2018年10月15日月曜日

平壌の空は青かった!

平壌の空は青かった!

                                                                                                                                                           崔 勝久

(1)はじめに
2018年4月27日、私はテレビにかじりつき、文在寅大統領と金正恩委員長が手とつなぎ38度線を超える様子を見ていたのですが、自然と流れる涙を止めることはできませんでした。その日発表された板門店宣言の中では、
(1)「南北間の全面的かつ画期的な改善と発展を実現することにより、切れた民族の血脈をつなぎ共同繁栄と自主統一の未来を早めていく」こと、
(2)「戦争の危険を実質的に解消するために共同で努力する」こと、
(3)「現在の停戦状態を終結させ、確固たる平和体制を樹立する」こと、
そして宣言の最後に、「南と北は朝鮮半島非核化に向けた国際社会の支持と協力へ積極的に努力する。」と明記されました。28日の私のブログのタイトルは「歴史は動く!」でした。

その後、数度にわたる南北首脳会談が行われ、6月11日にはシンガポールで金正恩委員長とトランプ大統領による朝米首脳会談も持たれました。金正恩委員長の韓国訪問も年内には実現しそうです。まさに「歴史は動く!」のです。今後南北関係、朝米関係がどのようになっていくのかは勿論、予断を許さないことでしょう。しかし朝鮮半島の平和を目指す動きはもはや止めることはできないと思います。

しかしながら、北朝鮮を長年脅かせていた在日米軍の撤廃を求める日本国民の声は未だに聞こえてきません。在日米軍に核兵器があるのか、日本政府は米政府に質すことさえできないことになっています。在日米軍が核兵器をいつでも使い北朝鮮を攻撃する体制になっていることは常識です。これは明らかに朝鮮半島の平和に反することになるでしょう。これが10日間、初めて北朝鮮を訪問し、北側から板門店に立った時の私の強い感想です。


9月6-15日の10日間、私は初めて祖国訪問団の一員として平壌を訪れました。南北両首脳が板門店で手をつなぎ38度線を越える姿をテレビで観て、私はすぐに、平壌に行こうと思い立ちました。そして早速手続きをして意外にも簡単に、父が11歳の時に離れた黄海道の信川(シンチョン)に行って父の遺骨を散骨してきました。板門店で彼の地に身を置き国連(米国)兵士が立つ韓国側を見るだけで、これまでとは違う捉え方ができるようになったように思います。私が感じた「輝かしい祖国」の光と影をお伝えします。


写真は外国人で賑やかな平壌空港と、板門店に行く途中で見えた大同江沿いの平壌の高層ビル、南北両首脳が会い38度線を超えた場所を北側から撮ったものです。
       
      
           
               
              
(2)日本の出国と中国経由での北朝鮮入国の複雑な手続き
 6日の夕方羽田を立ち北京に到着し翌日、高麗空港で平壌に向かいました。
私は朝鮮民主主義人民共和国を支持しその日本側の窓口になっている在日本朝鮮人総聯合会(通称、朝鮮総連)の川崎支部を訪れ、父の遺骨を持って北朝鮮を訪問したいと申し出て申請用紙をもらいました。そしてすぐに品川の出入国管理事務所に行き、日本国法務省発行の再入国許可書を申請し即日取得しました。


韓国籍をもつ私は、普段海外に行く場合には韓国の旅券と特別永住者証明書カードをもって成田や羽田で出国手続きをしています。その旅券には訪問する相手国のビザが貼られています。ですから私にとって、ちょうどパスポートと同じ大きさの(見た目には色だけ違ってまるでパスポートと同じ形をしている)再入国許可書を取るのは初めてでした。もともとは黒色インクで指紋押捺をさせられることで悪名高かった外国人登録証明書に代わって今は特別永住者証明書カードを使うのですが、そこには何年何月何日まで有効と記されています。今回は新たに取得した、一回限りの再入国許可と記した再入国許可書を使って日本を出国する手続きをしました。


