人権の実現についてー「在日」の立場から
崔 勝久
川崎の工業化(近代化)の歴史は今年で100年、それは「韓国併合」と時を同じくする。1958年8月11日、公害と差別と貧困の真只中で、日本社会に絶望した川崎の「在日」(1)から北朝鮮への帰国の嘆願の声が上がった(2)。今ここに生きる「在日」は、「出エジプト」をして祖国に生き延びる場を求めるのではなく、「エジプト」を変革し、国籍を超えすべての「住民が生き延びる」ための「地域の変革」に全力を尽くすべきだと私は思う(3)。
(一)はじめに
この小論においては、「在日」の「人権の実現」について以下の視点を提示する。まず第一に、「人権の回復」が求められているのは、じつは日本人社会ではないかということを明確にしたい。マイノリティである「在日」への差別は、日本人社会が抱える「病」が根源となっており、本当に人間らしく生きることを求められているのは、日本人マジョリティの側なのではないのかという視点である。しかし本論は、これまでよく言われてきた、「在日」問題は日本人問題である(4)ということから、「在日」問題への関心や、「在日」問題への具体的な関わりを求める主張とは、全く意見を異にしている。
日本人社会は敗戦後、国民レベルで徹底した植民地支配の清算をすべきであったのに、今日に至るまで実現できずにいることを自らのレーゾンデートルに関わる問題(5)として認識することは、日本人社会にとって避けて通ることはできないのではないだろうか。しかしこのことは既に多くの識者が指摘しているので、むしろ、私は「在日」の立場から日本人社会の「病」がどのように見えるのかを提起してみたい(6)。
第二に、「人権の実現」の論議に「地域社会の変革」の視点を入れてみたい。植民地支配の問題を日本人識者が自分自身の問題として受けとめようとしないということで、これまで多くの「在日」の学者たちの批判があった(7)。その指摘の多くは当たっており、何故そのような批判をするのか、理解できないわけではない。しかしその批判に欠けていたのは、生活者の視点ではないのかと私は考えるようになった。徹底した相互批判をしながらも、アカデミズムの枠内に留まらず、絶えず実践的な課題を生活者の視点から共に担う姿勢が欠けていたのではないのかと思うのである。
この生活者の視点は、必然的に、自らの生活の糧を得ながらそこで生きる、地域社会全体のあり方について言及せざるをえなくなる。個人の「人権の実現」は自分自身の努力や、市民運動、司法の場だけで叶えられるものではなく、自然環境・経済・文化を含めた、「人間の社会的協働の基本単位」(中村剛治郎)としての地域社会全体のあり方を模索する中で求められるべきものではないのか(8)。「人権の実現」は地域社会そのものの変革を通して実現されるという視点を提示する。
第三には、地域社会への関わり方について「在日」側の考え方はこれまでどうであったのかを検証する。「在日」の識者や活動家、運動体においては、国家論や民族論、在日論、民族主体性論は語られても、外国籍住民の地域への関わり方や政治参加の仕組みは議論されて来なかった。むしろ日本社会の問題は「一義的に日本人の責任」(徐京植)という考えで、地域の実態に目を向けることはなかったのではないだろうか。
一方、「在日」の中でも川崎のように、地域活動を積極的に展開し行政と一体化して「多文化共生」を掲げる実践も現れた(9)。全国的に流布されはじめたこの流れが、文化の側面から多様化を謳いながら、増加する外国籍住民の「統治」「統合」に寄与するのか、「開かれた地域社会」に貢献するものになっていくのか、検討してみたい。「在日」の「人権の実現」のために地域社会の変革を求めるという考え方について、私の知見から見えてきた地平を記すことにする。読者のご批判をお願いしたい。
(ニ)マジョリティである日本人社会の問題点
① 日本人マジョリティの「病」
マジョリティは自分の意識の背後で、自分の属する社会に対するルサンチマンを持っているのではないだろうか。 郭基煥
マイノリティの問題はマジョリティの問題である、「在日」問題は日本人の問題である、ということがよくいわれる。それはその通りには違いないが、私には少なからぬ違和感がある。何か枠の中にはめ込まれているような、全体の中の一部に落としこめられているような感じを受けるのである。誰がそのようなカテゴリーを作ったのか。
私たちは、「目の前に外国人の問題があるのだからその解決のための具体案を考え(てあげ)なければならない」という善意の発想、発言の中に日本人マジョリティのパターナリズム(温情主義)を感じる。「多文化共生」も同じである。マジョリティのあり方そのものを問うことなく、他民族を、外国人を仲間に加えることでマジョリティの責任をとったような、多数者の奢りがそこにはある。そうではなくて、マジョリティが作る枠そのものを壊さなければならないと私は強く主張したい。郭基煥は、そのことを「マジョリティをその妄想の「地位」から「引きずりおろす」」と表現する。
川崎市の場合、「外国人はかけがいのない隣人」と謳い、どの都市よりも「多文化共生」、外国人施策に関しては進んでいると高い評価を受けながら、現市長は8年前の当選の時に、「いざというときに戦争に行かない外国人」は「準会員」で、「会員」と「準会員」とでは「権利義務において区別があるのはむしろ当然」だと言い放ち今に至るも撤回していない(10)。これを差別発言だとして民族団体と20を超える市民団体が抗議の声をあげたが、そこに関わる日本人たちは、この市長発言は裏を返すと、いざというときに戦争に行くのは「会員」の日本人だということを見抜けなかった(11)。どうして彼らは市長発言を差別問題の次元でしか取り上げることができなかったのであろうか。
これは「会員」が戦争に行く、行くべきでないということに関しては意見が分かれるものの、この日本社会はわれわれ日本人のもの、外国人は主要メンバーではないというのは当たり前のこととして右翼、左翼(或いはリベラリスト)を問わず、日本人に刷り込まれていたからだと思われる。
外国人を「権利義務において区別があるのはむしろ当然」と差別したことが悪いのであって、自分たちが大前提にしている「会員」意識、主人公意識そのものが問われることはなかったのである。それは明治時代から今日までナショナル・ヒストリーを教え込まれ、教育・マスコミ・家庭・所属団体・地域社会などあらゆる場を通して刷り込まれてきて、無自覚のナショナル・アイデンティティを持つに至っているからだという「仮説」は説得的である(12)。
