「受け継がれる被爆」の終わりなき苦しみをご存じですか?と冒頭にありますので、これは韓国人被曝者2世の集まりである患友会会長のハン・ジョンスンさんがハンギョレ新聞に投稿したものと思われます。
韓正淳(ハン・ジョンスン)はこれまで何度もOCHLOSでご紹介しました。東京の民衆法廷でも証言されましたが、川崎の集会でお話しされた、心打つお話は忘れることはできません。彼女たち被曝者2世たちの闘いに連帯をしていきたいと願います。
韓国の被爆2世からの心打つ、未来に向けたメッセージ
http://oklos-che.blogspot.jp/2013/07/blog-post_23.html
敬愛するオバマ大統領
私は韓国に住んでいるハン・ジョンスン(57)と申します。オバマ大統領が27日、広島を訪問するというニュースを聞き、この世に生まれた瞬間から、被害者として生きて行くことを余儀なくされている韓国原爆被害者2世の切ない事情をお伝えしたい思い、この手紙を書いております。
私の親は1945年8月6日、広島で被爆した原爆犠牲者であり、私は親から受け継いだ被爆の後遺症に苦しんでいる原爆被害者2世です。原子爆弾が爆発した当時、我が家には祖父、祖母、父、母、父の兄弟7人、姉、弟など、13人の大家族が暮らしていました。母は妊娠中でした。幸い家族は命だけはとりとめましたが、やけどを負うなど全員大ケガをしました。
解放を迎え、父は家族全員を率いて韓国に帰りました。母は帰国直後に出産しましたが、原因不明の病気で赤ちゃんは生まれてすぐ亡くなりました。以後、母はさらに6人兄弟をもうけました。父は1979年に亡くなるまで、心臓病を患っていました。兄は30代前半に脳卒中で亡くなり、一番上の姉も30代前半に病名も特定されないまま、突然亡くなりました。 8人兄弟の7番目だった私は幼い頃から体が多く、中学校に入ると、両脚に痛みを感じるようになりました。様々な種類の治療を受けましたが、あまり効果がなく、原因も見つかりませんでした。中学校を卒業してから大邱(テグ)で就職することになったのですが、足の痛みのため、仕事に出ては休むことを繰り返しました。
陜川原爆被害者福祉会館近くの慰霊閣には1057位の原爆犠牲者の位牌が奉られている。2015年8月6日、原爆被害者のお年寄りが位牌を見つめている=チャン・ソンハ氏提供//ハンギョレ新聞社
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兄と姉、30代で他界
自分も幼い頃から病弱
脚の痛みで人工関節
息子も脳性麻痺で生まれ
被爆者の子供たちの苦しみに耳を傾けていただきたい
自分も幼い頃から病弱
脚の痛みで人工関節
息子も脳性麻痺で生まれ
被爆者の子供たちの苦しみに耳を傾けていただきたい
24歳で結婚して翌年に息子を出産しましたが、子供は生まれた時から脳性麻痺の障害を持っていました。晴天の霹靂でした。健康はますます悪化していくのに、子供が先天性の障害を持っているなんて…。姑の冷たい視線と無視する夫。息すらできないほどの苦しみが押し寄せてきました。苦しい時間を耐えながら、第2子を出産したが、幸いにも健康な子供が生まれました。
時間が経つにつれ、上の子の手足は曲がり、固まり始めました。痛む脚を引きずって子供をおぶり、病院を転々としながら治療を受けましたが、なかなかよくなりませんでした。私も立ち上がれないほどの痛みで、病院を受診したところ、大腿部無血性壊死症の判定を受けました。人工関節を入れる手術以外には方法がないと言われました。当時家の経済事情では到底手術費を払えず、実家の兄弟たちが用意してくれました。手術を受けて2カ月ほど経つと、再び歩けるようになりました。しかし、すでに生活は苦しくなり、夫の心も離れた後でした。姑も「病気の息子を生んでおいて、今度は自分の病気で家族を苦しめるのか」と私を責め続けました。結局、離婚して夫と別れました。
しばらくして3番目の姉も大腿部無血性壊死症で人工関節を入れる手術を受けました。他の兄弟たちも、心筋梗塞や肩関節の手術などを受けました。
そうした中、2002年、原爆被害者の子供たちが親から受け継いだ被爆の後遺症で苦しんでいるというテレビ番組を偶然目にしました。原爆被害者の子供たちが韓国原爆2世患友会という会を結成し、慶尚南道陜川(ハプチョン)原爆被害者福祉会館に集まっているということを知り、そこを訪ねました。