その再入国許可書には、平壌への直行便がないので中国を経由するしかないので、朝鮮総連の関係する旅行会社を通して取得した2回の入国を認める中国ビザが貼られていました。1回は最初の羽田からの入国用と、もう一つは中国から北朝鮮に行きその帰り、北朝鮮から中国に入国して日本に出国するのにトランスファー(現地で入国した飛行機と違う飛行機に乗り換え出国)するためのものです。ですからこの再入国許可書はパスポートと同じ働きをするもので、珍しいのか、中国の入管でも旅券の代わりに日本政府の発行する再入国許可書を見て担当職員は当惑していました。


私の韓国パスポートを共和国は認めないので、事前に朝鮮総連が共和国の代理で発行する、私の写真を貼った別用紙の共和国の臨時ビザと日本の再入国許可書を持ち中国と共和国を往復します。ですから私の旅券には、今回の共和国訪問に関しては中国、及び共和国からは入国、出国のスタンプは押されず、中国経由で共和国を訪問したという形跡は一切残らないということになります。

 

中国入国に際してはこのパスポートと同じ形をした日本政府発行の再入国許可書を提出し、ここに中国入管は、共和国への出国と共和国から中国に寄り(入国し)日本への出国時のスタンプを押します。すなわち、中国は2回の入国を認めるビザを発行しそれが再入国許可書に記載されているのでこういうことが可能になるのです。中国を出国し共和国に入国をする際には私の韓国籍の旅券を使いません。共和国入国と出国の場合は、朝鮮総連発行の別用紙のビザを貼った臨時ビザの用紙を使い、これは共和国出国時、平壌空港の入管で回収されます。

この臨時ビザは日本と共和国の国交がなく平壌への直行便がないため、平壌への直行便が飛ぶ中国と共和国間での出国と入国に際して必要だったのです。従って共和国入国に際しては今度は、朝鮮総連の発行する臨時ビザ用紙に中国出国と共和国入国のスタンプが押され、共和国出国の際は回収されます。共和国から中国に入国するときには、日本政府が発行した、2回の入国を認めたビザが貼り付けられた再入国許可書が使われます。複雑極まりないのですが、こんなところにも日朝に国交がなく、朝中両国間は良好な関係があることが反映されているのです。

朝鮮籍の在日の場合、日本政府は共和国を承認していないので「朝鮮」は国名でなく単なる地域名、記号にすぎず、彼らの共和国の旅券は日本の入管は認めません。ですから共和国の旅券を持つ在日の場合は、日本出国に際して再入国許可書が共和国の旅券の代わりに本人を証明するものになるのです。そこには中国のビザが貼られており出国先も明記されており、日本への再入国が許可されています。

外国人登録制度の変更により(2012年7月)、外国人登録書から在留カード(ResidentCard)に変わるのですが、日本の植民地支配からの解放後も日本に残った朝鮮人の法的地位は1952年4月28日の対日平和条約発までは日本籍のままでありながら、1947年5月2日の外国人登録令によって「当分の間」外国人とみなされ、外国人登録書の所持を義務付けられていました。私のように戦前から日本に住んだ父を持ち1945年に生まれた在日の場合は特別永住者証明書(Special Permanent Resident Certification)カードをもつのですが、そうでない形で日本に住むようになった在日は特別永住者とは違う法的地位になっています。

特別永住者証明書のカードの「国籍・地域」欄に韓国でなく、朝鮮と記載されている在日が海外に行く場合にいかに煩雑な手続きが必要になるのか、従って頻繁に海外に行く必要のある在日は韓国籍を取るケースが多いというのは十分に理解できます。


(3)北の被爆者と元慰安婦ハルモニについて
私は祖国訪問団に申請をする時に、父の遺骨の散布と同時に、被爆者と元慰安婦ハルモニとの面談を希望していました。南と北のハルモニ当事者同士が連絡をとりあう足がかりになれればいいと考えたのです。北に行く直前に韓国に行き、被爆者協会の代表と元慰安婦のイ・ヨンス ハルモニとも事前に会いました。手紙を北の当事者に送る手立て、方法についても私が北に行き、当事者及び協会、あるいは当局の担当者と話し合いたいと文書で総連担当者に要望を伝達しました。担当者は私の話を聞き誠意をもって段取りしてくれました。

私が平壌行きを最初に申請した総連の支部では、本部への報告で、いろんな社会活動をして日韓・韓日反核平和連帯事務局長の肩書をもつ私の訪朝が後で問題になってはいけないので認めないほうがいいという判断であったようです。しかし本部の責任者は私と川崎で会い、3時間ほどお互いの境遇を話し合い私の北朝鮮訪問の強い希望を理解してくれて共和国訪問を許可してくれました。