しかしナショナル・アイデンティティを刷り込まれたマジョリティである日本人は、ではどうして「在日」を「他者」として認識するだけでなく差別の対象にするのか、この点の説明にはならないのではないか。日本民族の優位性を教え込み、他民族の「同化」を恩恵として捉え、アジア侵略を進めたのは歴史的事実であるが、社会科学的な分析だけでは説明しきれないものがあると思われる。この点で、私は若い研究者の郭基煥に注目する。彼の理論によると、差別の背後にマジョリティである日本人は「自分の属する社会に対するルサンチマン」をもっており、それを日本人社会の「病」と見る。これは実証的な研究で出された理論ではない。あくまでも「在日」としての経験から、社会哲学的な考察を通して現象学の立場から構築されたものである。
もっともこの世に生を受けた以上、マジョリティであれ、マイノリティであれ、社会にルサンチマンをもったことのない人がいるとは思えないが、私は彼の主張に納得するものがある。一例を挙げると、私は川崎市議会宛の、外国人の地方参政権についての陳情書づくりに関わったとき、知らない日本人の青年から電話があった。「在日」はどうして自分のように地方自治体の試験で落とされた者の運動をしないのか、差別と闘うというのにどうしてなんだ、ということからはじまり、漫画とネットで知ったという、戦後の闇市や繁華街でのさばる「在日」の歴史をなじる電話(13)であった。
彼は大学を出たのに就職先がなく、「在特会」のメンバーだと言っていた。話の途中で、自分を抑えきれないのか、突然泣きだした。どのような思考回路でそうなるのかわからないが、全ては「在日」の所為だと言い募った。自分を自治体が試験で落としたのは能力差別ではないかと言うのだが、「甘えるんじゃない」と応えながら、私は自分で言っていることは違うなと感じていた。就職できない大卒が多くなり、非正規社員の解雇が当たり前になっているのだから。「在日」は差別があればそれと闘い支援してくれる団体がある、でも自分たちは働く場もなく、職場は外国人によって奪われている、このように思いこむ、「病んだ」日本人たちにとって精神的に逃げる場が「在日」への差別だとしたら、彼らは私たちの敵ではなく、私たちと一緒になってこの社会を変革していく仲間にならなければならないのでないか。差別の背景には、日本人社会の本質的な「病」があったのである(14)。
② 私の「仮説」
日本人が植民地支配の歴史のことをよく知らない、これは歴史を知る機会が少なかった、正しく知らされていなかったというのが原因であることに疑問の余地はない。欧米列強の帝国主義に抗するには戦争はやむをえなかったし、アジアの解放につながったと戦争を美化し、朝鮮の近代化に寄与したという歪められた歴史観が大手をふってまかり通り(中塚明『現代日本の歴史認識―その自覚せざる欠落を問う』(高文研))、杉並区では既にそのような教科書が使用され、横浜市では、中学の教科書が全市の中学校で使用される可能性が高いとのことである(15)。また最近、私はとある大学のゼミで、「韓国併合」を史実としてさえ知らない大学生が多くいることを知った。
しかし侵略のど真ん中にいた人が、自分が見聞きし経験もしたであろう蛮行の意味を捉えきれなかったのはなぜだろうか。野田正彰は(1998)『戦争と罪責』(岩波書店)で、戦後中国で日本人兵士がどのような過程で、自分の犯した罪を自覚し泣き崩れるにいたったのか、そして日本に帰国し故郷で英雄として迎えられ、中国で経験した自分のあるがままの気持ちを言い出したら「アカ」だとされ、その後、死ぬまで沈黙を守ったということを淡々と感動的に記している。著者は、戦争の「罪責」が共有化されなかったことが戦後日本の質を作ったと主張する。
レイプをし、殺人を犯したことを上官の命令だからと平然としていた日本人兵士たちが泣き崩れるに至ったのは、中国人たちの配慮と時間をかけた中国の教育システムの中で、日本人兵士が、自分が殺した中国人のこと、その家族に思いを寄せて彼らの気持ちを「理解」したとき、すなわち被害者の気持ち、立場に「同一化」できたとき自分の罪を知り(人間性を取り戻し、自らの「病」に気付いて)泣き崩れたのである。
しかしNPO-Bridge
For Peace(BFP)(16)の代表の神直子は、日本人兵士のビデオを撮りフィリピンに行って現地の人に見せ、現地の人の想いをビデオにして日本で上演をしている、戦争を知ろうとする若い人たちの注目すべき活動の中で、野田正彰が記すような例は中国での経験者以外にはほとんどない、と私に話してくれたことがある。
外地での外国人従軍「慰安婦」の存在を多くの人が知っていて、彼女たちを相手にした日本人兵士は多いはずなのに、彼らにとってその女性は人格のない「もの」であり、兵士は人を殺した経験と同じく、その「慰安婦」との体験も胸の底にしまったまま、なかったことにしようとするのであろうか。彼らは韓国の「慰安婦」であったハルモニたちの告発をどのように聞くのか。それは別に当時では当たり前のことであって今更問題にする方がおかしいとうそぶくのだろうか。耳と心を閉ざしたまま、慙愧の気持ちを後の世代に伝えることなく、彼女たちの告発を「理解」しようとせず死んで行くのであろうか。その告発を受けとめ彼女たちを「理解」するという行為は、植民地支配の歴史とその中で生きざるをえなかった己自身をどう受けとめるのかという、社会と自己への徹底した洞察を通して「常識」を疑う視点を明確にしていく作業なくしてはありえない。
日本人社会が戦後責任や植民地支配の清算に無関心で現在も歴然とした差別があるというのはどうしてなのか、それは植民地支配とそこで生きざるを得なかった己自身の徹底した自己洞察が広く社会的になされず、野田正彰が指摘する、戦争の「罪責」が共有化されなかった社会のあり方や、その事実を子供たちに伝えきれないような教育の在り方に問題があると言えるだろうが、私はそのことを、日本の戦後民主主義における住民自治の仕組みという観点から捉えなおしてみたい。
日本社会は代議制民主主義を輸入したが、住民・市民は自分の住む地域社会の諸問題を自分たちの責任において討議を重ね解決していくことなく、4年に1度の選挙で議員「先生」を選ぶだけで、選ばれた「先生」は3万人以上の自治体でほとんどリコールされた例はない。住民が中心になって地域社会を運営していく「住民主権に基づく住民自治」の仕組みになっていないという欠陥が厳然と存在する。
利害が相反したり、「立場」が異なる隣人との対話を通して相手を「理解」し、自分たちを取り巻く困難な問題に立ち向かうために対話を通して解決する、「住民主権に基づく住民自治」の仕組みとその地道で長い実践があったならば、相手の立場、背景、歴史にまで「理解」が及び、そうすればお互いがお互いを「理解」し「受けとめる」ようになってきたのではないだろうか。日本の地方自治体における現行の住民自治の実態を批判的に検証し、早急に新たな仕組みづくりに着手するべきである、と私は考えている。
