2019年8月1日木曜日

山本太郎に対する大いなる期待とかすかな不安ーその(1)

朝のTVで山本太郎の生出演を見ました。
人を生産性という価値観でなく、(障害の有無や性や国籍(民族)の違いという人間の属性で差別をせずー崔)、人間存在そのものを受け入れるべきだというにメッセージに大いに賛同し、またかすかな疑問を抱きました。
1)私は在日に対する国籍を理由にした差別に抗して生きてきました(日立闘争、川崎での地域活動、様々な分野における国籍条項の撤廃と個別の民族差別に対する運動など)。そこでは同じ人間、同じ住民という人間理解の上で、在日に対する様々な差別を批判しながら、能力主義の考え方を払拭する主張にまではいたっていなかったことを痛感し、彼の主張の明快さに大いなる期待をします。
もちろん、私たちは川崎の韓国教会がはじめた保育園や地域の子供たちを見守る学園において障害のある子供たちを受け入れる体制を作り、「共に生きえる」と主張する青い芝の会の闘いからも多くを学んできました。しかし民族差別との闘いというスローガンで障害者に対する差別(その根幹は、山本太郎がいう、近代合理性による有効性や生産性そのものを評価する価値観です)を問題にする主張を同時的に、人間理解の根源的な問題として提起することはできていなかったという点は率直に認めたいと思います。
2)しかし山本太郎に対するわたしのかすかな疑問は、では彼はすべての地方自治体で受け入れられている、国籍による差別を正当化し制度化する根拠になっている「当然の法理」をどう考えるのかという点です。これは国民国家の本質にかかわります。同じ地域に住む人間という観点から、基本的人権として外国人の参政権を認めるのか、最高裁が認めた「当然の法理」に基づく任用差別を不当と言いきれるのか、総理大臣になると公言し、他の野党からの協力の申し込みを歓迎し、次の衆議院選挙でで国会議員に選ばれることをめざす政治家山本太郎に対するかすかな不安です。

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