2018年9月27日木曜日

平壌の空は青かったー「偉大なる祖国」の光と影、   その(2)

平壌の空は青かったー(4)マスゲームの素晴らしさ

文在寅大統領が昨日平壌でマスゲームの後、15万人の観衆を前に演説したスタジアムは今回、私たち祖国訪問団もマスゲームを観賞したところです。私たちは観覧席の前から二番目で、後ろのバルコニーには金正恩委員長が中国No.3の要人と現れ、その顔、頭までよく見えました。

スタジアムでマスゲームをする何万という人たちが全員、万歳(マンセー)と叫んで金委員長に手を振るのです。その「マンセー」の声は未だに私の耳にこびりついています。北京への機内で隣り合わせになったドイツ人がいみじくも言ってましたが、彼らはマスゲームを見にきたそうで、それは見事なものでした。皮肉れ者の私は集団でマスゲームがなされればきっと、その中の一人や二人失敗するものだと思っていました。しかし一糸乱れぬ演技とはこのことを言うのでしょう。
https://www.youtube.com/watch?v=DtxsKe2eDW0

日中のマスゲームだけでなく、夜、大学生による松明の人文字や絵柄を表わすマスゲームが同じ会場でありました。数万人の演技者です。彼らもまた演技の途中で全員、「マンセー」を叫ぶのです。見事な演技というより、私はそこにカリスマ支配による政治体制を敷く北朝鮮の核なるものを見たように思いました。支配は上からの一方的なものでなく、下から応えるものがあって成り立ちます。訪朝中に読み始めた、フランス在住の社会心理学学者の小坂井敏晶著『民族という虚構』(2002、東京大学出版社)を是非、参照ください。

建国70年の祝賀で全国民はもちろん、世界中に報道されることを前提に準備をしてきたのでしょう。事実、私が会った四人組のジャーナリストにどこから来たのかと聞いたら、あのアメリカのCNNだと言ってました。ヨーロッパ、中近東、アフリカ、中国、ソ連からの観客が多いように感じました。カナダ、北欧の青年とも会いました。北朝鮮は決して世界で孤立していません。それは逆に日本社会で作られた偏見だと思います。

平壌の空は青かった ー(5) 北朝鮮への帰国事業とは何だったのか
テッサ・モーリス-スズキ『北朝鮮へのエクソダス』ー梶ピエールの備忘録より
「誰もが「それはおかしい」と思いながら、何らかの理由で誰もそれを言い出すことができず、結果として最悪の選択がなされてしまうことがある。日本にとってあの長い戦争がとりもなおさずそのようなものであったことは言うまでもない。」

今回私が北朝鮮に行けたのは総連の祖国訪問団に加えてもらったからです。いわゆる韓国の民主化運動に関わり反原発を唱える韓国人は15万人の建国祝賀会に私以外、誰もいなかったのではないでしょうか。もちろん、祖国訪問団に参加した30名のメンバーにおいても同じです。この30名の人たちは、何らかの事情で帰国事業で共和国に帰国した肉親に会いに行った人たちです。彼らの共和国訪問の動機、その背景を記すと一冊の本になるほど、在日の歴史を反映したものだと思います。

北に「先に帰った」肉親に会いに衣類とお金を持って祖国訪問に加わった人が大部分です。私は日本で事業をしながら北への想いを強め弟と妹二人を帰国させた長男が亡くなり、その意志を継いで北で二人の妹の世話をし続けた次男の兄と二人の妹とその家族達に会いに来た、これが十数度目の訪問いう、ある在日と板門店に行くバスで隣り合わせになりました。彼は事業のために帰化し日本名を名乗っていました。北にいる甥っ子たちと直接話ができるようにと「韓国語」を独学で習得し、実際、韓国人とは何に支障もなく対話ができるようになったという努力家です。しかし北朝鮮の北部の港湾都市に送り込まれそこで生まれ育った甥っ子達とは全く(方言のため)会話が成り立たず、失望したと言ってました。

もちろん彼の兄と妹とは50年経っても日本語はそのまま使えてその在日は日本語で話しをしていました。私は苦労をしたと聞かされたその在日の兄とバスで話をしました。私は言葉が出ず、大変でしたね、とだけ伝えたところ、彼は涙ぐみながら「仕方がなかった」とだけ応えました。以下は彼の話と、彼の兄妹から現地の話を聞いた在日の話しを総合したものです。

60年の前半に帰国した彼らは北朝鮮のチョンジン(清津)という港湾都市に送られたそうです。配給制度はとっくになくなり、生活費は自分たちで稼がなくてはならず、それではとても足りずに、日本の弟からのお金に頼っていたそうです。その在日によるとこれまで3000万円くらい使ったとのことでした。会社をとっくに畳んだ彼は、もうこれが最後だよと言い聞かせたそうですが、おそらくそうはならないでしょう。それが肉親であり、北朝鮮の状況はそんなに急変しないでしょうから。

共和国の官僚(特に幹部)には配給制度が整備されているようですが(参考資料、北朝鮮リサーチ、配給制度、地方ではとっくに有名無実になっており(平壌での実態はわかりません)、特に帰国事業で北に住む在日たちは、日本の身内からの支援と、かすかな副業で生計を立てているとのことでした。

日本から送られた器具と材料でケーキを作り現地の結婚式などで商売をしたり、地方の工場では仕事がないので工場長に賄賂を渡し工場で働いていることにしてミシンがけなどの内職をしている奥さんたちのやりくりで生き延びているそうです。清津は港町で漁港でもあるため、お金を使って漁師をしている人もいるとのことでした。

私と話した在日は徹底的に北の政治状況には批判的で、上から下まで全て賄賂で、「腐りきってる」と辛辣です。私は一切、反論はせず、ただただ彼の話に耳を傾けました。そこからうかがい知れるのは、熱烈な祖国を思う気持ちで参加した帰国事業がもたらした悲劇ですこの在日の長男は弟や妹が日本では今後の生活が思いやられるので共和国に帰国させれば大学生活ができると考えていたようです。その在日は二人の兄が日本にいるときに、マルクス・レーニン主義に染まったから(社会主義国家の北朝鮮に幻想を抱いて帰国するようになった)と思い込んでいるようでした。

他の祖国訪問団に参加した人たちもほぼ同じような事情があるようでした。肉親には会いたいが、お金をその都度持っていかなければならないのは負担が大きいと感じているようで、もうこれが最後と言ってる人が多いようでした。

全ての人はそれなりに北朝鮮の実情を知っていて、誰もが批判を口にしません。口にしたら誰かに迷惑がかかるというより、北の実情をそのまま飲み込み、黙って受け入れようとしているようでした。大部分の人は民族学校で学び、総連の組織活動に関わって来た経歴を持つ人たちです。生半可な共和国批判は謹んでいるのでしょう。民族の矜持と祖国に対する思いがそのようにさせているのではないでしょうか。

それにしても10万人の在日が帰国した帰国事業とは何であったのでしょうか。日本が敗戦後、植民支配の清算に取り組まず、生活保護を受ける比率が高い在日を日本から追い払うために日本政府が帰国事業を画策し背後で進めたとテッサ、モーリスは著書で証拠をあげ実証しています。ピエール梶は、帰国事業は共和国と総連が仕組んだものと捉えているようです。帰国事業は祖国、共和国があって成り立つもので、総連、なかんずく民族学校の存在は歴史的に高く評価されるでしょう。しかし帰国した人も彼らを送った人たちも誰も心から帰国事業は良かったとは言えないようです。歴史的な評価は後世がするしかないようです。


(平壌空港、玄関)



(板門店での警備にあたる軍人との記念写真)

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