即ち、日本人社会が過去の植民地支配に無関心で、戦後責任についても、外国人の人権についても想いが及ばず差別が現存するのは、現行の地方自治が形式的な代議制民主主義に終わり、住民が中心となって住民間の対話を重ねていきながら問題解決を図る、「住民主権に基づく住民自治」の仕組みになっていないという事実と裏腹の関係になっているのではないのか、というのが私の「仮説」である。
③ 「当然の法理」について
日本社会は日本人のもので、自分はその一員であるという意識はナショナル・アイデンティティであり、日常生活においては表面化されることはない。本人はそのような意識をもっているという自覚さえないであろう。見えないもの、自覚されていないことは、当たり前のことだが、理論化することはできない。日本人の学者、活動家もまた戦後一貫して「在日」の生活実態が見えなかった。見ても「見えず」、知っていても「理解」することがなかったのである(飯沼二郎『見えない人々』(日本基督教団出版局、1973年)。
憲法が基本的人権を日本国民(日本国籍者)に限定しても(17)、それを当然のこととして日本人社会は受けとめた。日本に残った朝鮮人、台湾人は「解放後」も日本国籍のままで外国人登録証明書をもたされ、しかも選挙権はいち早く剥奪された。朝鮮人、台湾人の公務員を排除するため、日本政府が打ち出した見解が「当然の法理」(18)であり、「公権力の行使」「公の意思形成への参画」にあたる職務は日本国籍者に限るとした。
即ち、朝鮮人と台湾人の公務員は「帰化」を求められたということである。この国籍による差別を正当化する「当然の法理」は、公務員の職場の問題にとどまらず、社会生活、福祉の場においても外国人への差別、排除を当然視し増幅するのに大きな役割を果たしてきた、と私は考えている。しかし「日本人の戦後責任」の発言の中でこのことに触れている識者は圧倒的に少ない。
「当然の法理」は今も生きている。日立闘争(19)や故金敬得の弁護士資格獲得闘争の「在日」の生活の場での闘いが進む中で、「在日」は大企業や地方自治体に就職できるようになった。しかし、「当然の法理」によって管理職や「公権力の行使」に関わるとされる職務には就けないでいる(20)。鄭香均の最高裁の判決では、外国籍公務員の存在そのものは問題にされることのない前提としながらも、彼女の管理職受験を拒んだ東京都の行為を違法とは認めず、外国籍公務員の就く職務や管理職の基準もまた明らかにしなかった。その判断は各地方自治体に委ねる内容になっているのである(21)。外国籍公務員を管理職に就かせない理由は、「当然の法理」の「公の意思形成への参画」に抵触するということである。
「公権力の行使」の政府見解に反するということで外国籍公務員に制限される職務は、実際上、地方自治体にはないということを川崎市の人事課課長が明言したことがあった。それなのにどの地方自治体においても「当然の法理」、「公権力の行使」を理由に外国籍公務員の職務の制限をしている。この点は市民運動においてもアカデミズムの世界においても問題にされることはなく、まさに当然のこととして受け入れられているが、戦後日本のあり方を問うとき、現在も続く「当然の法理」の考え方、仕組みは徹底的に問題にされるべきであると、私は強く主張したい。
そもそも「公権力の行使」とは元来、「統治」概念で、川崎では「公権力の行使」を独自に解釈し、「市民の意思に拘わらず、市民の自由と権利を制限する」職務として、外国籍公務員には182職務(現在、192)に就かせないように「運用規程」をつくった。即ち、国籍による差別を制度化したのである。本来、いかなる公務員であれ、市民の「自由と権利」を制限するというのは法律に明示されたときにのみ認められるものであり、同じ公務員である外国籍職員にのみ「公権力の行使」の職務を制限するということはあってはいけないはずである。「使用者は、労働者の国籍、信条又は社会的身分を理由として、賃金、労働時間その他の労働条件について、差別的取り扱いをしてはならない」(労働基準法第3条)と法律に明示されている。
現在、川崎は「公権力の行使」を独自に解釈して門戸を開放したため、現場ではとんでもない不条理がまかり通っている。例えば、空き缶やたばこの吸い殻の投げ捨てを注意するということまで、「公権力の行使」だという理由で、外国籍職員はこの職務に就けないようになっているのである。日本の政党や政治家は外国からの影響を受けることを避けるため、外国人からの献金は禁止されている。外国人の地方参政権の法案化には与党内に反対が多く今国会では法制化に至らなかったが、地方自治において外国籍住民の政治参加をどのように保障するのかという議論を進めるにも、「当然の法理」が障碍になっている。
住民投票に外国籍住民の参加を承認する地方自治体は既に多くある。しかし河村名古屋市長は現行の地方自治制度を打破し「真の住民自治」を目指すとした、小学校区(又は中学校区)を単位にした「地域委員会」に国籍条項を設定した(22)。このことの問題点を指摘した論文を私は全く見たことがない。地域に密着した、小さな行政単位での住民の政治参加を保障する「住民主権に基づく地方自治」の仕組みを具体化することは、現行の形骸化した地方自治を変革するために必要不可欠な課題であり、昨年の京都や川崎の市長選においても「区民協議会」や「区民議会」を作ることを公約にした候補者が現れた。しかし彼らもまた外国籍住民の参加については不問に付したのである。
外国人の地方参政権の実現には国会での法改正が必要だが、住民自治を進める地方自治体の仕組みづくりは市議会の条例で可能になる。そのような条例ができれば、当然のこととして外国籍住民の選挙権・被選挙権は保障されることになる。その例として、三重県の市町村合併で誕生した伊賀市は、市の職員に関しては「当然の法理」を適用しながらも、各地区の自主性を重んじるために既存の町村を「地区」とし、さらに各地区には「区」が設置され、その「区長」に韓国人住民が立候補し当選したと報じられている(「民団新聞」 2010年6月23日)。
今回の河村名古屋市長の先例は、地方参政権ばかりか、住民自治の仕組みそのものにも外国籍住民の政治参加を禁止したということになり、それがまだ試験的なものだとはいえ、その考え方が日本全国に浸透していくことは強く危惧される。
④ 「病」の実態
