2020年5月7日木曜日

韓国のィ・スンム博士の講演「帝国文化と21世紀のキリスト教」

韓日反核平和連帯代表のイ・スンム博士の講演内容を翻訳しました。「THE COLLAPSE OF CIVILIZATION」(文明の崩壊)を韓国で翻訳・出版されたときに講演された内容です。
 現代の帝国文化は文明を作り上げたが、その文明は自然を破壊するなど多くの問題を抱えており、キリスト教はその文明の普及に加担してきてきたのではないか、人間社会は地の生命の均衡を取り戻す必要があるのではないかという根源的な問題提起です。

平信徒説教: イ・スンム博士「帝国文化と21世紀のキリスト教」、列王記上121-14


 王とともに育った若い臣下が彼に言った。「この民は、王様の父が彼らに科した重い首枷を軽くしてくれと言って、王様に要請しました。 しかし王様はこの民にこのようにおっしゃってください。 '私の小指一つが私の父の腰より太い。 私の父が君達に重い頚木を埋めた。 しかし私はもう君達にそれよりさらに重い頚木を埋める。 私の父は君達を皮鞭で鞭打ったが、私は君達を鉄鞭で打つ'とお話してください。" 王が民に三日後にまた来なさいとしたので、ヨロボアムと全民は三日間になる日にルホボアム前に出てきた。 王は元老の忠告は無視して、民に苛酷に答えた。 彼は若者の忠告どおり民に言った。 "私の父が君達に重い頚木を埋めた。 しかし私はもうそれよりさらに重い頚木を君達に埋める。 私の父は君達を皮鞭で鞭打ったが、私は君達を鉄鞭で打つ。"

 今私たちは私たちに食べ物と飲む水そして息を吸う空気を供給してくれる自然が危機に置かれた、そんな時代に生きている。 その原因は私たちの人間にある。 私たちはそれは人間が他の動物と異なる点を人間が作り上げた文明のためだと分かっている。 

 ところでその文明を作った柱の中に宗教があり、都市と農村で成り立つ国家があって、結婚と家族と男女差別の秩序がある。 この文明は数十万年に達する人間共同体の歴史にあって帝国文化の時代を示す。 帝国文化の特徴は軍事主義と家父長制と成長イデオロギーである。 この文化の中で人々は地の生命と分離して位階秩序を成す社会にあって内面的に病んでいる。 その結果、地がぼろを着るようになって土壌侵食が起き、青かった大陸が荒凉たる砂漠に次第に変わっていったのである。 その証拠が旧大陸あちこちに散らばっている。

 代表的に中東地方がそうで、アフリカ北部地域がそうで、中国西部地域もそうである。 人類の定住生活が始まって農業と牧畜業が青い森を滅ぼすようになったのだが、このような土壌の養分強奪と土壌侵食が起きるのは都市と農村の分離、都市による農村の収奪、軍隊の維持と侵略戦争による帝国秩序の維持のためである。 
 その中に生きて行く人々の精神は文化と教育によってそれに合うように調整(conditioning)されている状態になる。 その一例として赤ちゃんが生まれる時からいわゆる文明圏と非文明圏の赤ちゃんに対する取り扱いがあまりに違い、文明圏の赤ちゃんはひどい生来のトラウマに苦しむという。

 このような帝国文化は近代以前には旧大陸の東アジア、ヨーロッパ、北アフリカなどいくつか所に限定されていたが、植民地開拓と帝国主義時代になって地球隅々に浸透して自然と共生する土着民社会を暴力的に覆して破壊したために、私たちは西ヨーロッパの近代産業文明と帝国主義が環境破壊と自然荒廃化、資源枯渇の主犯であると考えるようになった。


 私たちの東アジア文明は稲作を中心とする。 稲作を新石器時代から数千年間担ってきたが東アジアの土壌は枯渇せずに安定した均衡を維持してきた。 人と家畜と植物が共生する農村を維持してきたのである。 化石燃料と化学肥料に依存する70年代の緑の革命以後、土壌は酸性化されて養分が枯渇していった。 その後に道路拡充と乱開発で土壌が侵食されて農村環境は次第に荒廃化されていった。 


