみす獲物の鹿を失う如きは、狩猟に拙劣なものといわなければならない。
★福沢諭吉 『文明論之概略』を読み進める
うむ、侮れない!
第一章 議論の本位(基本)を定むる事
第二章 西洋の文明を目的とする事
1)世界文明の三段階―文明・半開・野蛮の格付け
2)三段階の特色
3)今の西洋文明も理想の世界にはあらず
「文明には限りのないもので、もとより今の西洋諸国を以て満足すべきではないのである。」
4)西洋文明は現在わずかに達し得たる最高の文明なり
「ヨーロッパの文明を模範として、それを価値判断の基準と定めなければならぬ。そして、この基準に照らして、自国の利害得失を考えなければならぬのである。」
5)文明の外形
「文明には、外に現れた現象と、内に存する精神との二通りの区別がある。・・外形の物質文明は取入れ易いが、内面的な精神文明を学び取るのは容易でない。」
6)文明の精神(人民の気風)-一国の人情・習慣、西洋文明を愛する精神
7)人心の改革こそ先決なれ
「自然に国民一般の知性や徳性を進歩せしめ、次第にその見識を向上させる以外はない。」
8)文明の要は、人事を多端ならしむるにあり
「文明を進めるのに大切なのは、つとめて人間社会を多事多端にして、欲求を繁多ならしめるにある。」
9)支那の元素は一なり、自由な議論の根絶
10)日本の元素は二なり
・神権政治を尊ぶ精神、武家政治に服する精神、合理的な批判精神→自由な気風→思想に富む
・シナ人の意識は一元的であり、日本人は二元的
・西洋文化を摂取するのに、日本人はシナ人よりよりも容易
11) 国体とは何ぞや
・国体は一種族の人民が集まって団体をつくり、苦楽を共にし、その独立を維持するもの
・国体が残ったか亡びたかは、その国民が自らの政権を失ったか否かによる
12) 政統(political legitimation)についてーその国で行われて、広く人民に是認されてい
る政治形態の本筋―国体を維持するギリギリの条件は、他国の人に政権を奪われぬという一事
13) 血統(皇統)についてー国体と政統と血統
・日本が国体を失わなかった理由―言語風俗をともにする日本人の手で日本の政治を行い、外国に少しも政権を渡したことがないからー金甌無欠
14) 皇統を保つは易く、国体を保つは難し
・西洋の文明はわが国体を強固にし、同時に皇統の光をも増すべき唯一の手段である。
15) 故習の惑溺は政府の虚威を生ずー実威と虚威
16) 文明に依頼して王室の実威を増すべし
・国体は西洋文明によって決して害われるものではない。むしろ文明の力によて、皇室の威光は増すのである。
17) 世の事物は、ただ旧きを以て価を生じるものにあらず
★福沢諭吉の『文明論之概略』を読みはじめます
第一章 議論の本位(基本)を定むる事
1)事物の評価には、軽重の比較が必要なり
「藩を廃したのは、やはり背に腹は替えられるたぐいであり、大名武士の生活を奪ったのは、鰌(どじょう)を殺して鶴を養うようなものである。」
2)事物の研究には、究極の本質を追求せざるべからず
3)議論には、まず基本姿勢を定めざるべからず
4)結論のみを見て、論拠を速断するなかれ
5)極端論にふけるなかれ
6)両眼を開きて他の長所を見るべし
7)世論を憚ることなく、わが思うところの説を吐くべし
8)一身の利害を以て、天下の事を是非すべからず
9)本書の趣旨―前進の意志の有無
★福沢諭吉の『文明論之概論』緒言より
1) 文明論とは「社会全体の人々の精神発達を総合的にとらえて、その全体を研究する」衆心発達論なり
2) 東西の文明その元素を異にす
・西洋文明は、国民御精神に大波乱を生じたばかりか、心の底まで百八十度の大旋回を起こさざるを得なかった
・王政維新と廃藩置県
・人心の変化―西洋の文明を取り入れようとする熱意
・日本の文明は無から有を生ぜんとするほどの突然の変化で、文明の創造(creation)
3) あえてわが文明論を著す所以は何ぞやー封建文明と西洋文明の経験
・前半生に味わった封建文明と、後半生に知り得た西洋文明とを対象
・今日のわれわれだけが遭遇して、後の日本人が再び遭遇し得ないこの千歳一遇の機会を利用して、我々の所見を書残し、将来子孫の参考にしな得ようとする考えにほかならない
★福沢諭吉の「学問のすゝめ」初編に「その見るところ甚だ狭く、諺にいう井の底の蛙にて」と書かれた箇所がでてきます。橋本治『精読 学問のすゝめ』p123
橋本治の『精読 学問のすゝめ』を読んでいて横道にそれ、「井の中の蛙大海を知らず」という荘子由来の言葉が日本に伝わり続きの文がつけられるようになり(「されど空の蒼さを知る」など)、肯定的なニュアンスになったことを知りました。
「井の中の蛙大海を知らず」は、「見識が狭い」という意味のことわざです。中国の「荘子」が由来とされていますが、日本に伝わった後に続きの文がつけられるようになりました。続きの文は「井の中の蛙大海を知らず、されど空の蒼さを知る」など、いくつかあり、意味は「見識は狭いが、その世界の深いところまで知っている」です。続きの文があると、少しポジティブな印象になります。
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