見ても「見え」ず、知っていても「理解」することがないというのはどうしてなのか。朴鐘碩の日立闘争のとき、日立の組合は事のいきさつを「見」、何が起こったのか知っていたはずなのに、朴鐘碩を「理解」しようとはせず、会社側の立場に立ち彼の闘いを無視した。裁判勝利の後、彼の入社に際して、会社の対応を間違いと認め、彼を支援しなかったことを自己批判できなかったのはどうしてか。連合の下での労使一体化政策というだけでは説明がつかない。その背後には大企業に働く社員の「病」の実態が見え隠れする。
朴鐘碩はまもなく後1年で定年を迎えるが、彼の経験では、社員は「社畜」として乾いた雑巾をしぼるようにノルマを課せられ、会社と一体になった組合の下では、まともにものが言えない状況にあるとのことだ。そのような環境では、大企業の会社員は「在日」についての関心がないだけでなく、そもそも他者に対する関心をもつことが困難な状況に置かれているということを彼は認識するようになる(23)。多くの社員はストレスで精神を病み、人格を「病む」。人格を「病む」と会社の反社会的な行為に否を言うこともできなくなるのである。
しかしこれは、大企業だけではない。先の東京都を相手に裁判を起こした鄭香均の場合も同様である。都の職員は、自分たちの同僚が「国籍」を理由に不条理な差別待遇を受けたのに、どうして彼女の闘いを支援しなかったのか。彼らもまた、仕事とノルマ、時間に追われ、責任を追及され、多くの公務員が実に精神的な病に罹っている。公務員と大企業の社員という、比較的社会的地位が高く安定し、給与もいい環境の人が「病」に苦しむのであれば、生活の保障のない、いつ会社が倒産するか、いつ解雇されるか、いつ商売ができなくなるかわからない多くの中小、零細企業とその従業員においては、さらに「病」に罹る人は多いだろう。日本全国で毎年3万人を超す自殺者がいるという事実は、看過できない。商売に関わる人で資金繰りの地獄を味わい自殺を考えなかった人や、解雇の心配なく安心して働ける人はどれほどいるのだろうか。
それだけではない。経済大国を目指してきた戦後日本社会は、工業化に邁進する中で福祉にお金を回すシステムを採ってきたのだが(24)、工業化の推進のために海を埋め立て石油コンビナートや高炉を作り自然を破壊して住民が海辺で憩えない環境にしてしまった。多くの人が「公害」に苦しみ、未だに水俣病問題は解決せず、多くの大都市では車の排気ガスなどによる喘息に苦しむ人が後を絶たないのである。このような工業化の過程で生き抜いてきた高齢者の老後生活が安定せず、孤独死を迎える人が多いという。若い人の働く場がなくなり、非正規社員が簡単に首を切られる状況は、日本社会の「病」でなくてなんであろうか。私が、Sustainable Communityを「持続する地域社会」という無味乾燥な訳語でなく、「住民が生き延びる地域社会」と意訳した所以である(25)。
最後に、ここで北朝鮮の拉致事件やミサイル実験に対する日本社会の大々的な反発が、北朝鮮系の組織に対するバッシングになっている現実を厳しく批判する必要がある。それは民族学校に通う子供たちへの暴力であったり、政府の政策として民族学校を高校無償化の対象から外すという露骨な行為になっている。新潟では拉致問題を理由に、「在日外国人の権利を整備するのは納得がいかない」ということで、永住外国人の住民投票は拒否されている。
民族的に生きる、民族アイデンティティを持ちそれを守り次世代に伝える権利は誰にでもある。いかなる少数者であれ、民族教育や民族文化は尊重されるべきであるというのは世界の常識ではないか。朝鮮学校に行き、北朝鮮や総連との関係を切らないならば資金的な支援をしないと放言した、橋下大阪府知事の発言がどうしてマスコミや日本国民の批判の対象にならないのか。政治や外交の問題に絡ませて、当然なすべき支援を政治的な駆け引きに使うというのは許されることではない。植民地支配の清算として、朝鮮民主主義人民共和国(北朝鮮)との平和条約の締結が未だになされていないということを日本社会は改めて深く認識すべきである。
(三) 「在日」の生き方と地域問題への関わり方
① 日立闘争への関わりを避けた民族団体―民族主義批判
私は本名の読み方も本籍地も知らない大学生であった。ある朝、新聞で「僕は新井か、朴か」という見出しで日立就職差裁判別闘争のことを知って、その日に、彼に会いに行き裁判闘争に関わった。1971年のことである。私は日本人学生と<朴君を囲む会>をつくり、日立闘争を担うようになった。当初、労働問題という位置付けで始められていた裁判闘争を批判し、在日朝鮮人に対する差別への闘いであると主張した。私は初めて、在日朝鮮人である自分を正面から受けとめ、どのように生きればいいのかという道を日立闘争の中で模索しはじめたのである。恐らく私と同じ世代の「在日」は民族のアイデンティティに悩み、そこから自分の生き方を模索したのだと思われる。
「在日朝鮮人」であると叫ぶことは、同化され差別されてきた者の日本社会に対する怒りと告発を中心にした、しかし己自身は日本人とも本国の人間とも違うと意識されてきた激情の発露であり、歪められた人間性を取り戻すための必要不可欠な作業でした(26)。
日立闘争の中で、私の在日朝鮮人であるという悩み(劣等感)は日本の植民地支配による同化政策に由来したものであることを知るようになった。「民族主体性」を求め韓国留学に行き、「在日」の苦しみは、苦難の歴史を歩む民族全体の一様相であり、「本国」においても植民地支配の歪んだ影響からの脱却を必死になって求めないといけないと考えている人がいることを知った。「在日」が特別な存在でなく、「本国」も同じポストコロニアリズムの問題を抱えその克服の課題をもっていると理解したのである(27)。しかし私は「本国」の政治動向に直接関わるのでなく、日立闘争を通して日本における「在日」の現実を直視し、それに徹底的に取り組みことにした。
私たちの運動は当初から日本人青年と一緒に<朴君を囲む会>を組織したのだが、一貫して日本人と協働して運動を進めることをその原則とした(28)。しかしこれは他の民族団体ではありえないことであった。「この裁判から派生した運動は、これまでの民団や朝鮮総連をはじめとする既成の民族団体を媒介とした「上からの組織運動」とは、闘い方も運動の性格もまったく異なった様相を見せるようになった」と朴一は記している(『<在日>という生き方―差異と平等のジレンマ』(講談社)。
当時の民族団体は民団、総連だけでなく、多くの「在日」の学者を輩出している「韓学同」(在日韓国学生同盟)なども「権益獲得」を謳いながら、就職差別という最も身近な問題であるはずなのに、日立闘争には関わりを持とうとしなかった。彼らが関心を持ち始めたのは、韓国の学生が民主化闘争のスローガンの中で日立闘争支援を打ち出してからである。