 その過程をよく見れば、農村の有機物質均衡が大都市建設以後破壊されて養分が一方的に都市に流れたということができる。 東アジアの帝国文化は概して儒教文化といえるが、これは家父長制による徹底的な男尊女卑と班常差別の身分社会であって国家による農村収奪があったが、とにかく石油を使う前までは海外侵略に依存せずに均衡を維持してきたと見ることができる。 帝国文化の弊害は東アジアではアヘン戦争を通じたヨーロッパの侵略、日帝の侵略と植民地単作農業体制が始まって本格化されたのである。

 しかし私たちが記憶する歴史は我が国の歴史だけでも戦争の歴史であり、支配階級による農民と技術者搾取の歴史であった。 そうして見れば文字で記録された歴史で帝国がなかったときはないが、 そのことは宗教と文明で包装された。 特にキリスト教は近代以後、西欧産業文明が全世界に広がって行く過程に深く介入して土着文化破壊の正当性を提供する理念になったから、結局今日の時代にはキリスト教教理と神学が環境生態主義者、文明批判家、民族解放運動家、フェミニスト、平和運動家、社会主義者、民主主義者によってまな板の上に上げられ分析と批判、解体の対象になっている。


 私たちは今帝国文化の病弊が極度に達し多くの人がこれを理解するようになって、今やもうこのような文化と体制は持続できないということを感じる時代に生きている。 どういうわけか(?) クリスチャンになった私たちは、韓国の多くの同僚クリスチャンが地球上でキリスト教文明と呼ばれる西欧産業文明のヘゲモニーが揺れるのに不安感を感じてキリスト教のこの間の否定的、破壊的な態度を擁護する姿を見て、多くの懐疑感と幻滅感を持たざるを得ない。 


 今はキリスト教を捨てて時代にふさわしい他の宗教を持つか、何か新しい信念を持つかしなければならないのではないかと平信徒なら悩むことだろう。 それとも元々キリスト教はそのようなものでなかったし、侵略と搾取と破壊に先頭に立ったキリスト教は似非だったという宣言が教会指導部から出されなければならないだろう。

 私たちが見る聖書には帝国文化の抑圧的な姿、家父長制と軍事主義が無批判的に包装されて入っている。 今日、本文で提示した列王記上12章はその一つの例だ。 帝国の外れにある小さい国が生半可に巨大な帝国の真似をしようとしたが民が反発して国が真っ二つになり始めるとんでもない場面である。 

 一方これを批判して審判する予言者の声も入っている。 実は列王記上12章の話はイスラエル歴史の中でとても恥ずかしい話で、そのような痛い記憶が歴史に記録されている。 その歴史を記録して読むユダヤ国の人々は帝国に付いて行こうとした先祖についてどのような考えを持つようになるか? これが重要である。 聖書が西洋の帝国文化を伝えて土着文化を破壊したキリスト教の立場を支えるのではなく・・・

 エジプトとパレスチナにユダヤ人の一派でエッセネ派といわれる人たちの共同体があったという。 この人々は帝国文化が支配するエジプトとパレスチナで修道院を作り帝国文化とは異なる方式で暮らしたらしい。 「エッセネの平和の福音」という本が我が国でも翻訳されているが、聖書学者はこれは捏造されたと言い、学術的に検証されたわけではない。 とにかくエッセネ派の人々は修道院の生活をしながら平和に関して暝想して地と調和を成す農業で生計を立てたといわれている。 彼らは都市文明と遠く離れた所で生活したのである。



 キリスト教はそんな社会システムが絶頂に到達してから次第に崩壊して行く時代に芽生えた。 イエス様の福音は帝国文化で疲弊されたパレスチナの民衆には解放のうれしい知らせであって、私たちが知るキリスト教のように帝国文化を伝えた媒介物ではなかった。 イエスの教えは捕虜になった者に自由を、目の見えない者にまた見えるようになることを伝え、抑圧された者を自由にして、稀年の年を伝える教え、盲人が見、歩くことができない人が歩き、らい病患者がきれいにされ、耳の遠い者が聴けるようになり、死者が生き返って、貧しい者に嬉しい知らせを伝える教えだった
 