平壌では6日からの公式行事が連日続き、それが終わりそろそろ担当者に催促しようとしていた矢先、向こうから呼び出され、私達祖国訪問団の担当者より上位らしきの人が私に元慰安婦、被爆者ハルモニとの面談について話したいというのです。まず、元慰安婦ハルモニについては事前に私の担当者が元慰安婦は全て死亡しているという話をしていました。被爆者ハルモニたちは面識のない私に会いたくないと言っている、1回の共和国訪問ですべて実現しようとせず、何度でも来てくれれば事態は変わると言いながら、南北首脳会談でいずれこの話を含めて合意されるまで、個人的な面談要望に応えることはできないという返事でした。

私は個人の資格で来ているが直前に慰安婦ハルモニ、被爆者協会の代表とも面談し、北に行くのであれば北の当事者と連絡を取り合うすべについて話し合って来てほしいという要望を受けており、その旨の報告も総連担当者もしていると説明し、ハルモニたちは年齢も年齢なので、両首脳の合意を待つことなく、南北で連絡を取り合うことだけでも実現できないかと食いさがりました。
それで検討して私に返事をしてくれるということになりました。私は総連の担当者を通して、本当に元慰安婦は全員死亡したのか、南北の被爆者当事者同士が連絡を取り合うすべについて、継続して連絡を取り合いたいと思っています。

私は北の体制が官僚的な社会主義国家であり、自分の担当以外のことには口出ししない、組織内の上下関係(秩序)は絶対的であることを改めて知らされました。韓国のハルモニたちの期待に沿う働きはできなかったのは残念ですが、以上の報告をあるがまま韓国のハルモニ達、私達の運動仲間、また大邱でいろんな場を作ってくださった崔鳳泰弁護士に伝達いたします。そして両首脳の話し合いの進展に沿いながら、板門店での南北赤十字間の話し合いだけでなく、民間レベルの交流の可能性を具体化させたいと願っています。

(4)マスゲームの素晴らしさ
文在寅大統領が昨日平壌でマスゲームの後、15万人の観衆を前に演説したスタジアムは今回、私たち祖国訪問団もマスゲームを観賞したところです。私たちは観覧席の前から二番目で、後ろのバルコニーには金正恩委員長が中国No.3の要人と現れ、その顔、頭までよく見えました。

スタジアムでマスゲームをする何万という人たちが全員、万歳(マンセー)と叫んで金委員長に手を振るのです。その「マンセー」の声は未だに私の耳にこびりついています。北京への機内で隣り合わせになったドイツ人がいみじくも言ってましたが、彼らはマスゲームを見に北朝鮮に来たそうで、それは見事なものでした。皮肉れ者の私は集団でマスゲームがなされればきっと、その中の一人や二人失敗するものだと思っていました。しかし一糸乱れぬ演技とはこのことを言うのでしょう。
https://www.youtube.com/watch?v=DtxsKe2eDW0

日中のマスゲームだけでなく、夜、大学生による松明の人文字や絵柄を表わすマスゲームが同じ会場でありました。数万人の演技者です。彼らもまた演技の途中で全員、「マンセー」を叫ぶのです。見事な演技に感動したこともありますが、私はそこにカリスマ支配による政治体制を敷く北朝鮮の核なるものを見たように思いました。支配は上からの一方的なものでなく、下から応えるものがあって成り立ちます。

 訪朝中に読み始めた、フランス在住の社会心理学学者の小坂井敏晶著『民族という虚構』(2002、東京大学出版社)を参考にしながら、北のこの社会体制、政治手法をどのように理解すればいいのか考え続けました。そして私は著書の「虚構」という概念から学び、「虚構」そのものは現実と表裏一体であり、ネガテイブなものではなく、北の社会体制は一つの「型」であり、それはいわゆる自由主義を標榜する日本などと違うからといって自分たちの価値観から批判するべきではなく、彼らの「型」の歴史的な背景や社会の成り立ち、仕組み、人民の考えや思いを理解しなければ、お互い対話をして理解し合うことはできないと考えるようになりました。