私は在日朝鮮人として日本社会に入り込むことを在日大韓基督教会の青年会で主張し日立闘争に関わることを求めたのだが、その主張は「同化」につながるとして青年会の代表をリコールされた。それほど当時は「在日」の主体性については、二者択一の問題ではないはずなのに、「本国志向か、定着志向か」(朴一)ということが問題になっていたのである。だから民主化闘争を担うべきと考える民族主義的熱意に燃える「在日」にとっては、地域活動を通して「在日」である自分の生き方を求めるという視点をもつことができなかったものと思われる。
民族主義的な観念論は政治状況が厳しくなればなるほど、ますます精鋭化する。「本国」の動向と民族の将来に自分自身を同一化しようとし、ますます足下の、日常的な地域の変革に関わる運動は自分たち「在日」の問題ではなく、日本社会をどうするのかは「一義的に日本人の責任」(徐京植)ということになる。これでは両者が同じ土俵で対等な立場で対話をするという前提が成り立たない。政治的なスローガンを掲げた日韓・日朝「連帯」はその時々の政治イッシュについてであり、自分の住むところ(地域)において一緒に汗を流すという関係にならないと、私は考える。
② 行政と一体化した「在日」の地域活動―「多文化共生」批判
日立闘争で徹底して「在日」の差別の現実と同化を強いる社会構造を明らかにしてきた私たちは、裁判闘争後、川崎という具体的な地域で、私たちがそうであったように、自分が朝鮮人であることを隠す子供たちへの働きかけをするようになった。「在日」の子弟たちが差別に負けないように、自分を恥ずかしく思わないように、地域の保育園で本名を教え、民族の歌、文化に触れる機会を作ろうとした。「差別と闘う砦づくり」である。そこを拠点にして子供たちに学校の勉強を教え、本名を名乗らせ、オモニ(母親)や青年たちの仲間づくりをして、近隣の学校への働きかけをするようになった。
日立闘争に勝利し川崎の教会で地域集会を持ったとき、「在日」の住民が児童手当や市営住宅への入居が国籍のために認められないことに大きな怒りをもっていることを知り、行政を相手に国籍条項撤廃運動を始めた。お金の借入の条件として戸籍謄本を要求する銀行や、国籍を理由にクレジットカードの使用を拒絶する会社を相手に、住民運動として民族差別との闘いが続いた。それらの活動は在日大韓基督教会を拠点にしていたのだが、闘いが大きくなるにつれ、ボランティアの青年が増え、お金と人材とさらに物理的に広い場の確保が必要になり、そのやりくりに追われるようになった。
私はそのときの「民族差別と闘う砦づくり」が現在の、行政と一緒になった青丘社ふれあい館につながると理解している。その新たな「砦」は、民営化された子供文化センター事業の一翼を担い、「在日」だけでなく地域で増えたいろんな国の外国人子弟の問題に取り組み、地域の福祉事業に本格的に関わるようになる。まちの祭りにも参加し民族衣装で踊るその「砦」は、「多文化共生」の成功モデルとして全国的に注目されている。
行政との一体化は、財政的には安定し人材確保がなされ新たな建物を得るようになって、地域に必要な新たな事業展開を可能にした。しかしそれは同時に本来行政がやるべきことを民間が低賃金で運営するという民営化政策の下で可能であったという事実は看過できない。なによりも、行政の不義を糺し公平を求めるという意味で「共生」を掲げた「在日」の運動が、自ら行政批判を自重するようになり、同時に住民の行政への批判の声を抑える役割を担うことになる(29)。行政との一体化は両義性をもつ。行政が「共生」を求める「在日」の運動と一体化するなかで、増加する外国籍住民の「統合」「統治」を目的とした(30)、「多文化共生社会の実現」が行政と運動体の共通のスローガンとなっていくのである。
多様性や他民族の文化の尊重を謳うものの、それは行政にとっては「君が代」と「日の丸」の強制とセットになり、外国人住民の生活全体を受けとめ政治参加を承認するものではない。「多文化共生」は基本的にナショナリズムを前提にしたものであるということを確認する必要がある。住民を「かけがいのない隣人」とし「多文化共生社会の実現」を掲げる行政は、制限付きの「門戸の開放」や、決定権がなく討議する内容の範囲も限定された外国人市民代表者会議の創設(31)など、外国籍住民の政治参加を一定の領域に押し込んで承認した。即ち「二級市民」化したかたちで外国籍住民を遇していくのである。それはテッサ・モーリス=スズキが「コスメティック・マルチカルチュラリズム」(上面の多文化主義)(32)として日本社会を批判したこととつながる。
地域活動をはじめた「在日」は日立闘争のときのように日本人と協働しながら、自前の運動というよりは行政と一体化することによって、自ら市の「多文化共生」政策を担う任を負うことになった。その活動を「要求から参加へ」―差別問題を行政に持ち出し要求するこれまでの「在日」の運動ではなく、市が創設した外国人市民代表者会議に参加することで「在日」の新しい政治参加の歴史がはじまったという認識を表現したスローガン―そして「マイノリティのためになることがマジョリティにとってもいいこと」というスローガンによって一定の権益を確保しNPO事業を展開することを、新たな「砦」である青丘社ふれあい館の活動とするのである。日立闘争から始まった地域活動がこのように行政と一体化することで新たな事業として展開され広がりをもちはじめたということになる。
民族主義に基づく運動は「本国」の政治動向に直結し、自分たちの権益擁護(その中に民族教育を含めるものとして)を主張すればするほど、「同胞」にのみ関心を集中するようになるのに比して、「多文化共生社会の実現」は一見、地域密着型の運動のように見える。
しかしそれは外国籍住民の活動を一定の領域に限定し、地域全体の変革に関わらせない範囲のものであり、むしろマジョリティのパターナリズムに依拠するものと捉えると、行政と一体化した「多文化共生社会の実現」が住民の自立、「住民主権に基づく地方自治」につながるのか、外国人を含めた住民の「統合」「統治」になるのか、その議論は徹底的になされなければならない。その議論をひろく保障することこそが、「多文化共生」の活動が行政に依存することなく「開かれた地域社会」に貢献するものになっていくと私は考える。
(四)最後に
差別は、それを押しつけられた者に深いルサンチマンを抱かせながらも、<恐怖する分身主体>への責任を介することで、被差別体験者を<抵抗の主体>に「変身」させ、同時に「敵に対する愛」を懐胎させる
郭基煥