 西洋で古代ギリシアロマの奴隷制社では土が荒化されて持可能でなかった農業が持してから中世時代にはかなり安定した村位の農業が行われた。 そのように見たら現代産業社は古代ロマの奴隷制社と似ており、海外労働力と資源の奪に基礎を置かないと可能でなかった社ということができる。

 イエス・キリストの教えを今日改めて生かそうとするキリスト教は、抑圧された人、病人、貧しい人に自由と健康と幸福をもたらすことを重要視するべきである。そうであれば、帝国文化のために自然環境が破壊され、破壊された自然環境のために貧しくなり、病気の人々は、軍事主義と家父制裁、成長追求価値観のために精神的な強迫観念によって偏った精神を持って、ストレスとトラウマの中で生きる人々に健康と幸福をもたらすことに関心を払うしかない。これが今日の平和運動であり、イエス・キリストが今日生きていれば間違いなく実践している運動である。私が翻訳した本は文明自体の壊滅的な属性を扱い、その破壊の歴史を含んでおり、これらを克服することができる芽に該当する事例を紹介してくれている。私達は21世紀にこれ以上ためらう時間がなく、生命と地球と人間を生か平和運動に同席しなければならず、この本はその教材に該当する本として推薦したい。最後にこの本の重要なメッセージに該当するする文を読みながら話を終えようと思う。


 “危機が深いため私たちの応答は同じように根本的でなければならない。 私たちは当然、地と完全に違う方式で関係を結ぶ、完全に新しい人間文化を創造することを提案している。 私たちは力、堪える力を求める。 私たちは殺したり強制する力がユートピアへの道と思われていた弱点の場から脱している。 その概念の弱点が帝国のこの最終的循環局面での地球的自殺で明らかになる今、積極的方式で対応することを選択する者は、多くの自然文化の種と文明によって創造された本当によいものを集めて <黙示録>的状況を持って通過して行く必要がある。

 私たちの努力は個人的・社会的・生態的そして宇宙的均衡を回復するのである。 私たちはこの地球上での生命の自然的パターンを私たちの案内者として採択することでこれを行うことを提案する。
 自然界は分けられたエネルギーの世界だ。 生命を与えてくれる日光は緑植物によって拾われ生きている森に変形される。 生命エネルギーは循環して、変形して、生命の網でずっと循環する。 この循環とともに土の緩やかな形成が起きて地球がさらに多くのエネルギーを拾い上げることができる緑植物を支える追加能力を提供して、システムをその生物学的継承の最高、地球の生命内でのその力学的均衡に追いやる。 

 人間有機体内でエネルギーの均衡が多くの物質と栄養素の膨大な配列中に意識的に維持されるのと同じように、力学的均衡は絶えず相互作用する数十億の生命過程によって地球有機体中で維持される。 知性だけで人体の機能を決して導いて管理することができないのと同じように、地を創造して維持してきた宇宙的知性よりさらに優れたかたちで地の生命に関する意思決定を人間知性ができる方法はないだろう。

 地球の生命は温度、圧力そして湿気が極端に変異を見せる地をその創造性で覆う能力がある。 地球生命の創造性と適応性は、生命が地球表面のすべての部分でその知性を表現することができるように承諾する形態と機能の多様性に向けた突進と結合する。 
 完全な生命の保証マークは一致の中の多様性である。 地球生命は各生命体がそれ自体で一体だが、そうしながらもさらに大きい全体の一部分になるやり方で、多くの一体内での一体の逆説として機能する。 地球的生命の統一体そして無数の絶えず作用する生命過程すべてがお互いに間の関係を維持する。 すべては繋がれて、一つの調整は何であっても他の調整を引き起こしてそれらは自分たちの存在の新しい条件に同時に適応する。 
 創造性、均衡、適応性、分けられたエネルギー、一致-多様性、変形と関係は私たちが生命に根本的と見る行動様式である。 生物のこのような行動は意識の脈絡の中で生まれる。 各生命体は意識がある存在者だ。 意識はその生命体を捕まえてくれそれに生気を与える膠(にかわ)だ。 死で意識が去る時、形体は分解する。