川崎に戻ってこのマスゲームについての私の感想に友人からの批判がありました。日本では人権ということで民族差別の運動をしてきた私が、このマスゲームは人民を強制的に訓練させたものであるのに、その批判はないのかということです。この点は後日、改めて、ブログで私の意見を記したいと思います。

建国70年の祝賀で全国民はもちろん、世界中に報道されることを前提に準備をしてきたのでしょう。事実、私が会った四人組のジャーナリストにどこから来たのかと聞いたら、あのアメリカのCNNだと言ってました。ヨーロッパ、中近東、アフリカ、中国、ソ連からの観客が多いように感じました。カナダ、北欧の青年とも会いました。北朝鮮は決して世界で孤立していません。それは逆に日本社会で作られた偏見だと思います。

(5)父の遺骨の散布
平壌から車で90分、板門店に行く国道を途中で右折して行ったところに黄海道 信川(シンチョン)郡がありました。農村地帯でほとんどが稲ととうもろこしでした。右折して30分位で信川博物館に到着しました。毎年、全国民が1回は見学するそうです。正面の看板には、「信川の地の血の教訓を忘れるな」とあります。朝鮮戦争で北を攻める拠点である信川では国連軍と韓国軍が地元住民約3万人を虐殺しました。その時の悲惨な出来事が博物館では人形や写真を使って克明に再現されています。博物館の中での展示物については改めてご紹介します。この虐殺の内容はもっと全世界に知らされるべきだと思います。

そこから車で20分位の所に父の故郷の信川 龍山里があり、戸籍のある住所のところに案内してもらいました。今は一面稲でした。タクシーを置いて、私と案内人は小高い丘を登り途中で畑の中をくぐり、写真の木のところで父の遺骨を散布しました。北朝鮮では散布の風習はないので、特例ということで当局が配慮してくれたようです。

その後、平壌の教会を訪問しました。私は広い礼拝堂の中で、あの地から11歳で一人で釜山に行き日本に渡ってきた父のことを思い、私達兄弟、子供、孫が各地でしっかりと生きていることを報告し感謝の祈りを捧げました。

(6)信川の博物館を訪問して
父の故郷にある信川(シンチョン)は、朝鮮戦争のときに国連軍、韓国軍それに現地で解放後の国造りの過程で迫害を受けていたキリスト者が住民3万5,383名を虐殺したところで、そこに博物館があるということは聞いていました。朝鮮学校の修学旅行で共和国を訪問する際、必ずそこに行くということでしたので、ぜひ、私も訪問したいと思っていました。

新しく建て変えたという信川博物館は想像していたよりはるかに大きく、立派な建物でした。案内してくれた女性によると、毎年、全国民が1回は見学するそうです。正面の看板には、「信川の地の血の教訓を忘れるな」とあります。そして土台のところには虐殺された母親と子供をモチーフにした彫り物がありました。博物館の横には実際にその母親と子どもたちが虐殺されたという場所に建物が建てられていました。このことは北朝鮮の人にとって何よりも忘れることのできない出来事であったということがよくわかります。その建物の看板には、「米帝殺人鬼たちを千百倍の復讐せよ」とありました。

博物館には実際にどのような虐殺があったのか、どのように米兵が住民を殺したのかということをリアルに知らしめる人形や写真が展示されていました。許可を得て写真を撮りましたので、その一部を公開します。


       


最後に博物館を出たところにある小さな小屋と洞窟を案内してくれた人は、ガソリンをかけられて火をつけて虐殺された中で、そのガソリンを被らず奇跡的に助かった人でした。写真はそのときの洞窟と御本人です。私と同じ年でした。

 私の父の故郷はこの博物館から車で20分ほどのところにありました。私はこの博物館を見学し、今までそんなことを思ったこともなかったのですが、その殺された3万5,383名の中に私達の身内もいたんではないかと思いました。

案内してくれた女性は聡明な方で私は説明を受けながらもいろいろな質問をしました。まず、このように米帝の批判をしている環境の中で今回、トランプ大統領と金正恩委員長が首脳会談を持つことになったが、そのことをどのように受けとめているのか、実際の殺害者は米兵であるが、アメリカの一般市民とトランプのような政治家と同じように思っているのかということでした。