個人の「人権の実現」は自分自身の努力や、市民運動、司法の場だけで叶えられるものではなく、自然環境・経済・文化を含めた地域社会全体のあり方を模索する中で求められるべきものであると、この小論の冒頭に記した。個人の格差と共に地域間格差も拡大し、多くの課題を抱えたまま地域の衰退は著しい。このような社会をつくり出したこれまでの経済・政治のシステムを根底的に見直し「住民が生き延びる地域社会」をつくっていくことなくしては、個人の生存権が脅かされる時代になった。ここに高齢者を見守るネットワークづくり、地元商店街の活性化などの課題が浮かび上がる。何よりも重工業が中心の大都市においては、ポスト工業化の都市、地域のあり方を根本から見直すグランドデザインが必要になってくる。新たな時代状況に対応できるように社会福祉制度、再就職のための教育制度なども整備されなければならない。
国が責任をもってやるべきことがあり、地域においては地域が自力で解決しなければならない課題がある。このふたつはきっちりとリンクされるべきであり、国は地方分権を口実に地方の責任と放置せず、地方の活性化・内発的発展を支える役割を担うことが求められる。この地域の課題の解決は行政と議員「先生」に任せては絶対に成功はおぼつかないということが未だ住民、議員、行政の間で共有化されていない。首長の強いリーダーシップが地域を再生させるのではなく、住民が主体的に「生き延びる地域社会」をつくるのである。そのためには「住民主権に基づく住民自治」の仕組みを新しくつくることで、住民間の対話を基盤とした住民主権を地域で定着させ、時間をかけて育てていく必要がある。
グローバル化の時代、特に日本の場合は労働者が不足するのは明らかで、外国籍住民の増加は不可避である。定住する外国籍住民が自らの生存権を守るために政治参加を求めるのは当然のことである。外国籍住民の政治参加の保障は、その地域において、「住民主権に基づく住民自治」の仕組みが確立されるかどうかにかかっていると言って過言ではない。「住民主権に基づく住民自治」の仕組みとはどのようなものか、外国籍住民が加わり一緒になって論議されるときが来たのである。三重県の伊賀市はそのよき先例となるだろう。
韓国籍をもつ「在日」は、韓国での国政選挙参加が決定し、いずれ地方参政権も日本の国会の場で法案化が論議されるだろう。それは永住権をもつ外国人の、被選挙権がなく北朝鮮を排除する問題の多い案のようだが、その地方参政権を獲得しただけでは現行の、住民の政治参加を十分に保障することのない代議制民主主義に埋没するだけであり、さらにグラスルートの、条例で解決できる範囲での「住民主権に基づく住民自治」には結びつかないということはしっかりと認識する必要がある。
外国籍住民を日本社会の主体、主要メンバーの一人と捉えず、「文化」「多様性」を強調しながら「統合」「統治」の対象と捉える「多文化共生」は、これまでの日本社会をつくりあげた既存の経済・政治のシステムをそのままにして、それらを正当化した上で、「二級市民」として限定した権限の範囲で受け入れるということになる。そのようなマジョリティのパターナリズムは、日本社会の構造的な危機的状況を温存していくことにしかならず、それでは住民間の対話が保障され、住民誰もが人間らしく生きることができる地域社会は望めず、衰退していくしかない。マジョリティである日本人住民自身が「生き延びる」ことが困難になると、私は考える。
行政と企業を入れた住民間の対話を通して、国籍・民族を超え全ての住民を対象にした「住民主権に基づく住民自治」が地域再生の基礎である。そしてそれこそが、生存権を確保し、高い生活の質(Quality of Life)と住みよい環境を目ざし「人権の実現」に向けて歩むための、必要不可欠な、日本籍住民、外国籍住民、両者共通の課題になるのではないだろうか。
民族主義を標榜する「在日」の既成組織、運動団体はこのような時代の要請に応えることができるのであろうか。行政との一体化を図り「多文化共生」を謳う「在日」もまた、生活者の視点から「地域の変革」を求める住民と共に歩むことができるのであろうか。そのようになっていくことを私は期待してやまない。
違いの強調でなく、一致できる点を求めて具体的に行動するときが来た。未来に向かってどのような地域社会をつくりあげるのか、この点に関しては国籍や民族の「立場」の違いを超えて、みんなが同じ「責務」を担うことになる。「在日」と日本人との対等な立場での対話がそこからはじまるのである。
注
(1)私は「在日」を在日韓国人、在日朝鮮人の総称として用いる。「在日」という言説には、オールドカマー、ニューカマーを含めた、定住在日外国人という意味を場合によってはこめている。また在日外国人をもっと地域に住む外国人と特定する場合は、外国籍住民という単語を使う。最近は、「在日コリアン」とか「在日韓国・朝鮮(人)」という言い方、書き方がマスコミだけでなく、学問の分野や運動体においても定着してきている。しかし私たち在日朝鮮人のことをどうして英語や、中黒をいれた表現をするのか、今一度、読者に問題提起をしたい。南北の団体(個人)からクレームが来るのでと仕方なく、あるいは独立した南北の国を表すためにいうことらしいが、ここは例えば、自分たちは、総称として「在日朝鮮人」か「在日韓国人」をすると言い切ればいいのではないか。
(2)テッサ・モーリス・スズキ(2007)『北朝鮮へのエクソダスー「帰国事業」の影をたどる』(朝日新聞社)201頁。しかし彼女は、この嘆願書を金日成に送り「集団的な帰国運動の嚆矢」となった川崎の「在日」の多くが、煤煙下の朝鮮人であり、「公害」に苦しめられていたことには触れていない。「「地域再生」と「在日」―エクソダスはもういらない」
参照(http://oklos-che.blogspot.com /2010/02/blogpost_6244.html)。
(3)『環境再生―川崎から公害地域の再生を考える』(永井進 寺西俊一 除本理史編著 有斐閣 2002)を読むと川崎の「公害」問題は解決されていないことがわかる。しかしこの中でSustainable Communityは「持続する地域社会」と翻訳され、地域全般のあり方を正していくという姿勢はあるのだが、「在日」が川崎に多く住むようになった経緯や「公害」の真只中の集落で生きている実態に対して一切言及していない。何度も現地を訪れたはずなのに、そこでは「在日」の存在は一切見えなかったのであろうか。
(4)「政治的先行きが見えず、経済不況に苦しみ、社会的ストレスがました現代日本で、在日朝鮮人はいまや「慰安婦」と並ぶ、もっとも危険な存在」になっていると宋連玉は語る(「国際シンポジューム「韓国併合」100年を問う」)。
