2019年7月27日土曜日

鄭香均(チョン・ヒャンギュン)さんを偲ぶ会をもちました

私たちの愛する鄭香均さんは6月30日、急性がんによって入院して1ヶ月も経たないうちに病院で急逝。彼女の人柄を知る人たちが呼びかけてしのぶ会を計画しました。
日時:7月26日(金)午後6-9時
場所:JR水道橋の在日本韓YMCA
連絡担当:崔勝久(090-4067-9352)


私たちの予想に反して、40名定員の部屋に70名を超える人が参加されました。
鄭香均が東京都の国籍を理由に外国籍職員第一号になるためには、まずその前史として、日本名を名乗り国籍を隠して試験を受け日立の社員になった朴鐘碩が「嘘つき」だという口実で解雇されたことに対して憲法違反で提訴して全世界的な闘いとなって勝利した日立闘争がありました。https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%87%91%E6%95%AC%E5%BE%97
次いで早稲田大学を出た金敬得は1976司法試最終合格したものの、日本国籍を取得しなければ司法研修所に入れないことを知らされ、国籍条項を撤廃させるべく運動し6回に亙って最高裁判所任用課に意見書を提出した結果、19773月に要求が認められ、国人として初の司法修習生となりました。外国籍初の弁護士誕生。https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%87%91%E6%95%AC%E5%BE%97

このような在日当事者と日本人の協力によって在日の就職の道も徐々に開かれ、その歴史の流れの中で初の東京都職員になった鄭香均は10年の勤務を経て、上司の勧めがあり管理職試験を受けようとしました。募集要項には国籍条項などはなかったのです。しかし東京都は「当然の法理」を理由に受験を拒否し、彼女は東京都知事を相手に「当然の法理」の不当性を明らかにすべく史上初の裁判をはじめ、地裁では負けたものの高裁では勝利したのですが最高裁の逆転判決で敗訴となりました。

その間、東京都の保健婦として三宅島にも赴任し、持ち前の明るさと、患者に寄り添う姿勢から職場の同僚や患者から絶大なる信頼を得るようになっていました。

その後、彼女はもともと好きであった歌の練習をはじめ、地域で合唱団に入りながら自分でオペラ曲を独唱するようになっていました。偲ぶ会にはいろんな時期に彼女に出会い、大きな影響を受けた人たちが集まり、各自、ご自分の鄭香均との忘れられないエピソードが語られました。

今後どうするのか、まだ本格的な話し合いははじまっていませんが、鄭香均が初めて提起した、全国のすべての地方自治体において国籍を理由にした職務の選択、管理職への昇進が制限されているその根本原因になっている、「当然の法理」についての究明を深めていきたいと考えています。

参考資料:
https://oklos-che.blogspot.com/2016/08/blog-post_22.html 
2004年12月4 《東京都知事を訴えた鄭香均さんを囲んでの川崎集会
国人への「門戸の開放」をした「川崎方式」の検証多文化共生を考える
                                 崔 勝久
                                   
読売新聞夕刊 20102010年3月27日


東京水道橋 韓国YMCAの会場にて



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