彼女は共和国が核兵器とロケットを開発し米国の首都を攻撃できるようになったので、トランプは白旗をあげてきて交渉することになった、我々の勝利である、一般のアメリカ人と指導者と一緒にすることはない、ということを話してくれました。この彼女の言葉と同じ言葉を平壌でも何度も聞きました。共和国の国民が、これまでの対立から朝米首脳会談をどのように見ているのか、伺い知ることができます。

朝米の国民同士は国交が樹立されれば、抵抗なく仲良くつきあうことになると思います。北京でも平壌でも、日本の円より圧倒的に米国ドルでの交換が喜ばれていました。次によいレートで使えるからでしょう。南北間の国民同士も言葉が同じの上で、同じ民族であるという意識が強く、南北間の交流が進めば思ったより速く大きな支障なく付き合うことができると思います。

それともう一点、質問しました。それは米帝に対する批判はあるが、日本に
対してはどのように思っているのかということでした。彼女の意見は明確で、日本は植民地支配の清算をしておらず、私達に謝罪をしていない、また日本に住む総連の同胞に差別を続けており、許すことはできないということでした。日本は米帝の後ばかりついて行っており、独自の政策を出せない国だということも言及していました。

私は北朝鮮の訪問した体験を日本国内と韓国のソウルと大邸で報告することになっています。どのような反応が出てくるか、楽しみです。

(7)北朝鮮への帰国事業とは何だったのか
誰もが「それはおかしい」と思いながら、何らかの理由で誰もそれを言い出すことができず、結果として最悪の選択がなされてしまうことがある。日本にとってあの長い戦争がとりもなおさずそのようなものであったことは言うまでもない。
テッサ・モーリス-スズキ『北朝鮮へのエクソダス』
梶ピエールの備忘録より

今回私が祖国訪問団に加えてもらった経過は先に記しました。38度線を手を繋いで越えた南北両首脳の姿をテレビで観て、私も行けるのではないかと思い申請したのが、こんなに簡単に短時間で北朝鮮に行けるようになるとは夢にも思っていませんでした。いわゆる韓国の民主化運動に関わり反原発を唱える韓国人は15万人の70年の建国祝賀会に私以外、誰もいなかったのではないでしょうか。もちろん、祖国訪問団に参加した30名のメンバーにおいても同じです。この30名の人たちは、何らかの事情によって帰国事業で共和国に帰国した肉親に会いに行った人たちです。彼らの共和国訪問の動機、その背景を記すと一冊の本になるほど、在日の歴史を反映したものだと思います。

祖国訪問団に参加した在日は、北に「先に帰国した」肉親に会いに衣類とお金を持って祖国訪問に加わった人たちです。私はある日本国籍をもつ在日とバスの中で話をしました。彼は日本で事業をしながら成功し北朝鮮への想いを強め二番目の弟と妹二人を帰国させた長男が亡くなり、その意志を継いで、北朝鮮で住む二番目の兄と二人の妹とその家族達に会いに来たそうです。これが十数度目の訪問いう、その在日と板門店に行くバスで隣り合わせになりました。

彼は事業のために帰化し日本名を名乗っていました。北にいる甥っ子たちと直接話ができるようにと朝鮮語を独学で習得し、実際、韓国人とは何の支障もなく対話ができるようになったという努力家です。しかし北朝鮮の北部の港湾都市に送り込まれそこで生まれ育った甥っ子達とは方言のためにまったく会話が成り立たず、失望したと言ってました。

もちろん彼の兄と妹とは50年経っても日本語はそのまま使えてその在日は日本語で話しをしていました。私は苦労をしたと聞かされたその在日の兄とバスの中で話をしました。私は言葉が出ず、大変でしたね、とだけ伝えたところ、彼は涙ぐみながら「仕方がなかった」とだけ応えました。以下は彼の話と、彼の兄妹から現地の話を聞いた在日の話しを総合したものです。

60年の前半に帰国した彼らは北朝鮮のチョンジン(清津)という港湾都市に送られました。配給制度はとっくになくなり、生活費は自分たちで稼がなくてはならず、それではとても足りずに、日本の弟からのお金に頼っているとのことです。その在日によるとこれまで3000万円くらい使ったそうです。会社をとっくに畳んだ彼は、もうこれが最後だよと言い聞かせたそうですが、おそらくそうはならないでしょう。それが肉親であり、北朝鮮の状況はそんなに急変しないでしょうから。