(5)日本の学界では敗戦直後から、天皇制の問題、個人の市民としての自覚の問題、「国体」を掲げて戦争に邁進するに至る過程、その原因が究明されてきたが、私は、労働運動、女性解放運動、部落解放運動など自己の権利を要求してきた大衆運動がすべからく、戦争協力によって、国家を通じて実現することを自ら進んで選んだ事実の自己批判がなされてこなかったということに注目する(伊藤晃「大日本憲法と日本国憲法のあいだー歴史から見た鄭香均氏の訴訟」(鄭香均編著『正義なき国、「当然の法理」を問いつづけて』(明石書店 2006)。これは戦争協力をした日本キリスト教団においても同じで、戦争責任告白は一部の教職者の間で作成されたものの、実際の戦争体験をした一般信者が在籍する各個教会で問題にされることはなかったのである。
(6)郭基煥(2006)『差別と抵抗の現象学―在日朝鮮人の<経験』を基点に』(新泉社)。
「新たな「在日」学者との出会い」参照
(http://oklos-che.blogspot.com/2010/05/blog-post_17.html)。
(7)金富子(「「慰安婦」問題と脱植民地主義―歴史修正主義的な「和解」への抵抗」『歴史と責任―「慰安婦」問題と1990年代』(青弓社,2008))と徐京植(『半難民の位置からー戦後責任論と在日朝鮮人』(影書房、2002)の批判は鋭い。しかしその批判の仕方は対話を求め運動につながるものであるのか、検証されるべきであろう。
徐京植は、徐京植―花崎皋平論争の当事者で、「在日」世界における最も影響力のある論客の一人である。お互いに自分の著作の中でその論争について触れているが、「脱植民地支配」を模索して「共生」を説く思想家である花崎と徐の論争が中途半端に終わったことは大変不幸なことである。中野敏男はこの論争を「思想上の最重要問題」と捉え、花崎を大塚久雄と丸山眞男がいう、植民地支配の被害者に対応しないなかで構築された、戦後日本の自己決定する「主体の思想」の系譜と見る。しかし花崎の著作を読んだ者として私はこの見解には同意できない。徐の意見に対する中野のコメントはないし、私の知る限り他にも見当たらない。この論争の質とあり方は今後正面からとりあげられるべきであろう。(徐京植(2003)、花崎皋平(2002)『<共生>への触発』みすず書房、中野敏男「自己反省主体の隘路―花崎皋平と徐京植との「論争」をめぐって」『現代思想』6、2002)。
尹健次は(2001)『「在日」を考える』(平凡社ライブラリー)の中で、上野千鶴子のフェミニスト、社会科学者としての考え方、捉え方を評価する(233-234頁)。しかし後半では「上野の物言いは学問的には一見もっともにみえ、それにあえて異を唱える理由はない」としながら、彼女の日本人としての「立場性」を問い、上野は「問題の本質を回避し、あるいはそらしている」という批判をする(241-243頁)。しかしどのように「問題の本質を回避」しているのかという説明はない。
(8)中村剛治郎(2004)『地域政治経済学』(有斐閣)と、彼の横浜国大での講義や私信から、私は、地域とは「人間の社会的協働の基本単位」であり、「ナショナリティを超えて、そこに生活する多様な人々が共同で生き、生活する場、互いの基本的人権を保障し、人間としての自由や発達、幸せ、社会連帯や自然との共生などの実現をめざす基礎的な社会単位である」ということを学んだ。住民自治の確立は地域の再生を図る根幹になる。
川崎が独自な発展を遂げるには、自由闊達な国際都市としての内実を持つしかなく、そのためには地方政府における国籍を理由にした差別制度を撤廃し、国籍を超えた住民自治の確立をベースにしながら、徹底した住民、企業、地方政府間での対話を通して長期的な地域再生のビジョンをつくりあげるしかない、そこで生きる「在日」の生き方は地域のあり方と別にはありえない、という私のイメージの出発はここにある。
(9)金侖貞『多文化共生教育とアイデンティティ』(明石書店、2007)は、川崎において日立闘争以降の青丘社やふれあい館の動きを「共生」を求めるものと捉え、その動きが行政をも動かし行政と一体化する過程を記しながら、その流れが全国、日韓、東北アジア共同体の中心理念になるとまで「共生」を賛美する。確かに川崎の「在日」の運動の歴史を踏まえているものの、そこでは川崎市の問題点に関する記述はない(国籍条項の問題や、「共生」を唱えつつ「日の丸・君が代」を強制していく教育委員会の実態など)。
また偏った情報収集は学問の手法として問題があるように思われる。何よりも日立闘争当該の朴鐘碩へのインタビューがなく、彼が日立に入社してからどのようなことを考え何をしてきたのかということは一切触れられていない。日本人と「在日」の共同闘争であったことの実態と、加害者としての日本人という認識の観念性が問題にされず、形としての共同闘争がそのまま「多文化共生」実践に移行している。日立闘争における共同闘争の実態を調査し、「七〇年代の「共同」と新自由主義時代の「(多文化)共生」を超える新たな協働の模索」の必要性を唱える加藤千香子の主張は注目に値する(「一九七〇年代日本の「民族差別」をめぐる運動――「日立闘争」を中心に――」(『人民の歴史学』185号、東京歴史科学研究会)。
また社会科学の分野では問題にされる、「多文化主義」というイデオロギーがグローバリズムと新自由主義が跋扈する現実においてどのような役割を果たしているのかという問題意識は、「教育」というカテゴリーに埋没する著作の中では見ることができない。
(10)崔勝久・加藤千香子編(2008)『日本における多文化共生とは何かー在日の経験から』新曜社:164-168頁
(11)「かながわみんとうれん抗議声明」、「阿部市長の外国人市民への『準会員』発言についての申し入れ」((社)神奈川人権センター、自治労川崎市職労働組合他、19団体(http://www008.upp.so-net.ne.jp/mintouren/topc10.htm)
(12)李孝徳(2000)『表象空間の近大―明治「日本」のメディア編制』新曜社、朴裕河(2007)『ナショナル・アイデンティティとジェンダー:漱石・文学・近代』クレイン。個人のアイデンティティは実はナショナル・アイデンティティの上で成り立っているということを西川長夫から学んだが、この認識は私には興味深く、国民国家を相対化するためには、観念的な作業ではなく、まさに自分自身の実存そのものの中に巣くうナショナル・アイデンティティと格闘しなければならないものと理解した。このことを明確に指摘した文京洙の著書に私は深く共鳴した(文京洙『在日朝鮮人問題の起源』(クレイン 2007)及び「こんなに共鳴した本はありません、文京洙『在日朝鮮人問題の起源』」(http://oklos-che.blogspot.com/2010_10_02_archive.html