 この七つの原理とその補助的効果は生物の網の行動に対する観察によって見つけ出されたのである。 これは地球上の生命の行動である。 これはその道徳的パターンである。 これによって私たちは人間社会の行動のための道徳的原則を引っ張り出すことができる。 
 私たちがこの原則に倣いそして生命の網と統合された人間文化を創造する時、人間の思考と行為はこの地球上の生命の目的と共鳴するはずである。 人間は人間活動の水準で地の生命を再現するものである。 生命は実に道徳的基礎を持ち、道徳的義務は明確である。

 私たちの社会的パターンが生命のパラダイムに土台を置いたら、その土台で表現される私たちの行為は宇宙的パターンと共鳴するはずである(『帝国文化の終末と土の生態学』pp. 308-310)
 「生命の機能遂行の原理は協同的エネルギーの流れである。 エネルギーの分かち合い、変形、多様性-一致、均衡、創造性、適応性と関係は生命のパターンでありまた生命の道徳性と呼ばれる。 生命は細胞から人間不足にまで伸びたそのすべての形態としてこの一般的機能遂行に従ってきた。 これは生命の価値体系だ。
 帝国文化が生命システム内に侵入して、自然的道徳性体系–この自然的生命の知恵と病んだ帝国の道徳性の間に緊張が生まれてきた。 帝国の多様な宗教は広く見れば生命習性(道徳性)が支配的傾向に反対して帝国の舞台のさ中に改めてその姿を現わす。

帝国の歴史を通じて基本的生命を持続させる細胞の道徳性と生命を退ける帝国の道徳性間に緊張が存在してきた。 帝国の病気が幾何級数的に増大してきても、生命の道徳性は宗教、慈善機関、自然保護集団そしてどのような社会理念に刻まれた肯定的価値中にあってもずっと奮闘している。 
緊張はまた細胞のささやく音が親切、助けになろうとする態度、協同のような肯定的衝動を私たちに言ってくれるのかといえば、帝国の社会システムの構造は別の存在を犠牲にさせる対価として私たちを自分の出世、冷笑そして残忍であることで強制的に追いやる中で私たちの各人の中にも存在する。」(同じ本、pp. 369-370) 

「私たちの課題は楽園を再創造するのである。 他の道はない。 私たちは地の生命を復元しなければならず、これを行うために私たちは暖かくて創造的で力を与えてくれる文化を持たなければならない。 私たちが面倒を見る文化を創造する時、私たちの子供は文明の制式訓練、大きく進軍するよりは人間の潜在性を助長する機会を持つようになるはずである。 私たちはさらに創造的でさらに意識的で生命をさらに面倒を見つめるようになるはずである。
 ゲリーネーボンはトウモロコシをちょっと盗んで自分自身のトウモロコシを育てようと決心するコヨーテに関するパパゴの話を聞かせてくれる。 彼は種の大部分を食べてその残りを小川のほとりに投げ捨てた。 トウモロコシの育つ季節中寝てばかりいて収獲時になったが、トウモロコシは野生植物であるコヨーテタバコになってしまった。 パパゴの人によれば問題はコヨーテがトウモロコシに歌ってあげる歌を知らなくてトウモロコシが十分に育つことができなかったということである。

 この話は洪積世土着アメリカ文化そして大部分の他の洪積世文化が無視されてきた事実を指摘してくれる。 それらは歌とダンスの文化だったということである。 この集団は豊かな文化的内容を持っていた。 すべてについて、自然的行為のすべてについて歌があった。 人々は生命を受けてその後に宇宙に歌でその美しさを返した。 彼らは真の生命を持って初めてそこから宇宙に対してそして非物質的な世界に対してその歌を広げた。 その歌は地と地の生命体の美しさに基礎を置いた。
 私たちは美しさの生命そして全体を助ける生命を選択せざるを得ない。私たちは帝国の多くの価値を覆す変革的な道に行きはじめている。 多くの共同体が水系の頂上に存在してそこで丘の下に下ってくる水が清い時、私たちは宇宙的に共鳴する人間の社会的パターンが存在することを知る。

いかなる研究も長く引きずるいかなる討論も必要でない。 人間社会は地の生命の均衡から脱しており、人間社会は均衡を取り戻す必要がある。 私たちの日常的努力がその均衡を取り戻す側に向かうようになったら私たちは楽園に行く道にあるのである。」 (同じ本、. 564-565)


0 件のコメント:

コメントを投稿