2017年6月2日金曜日

たくさんの子どもたちと保護者に惜しまれての妻の「旅立ちに」乾杯!

6月1日朝、妻は14年間勤めた保育園を辞め、新しい保育園に出かけました。保育園での最終日、卒園生やお母さんたち、園児や同僚が集まり彼女が去るのを寂しがり、そして新たな門出を祝福してくれたそうです。私たちの子供や家族にそのことを報告したのが下記のものです。

皆さんへ

昨夜は娘が送ってくれたシャンパンを一緒に飲む予定でしたが、多くの人たちが名残惜しいと保育園に来てくれたため妻の帰りが遅く、また持ち帰れないくらいの贈り物をもらいそれを車でとりにいったりしたので、夕食が遅くなりお預けになりました。次の楽しみです。

彼女がどれほど多くの子供達や母親や同僚から尊敬され、信頼され、愛されていたのか、また卒園した多くの子供達がお別れに来てくれたということを聞き、また写真を見てもそのことはよくわかりました。
妻が何よりもうれしかったのは、お母さんたちから、チョウ先生が一人ひとりの子どもを大事にしてくれたことに感謝するということを聞いたときであったそうです。私もまたうれしくて思わず涙がでそうになりました。

これは、私たちが青春のある時期、全力を尽くして川崎での地域活動に没頭していたのですが、私たちがつくった保育園は結局、民族の問題、差別の問題を訴える在日を主体にしたものではないのか、それでは日本人の居所がないという、保育園のお母さんたちの問題提起があり、わたしたち夫婦はその意味をしっかりと受け止めようとして、結局、そこを出ることになった歴史と関係しています。私たちは在日の差別問題から出発しながらも、「多文化共生の街、かわさき」ではなく、「住民主権の街、かわさき」を求めるべきであったと、私は考えるようになりました。

民族保育を乗り越える、あるいは充実させる保育内容として、障害のある子どもをいれるとか、「発達の保障」ということがいわれたのですが、妻は一貫して、一人ひとりの子どもを大切にするということを考え、実践して来たのです。私たちがはじめたお店のことや会社のことで現場を離れていたのが、Y保育園に入り、14年を過ごし、そこで多くのことを学びながら実践してきたのが、一人ひとりの子どもを大切にする、見守るということでした。そのことがお母さんたちから理解されていたということが何よりもうれしかったというのは、私はよく理解できました。

というわけで、今朝は大きなお弁当を作り、いささか緊張しながら出かけました。これからまた彼女の新しい挑戦がはじまるのでしょう。一人ひとりの子どもを大切にするというのは、子供達ともそして誰とも人格的なふれあいをするということでしょう。そこに彼女の人柄、人格が表れていると思います。

私もまた、彼女の勇気と 前向きな姿勢に誘発されながら、歩みたいとおもいます。

付記:「妻が何よりもうれしかったのは、お母さんたちから、チョウ先生が一人ひとりの子どもを大事にしてくれたことに感謝するということを聞いたときであったそうです。」この言葉には実は私達夫婦だけが知る、深い意味がありました。

2010928日火曜日
個人史―私の失敗談(その5、お母さんたちの問題提起)
http://oklos-che.blogspot.jp/2010/09/blog-post_28.html

「在日」と日本人のお母さんたちが一緒になって話し合い、保育園のあり方に問題を投げかけるようになりました(曺慶姫「『民族保育』の実践と問題」『日本における多文化共生とは何か』(新曜社)参照)。

民族や国籍に関わりなく子供一人ひとりを見守るというより、どうしても差別に負けない子供に育ってほしいという運動をしてきた私たちの思いが、保育内容や、組織の在り方にでてきていたのです。「在日」の大変さや差別の実態を聞かされても地域の日本人父兄からすれば、私たちの子供と私たちの生活の大変さはどうなるのよということにならざるをえません。
妻は元保母として保育内容の問題を根底から考え直さなければならないと考え、保育の現場を家庭の事情で離れY保育園に職場復帰してからも「子ども一人ひとりを見守る」という保育をやり続けてきました。

2012109日火曜日
「多文化共生」は、現代の植民地主義のイデオロギーです
http://oklos-che.blogspot.jp/2012/10/blog-post.html

私たちは40年前、日立就職差別闘争に関わり、川崎の地で、自分たちと同じように朝鮮人であることに苦しんだり悩んだりしない子どもにしようと、保育園のなかで民族的な要素を入れ、日本の子どもにも韓国の歌を教えたり、本名を名乗らせるようにしてきました。それをいつしか「民族保育」というようになりました。今は「多文化共生保育」というそうですが、私は妻が勤めるY保育園の運動会の子どもの成長具合を見ながら、自分たちのやってきたことはなんだったのか、考え込みました。

差別に負けない子にするという当時の自分たちの思いが先走りしていたのではないのか、その熱い思いが観念となり、押しつけになり、結局、一人ひとりの子どもの成長を見守り、集団づくりというような(集団づくりが必要だったのは子どもより、周りの保育士や保育園全体でしたね、今思えば)思いあがった考えをもっていたことを恥ずかしく思います。
右から左から、経営者から労働組合、すべての人が口をそろえて「多文化共生」「共生」を賛美するのは異常です。その根底には強固な、無意識の日本のナショナリズムがあるのです。日本の為政者は「共生」と「統合」を同じ概念としています。さもありなんというところですね。多文化共生は現代の植民地主義のイデオロギーです。

「多文化共生の街、かわさき」ではなく、「住民主権の街、かわさき」に変えていかなければならなりません。一人ひとりがしっかりと自分の意見を言い、対話ができ、そこで共有化されたことを国籍や民族、障害の有無、性、所得に係りなく具体化していける街、かわさき、そんなことができればいいなと思います。

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