共和国の官僚(特に幹部)には配給制度が整備されているようですが、配給制度は地方ではとっくに有名無実になっており、特に帰国事業で北に住む在日たちは農漁業で生計を立てることでは十分でなく、知恵を絞って内職をしながら日本の身内からの支援を期待しているとのことです。

日本から送られた器具と材料でケーキを作り現地の結婚式などで商売をしたり、地方の工場では仕事がないので工場長に賄賂を渡し工場で働いていることにしてミシンがけなどの内職をしている奥さんたちのやりくりで生き延びているそうです。清津は港町で漁港でもあるため、お金を使って漁師をしている人もいるとのことでした。

私と話したその在日は徹底的に北の政治状況には批判的で、上から下まで全て賄賂で、「腐りきってる」と辛辣です。私は一切、反論はせず、ただただ彼の話に耳を傾けました。そこからうかがい知れるのは、熱烈な祖国を思う気持ちで参加した帰国事業がもたらした悲劇です。この在日の長男は弟や妹が日本では今後の生活が思いやられるので、共和国に帰国させれば大学生活ができると考えていたようです。その在日は二人の兄が日本にいるときに、マルクス・レーニン主義に染まったから社会主義国家の北朝鮮に幻想を抱いて帰国するようになったと思い込んでいるようでした。

他の祖国訪問団に参加した人たちもほぼ同じような事情があるようでした。肉親には会いたいが、お金をその都度持っていかなければならないのは負担が大きいと感じているようで、もうこれが最後と言ってる人が多かったです。
全ての人はそれなりに北朝鮮の実情を知っていて、誰もが安易な批判を口にしません。口にしたら誰かに迷惑がかかるというより、北の実情をそのまま飲み込み、黙って受け入れようとしているようでした。大部分の人は民族学校で学び、総連の組織活動に関わって来た経歴を持つ人たちです。生半可な共和国批判は謹んでいるのでしょう。民族の矜持と祖国に対する思い、統一への期待がそのようにさせているのだと私は思いました。

それにしても10万人の在日が帰国した帰国事業とは何であったのでしょうか。日本が敗戦後、植民地支配の清算に取り組まず、生活保護を受ける比率が高い在日を日本から追い払うために日本政府が帰国事業を画策し背後で進めたことは、テッサ・モーリス・スズキが『北朝鮮へのエクスダス 「帰国事業」の 影をたどる』(朝日文庫 2011)で具体的な証拠をあげ実証しています。

帰国事業は祖国、共和国があって成り立つもので、帰国した身内が苦労をしているのをわかっていても、帰国事業そのものが失敗であったという断定は朝鮮総連だけでなく、実際に共和国に身内を送った人も、いかなる研究者も簡単にはできないことです。歴史的な帰国事業の成果は今後の南北関係、朝米関係の中で共和国がどのような国になっていくのかで評価が定まってくるのでしょう。しかし帰国した人も彼らを送った人たちも誰も心から帰国事業は良かったとは言えないようです。歴史的な評価は後世がするしかないのです。

2 件のコメント:

  1. 昨日、鶴見駅東口で日本第一党ヘイト集会への抗議活動に参加しました。カウンターの人たちの強烈な抗議の後ろにいただけですが、在日の人たちの深い怒りを感じるには十分でした。映画『タクシー運転手』を観たあと、『弁護人』、『1987、ある闘いの真実』をたてつづけに観ました。韓国・朝鮮の人たちの思いをもっと知りたくなったからです。貴兄のこの共和国訪問記は私なりに胸に響きます。中学の教員でしたが、朝鮮籍の教え子が教育実習に来てくれても教員にはなれませんでした。その子の弟さんは「国語」が超優秀で有名な明るい子でしたが、進路を選択する時期に急に暗くなってしまいました。二人とも今どうしているでしょうか。

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  2. 率直な感想をお送りくださり、ありがとうございます。ブログの「平壌の空は青かった!」は写真を入れ、内容も手を加えましたので、もう一度、お読みいただけえれば幸いです。

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