(13)「「在特会」支持者はどうして、私たちを非難するのでしょう」
(http://oklos-che.blogspot.com/2010/04/blog-post_01.html)参照。
(14)福岡の市民運動「排外主義にNO!福岡」では、「在特会」のような排外主義的な運動に対抗するだけでなく、「排外的言動を生み出すものは何なのか」「排外主義を容認し、持続させる社会の病理を、どのように克服していけばよいのか」という問題意識から学習会を始めようとしている。
(15)「横浜がとんでもないことになっている」
(http://oklos-che.blogspot.com/2010/04/blog-post_01.html)参照。
(16)Bridge For Peace(BFP) のホームページ。http://bridgeforpeace.jp/
(17)崔勝久(2010)『外国人参政権』靖国・天皇制問題情報センター:4-5頁
(18)鄭香均編著(2006)『正義なき国、「当然の法理」を問い続けて』明石書店
(19)私が担当した、明石書店から出版予定の『在日コリア辞典』(朴一編)の「日立就職差別裁判闘争」の項を出版社からの承諾を得て以下、一部引用する。
「1970年、日立製作所の入社試験において氏名の欄に通名を記し、本籍地に現住所を記した在日朝鮮人2世の朴鐘碩青年(当時19歳)が、「嘘をついた」という理由で採用を取り消された。日立就職差別裁判とは、そのことを不服として日立を相手に提訴し、4年にわたる法廷内外での運動で勝利した闘いである。差別を甘受することなく、民族差別の根源を撃つ闘いとして、日立という日本を代表する大企業に公然と立ち向かったことで、「在日」の戦後史において新たな地平を切り開いた。判決は日立の民族差別に基づく不当解雇を全面的に認め、「在日」の置かれている歴史的な状況に言及したうえ日本社会にはびこる民族差別についても初めて公に言及した、画期的なものであった。日立が告訴を断念したことで判決は確定し、それ以降、企業が国籍を理由にした解雇や差別をすることを禁じる法的根拠となっている。」
(20)崔・加藤共編(2008):155-160頁
(21)富永さとる「誰にとって哀れな国なのかー「国民主権」の正体と二つの民主主義」鄭香均(2006):105頁
(22)名古屋市地域委員会のモデル実施に関する要綱、参照。
第8条 委員は、当該地域に住所を有する満18歳以上の日本国民のうち(中略)市長が委嘱する。「名古屋の「地域委員会」でも、国籍条項」
(http://oklos-che.blogspot.com/2010/02/blog-post_7122.html)参照。
(23)朴鐘碩「続「日立闘争」-職場組織のなかで」崔・加藤共編(2008)
(24)「財政の自立性が地方再生の条件―『地域再生の経済学』(神野直彦 中央新書)よ
り」(http://www.oklos-che.com/2010/02/blog-post_9100.html)参照。
(25)私はSustainable Communityを地方自治体で広くスローガンになった「持続する社会」ではなく、「住民が生き延びる地域社会」と意訳し、宮本憲一の解釈を参考にして、「平和と民主主義を希求し、国籍に拘わらず全ての住民の自由、平等、基本的人権を保障し絶対的な貧困を除去すると同時に、環境・資源・生物多様性の維持・保全を根底に据えた、住民が主体となった住民自治を志向する地域社会」と定義した。「「住民が生き延びる地域社会」の実現、というのはどうでしょうか」
(http://www.oklos-che.com/2009/12/blog-post_28.html)参照。
(26)崔勝久「歪められた民族観」『思想の科学』(1976年3月号)
(27)ソウル大学大学院のある歴史学の教授の話からポストコロニズムの韓国歴史学の課題を知った。鄭百秀(2007)『コロニアリズムの超克―韓国近代文化における脱植民地化への道程』(草風館)はこの問題を理解する上で重要な論点を提起している。
(28)日立闘争における共同闘争の実態を調査し、「七〇年代の「共同」と新自由主義時代の「(多文化)共生」を超える新たな協働の模索」の必要性を唱える加藤千香子の主張は注目に値する(「一九七〇年代日本の「民族差別」をめぐる運動――「日立闘争」を中心に――」(『人民の歴史学』185号、東京歴史科学研究会)。
(29)青丘社ふれあい館の理事長であった故李仁夏牧師は、市長の差別発言を批判する声が再燃焼するのを危惧したのか、「外国人」の「準会員」発言を市長が繰り返さないように市長の「口封じ」をしたという事実を自ら明らかにした(崔・加藤共編(2008:166-167頁)。また、その「口封じ」の後で、市が学童保育を廃止して民営化した「わくわくプラザ」をつくる新事業を青丘社ふれあい館が「在日」多住地域で受け持ち運営を始めたとき、児童が二階から落ちて大怪我をし、脳挫傷・頭蓋骨骨折し一生その傷の後遺症に悩むと医師から診断されたという大事件があった(174-176頁)(「ふれあい館副館長釈明記事への公開書簡」、http://homepage3.nifty.com/tajimabc/new_page_78.htm)。
被害者家族に謝罪しない市とそれを不満とする被害者家族の間に、青丘社ふれあい館が仲に入ったものの結局、市の側に立つしかなく、被害者家族は雀の涙ばかりのお金で妥協するしかなかったという話を私は直接当事者から聴いた。
(30)崔勝久『外国人参政権』(2010):49頁。ここで明らかになった「ベクトルの違い」は非常に重要な視点だと思われる。あくまでも増加する外国人を「統治」、「統合」の対象と捉え、そのための政策の具体化のために「多文化共生」という言説を使う官僚・行政の姿勢と、主体的に当事者として地域に関わろうとする外国籍住民との「ベクトルの違い」のことである。
(31)上野千鶴子は、「外国人市民代表者会議」は「意思決定権が委ねられるための何らかの制度的な保障を伴うものでなく、これでは外国人参加の制度化が行われたとは到底いえ」ないとし、「行政のパターナリズム」「“ガス抜きの場」”になる危険性を指摘する(崔2008、229-232頁)。
(32)テッサ・モーリス=スズキ「現代日本における移民と市民権―「コスメティック・マルチカルチュラリズム」克服するために」(2002)
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