2018年9月20日木曜日

平壌の空は青かったー「偉大なる祖国」の光と影、   その(1)

平壌の空は青かった!ーその(1)はじめに
9月6-15日の10日間、私は初めて祖国訪問団の一員として平壌を訪れました。父が11歳の時に離れた黄海道の信川(シンチョン)に行き、父の遺骨を散
骨してきました。


板門店で彼の地に身を置き韓国側を見るだけで、これまでとは違う捉え方ができたように思います。
私が感じた「輝かしい祖国」の光と影をブログでお伝えします。写真は平壌空港と、板門店に行く途中で見えた大同江沿いの平壌の高層ビル、南北両首脳が会い38度線を超えた場所を北側から撮ったものです。



平壌の空は青かったーその(2)父の遺骨の散布
平壌から車で90分、板門店に行く国道を途中で右折して行ったところに黄海道 信川(シンチョン)郡がありました。農村地帯でほとんどが稲ととうもろこしでした。稲作の仕方は畔(あぜ)を作る日本とは違って、水田(畑?)に一面、稲を植えていました。日帝時代の日本の農法がそうだったのか、解放後共和国独自の農法なのか、わかりません。

まもなく博物館に到着しました。毎年、全国民が1回は見学するそうです。正面の看板には、「信川の地の血の教訓を忘れるな」とあります。朝鮮戦争で北を攻める拠点である信川では国連軍と韓国軍が地元住民3万人を虐殺しました。その時の悲惨な出来事が博物館では人形や写真を使って克明に再現されています。博物館の中での展示物については改めてご紹介します。この虐殺の内容はもっと全世界に知らされるべきだと思います。


そこから車で30分位の所に父の故郷の信川 龍山里があり、戸籍のあるところに案内してもらいました。今は一面稲でした。タクシーを置いて、私と案内人は小高い丘を登り途中で畑の中をくぐり、写真の木のところで父の遺骨を散布しました。散布の風習はないので、特例ということでした。

その後、平壌の教会を訪問しました。私は広い礼拝堂の中で、あの地から11歳で一人で釜山に行き日本に渡ってきた父のことを思い、私達兄弟、子供、孫が各地でしっかりと生きていることを報告し感謝の祈りを捧げました。




平壌の空は青かったーその(3)北の被爆者と元慰安婦ハルモニについて
私は祖国訪問団に申請をする時に、父の遺骨の散布と同時に、被爆者と元慰安婦ハルモニとの面談を希望していました。南と北のハルモニ当事者同士が連絡をとりあう足がかりになれればいいと考えたのです。北に行く直前に韓国に行き、被爆者協会の代表と元慰安婦のイ・ヨンス ハルモニとも事前に会いました。手紙を北の当事者に送る手立て、方法についても私が北に行き、当事者及び協会、あるいは当局の担当者と話し合いたいと文書で総連担当者に要望を伝達しました。総連担当者は私の話を聞き、誠意をもって段取りしてくれました。

平壌では6日からの公式行事が連日続き、それが終わりそろそろ担当者に催促しようとしていた矢先、向こうから呼び出され、私達祖国訪問団の担当者より上位らしきの人が私に元慰安婦、被爆者ハルモニとの面談について話したいというのです。まず、元慰安婦ハルモニについては事前に私の担当者が元慰安婦は全て死亡しているという話をしていました。

被爆者ハルモニたちは面識のない私に会いたくないと言っている、1回の共和国訪問ですべて実現しようとせず、何度でも来てくれれば事態は変わると言いながら、南北首脳会談でいずれこの話を含めて合意されるまで、個人的な面談要望に応えることはできないという返事でした。私は個人の資格で来ているが直前に慰安婦ハルモニ、被爆者協会の代表とも面談し、北に行くのであれば北の当事者と連絡を取り合うすべについて話し合って来てほしいという要望を受けており、その旨の報告も総連担当者もしていると説明し、ハルモニたちは年齢も年齢なので、両首脳の合意を待つことなく、南北で連絡を取り合うことだけでも実現できないかと食いさがりました。それは検討して私に返事をするということになりました。私は総連の担当者を通して、本当に元慰安婦は全員死亡したのか、南北の被爆者当事者同士が連絡を取り合うすべについて、継続して質します。

私は北の体制が完全な官僚主義であり、自分の担当以外のことには口出ししない、組織内の上下関係(秩序)は絶対的であることを改めて知らされました。韓国のハルモニたちの期待に沿う働きはできなかったのは残念ですが、以上の報告をあるがまま韓国のハルモニ達、私達の運動仲間、また大邱でいろんな場を作ってくださった崔鳳泰弁護士に伝達いたします。そして両首脳の話し合いの進展に沿いながら、板門店での南北赤十字間の話し合いだけでなく、民間レベルの交流の可能性を具体化させたいと願っています。
(添付写真はイ・ヨンス ハルモニ。ネットから転用しました。)

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