夏なのに長袖のジャンパーを着て、首にタオルまで巻いた男性が、咳をしながら資料を配っていました。彼は「釜山(プサン)に住むキム・ヒョンリュルさんです。母が原爆被害者で、私は肺機能が一般人の20〜30%に過ぎず、しょっちゅう肺炎になりながら、かろうじて生きています」と自己紹介しました。
2世、3世を襲った後遺症、日本もアメリカも韓国も無視
長年の脚の痛みに人工関節
息子も脳性麻痺で生まれたが
「医学的証明できない」と被爆被害認めてもらえず
長年の脚の痛みに人工関節
息子も脳性麻痺で生まれたが
「医学的証明できない」と被爆被害認めてもらえず
自分よりも大変な人がいることを、その時初めて知りました。自分の苦しみが被爆の後遺症であることも知りました。この問題を解決するためにキム・ヒョンリュルさんと共に活動しようと心に決めました。しかし、それもつかの間、キム・ヒョンリュルさんは2005年に35歳の若さでこの世を去りました。私と同じ病名で手術を受けたチョン・スクヒさんが後を継いで原爆2世患友会会長を務めることになり、私は総務を務めました。
3年後、チョン・スクヒ会長の健康が悪化し、外部活動が難しくなったため、私が第3代会長を務めることになりました。原爆2世患友会を維持させながら、生活のためにサウナやモーテルの清掃など、仕事を選ばずどこででも働きました。結局、心身ともに疲れ、再び受診したところ、高血圧やうつ病、神経障害による不眠症、近弛緩症、めまい、胃腸の異常など、あらゆる病名の診断を受けました。
病院に入院している間、一文無しの私がこれからどう生きていくべきなのか、ずっと悩んでいました。その後、横のベッドで患者の世話を見ていた看病師が暖かい手を差し伸べてくれました。だから、私も病気に苦しむ人たちを助けたいと思い、資格を取って看病師になりました。今では、患者の世話をしながら、彼らを通じて自分も癒されています。
体が不自由で移動が困難な原爆被害1世たちが21日午前、慶尚南道陜川郡の原爆被害者福祉会館の窓の外を眺めている=陜川/キム・ボンギュ先任記者//ハンギョレ新聞社
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病気の体で生きて行くにはあまりにも長い時間
2世、3世の苦しみに耳を傾けてもらいたい
私が経験した苦しみは、原爆2世患友会の他のメンバーたちに比べれば、平凡なものに過ぎません。初代会長だったキム・ヒョンリュルさんは、先天性免疫グロブリン欠乏症という難病で命を失い、第2代会長を務めたチョン・スクヒさんは人工関節を入れた手術部位が完全に治っておらず、まだまともに歩けません。チョン・チャシ副会長の場合は、本人には特別な後遺症が現れませんでしたが、娘さんがダウン症候群を患っています。チョン・スクヒさんの弟夫婦もダウン症候群を患っています。
にもかかわらず、私たち原爆被害者2世は、被爆の後遺症で苦しんでいるという事実自体を認めてもらえないのです。私たちを苦しめている病気が被爆の後遺症という医学的な証明ができないからだそうです。それなら、私たちが患っているこの難病の原因は何であり、この終わりなき苦しみは、誰に訴えるべきなのでしょうか?
ハン・ジョンスン韓国原爆2世患友会名誉会長//ハンギョレ新聞社
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だから、オバマ大統領にあえて要請いたします。原爆投下71周年を迎え、再び原爆による被害者が生まれない平和な世界、世界中のすべての人々が思いっきり笑い、幸せを噛みしめられる美しい世界を子孫に残せるように努力すると約束していただきたいです。そして一方的に被害を受けた韓国原爆被害者とその子供たちを慰め、癒していただきたいと思います。
さらに詳しい話は27日、広島に訪れ、オバマ大統領に直接申し上げます。お忙しい中でも、貴重な時間を割いていただき、韓国の原爆被害者とその子供たちの苦しみに耳を傾けていただきたいと思います。27日にうかがうことを約束しながら、この手紙を書き終えます。
大韓民国で ハン・ジョンスン拝
陜川/整理チェ・サンウォン記者(お問い合わせ japan@hani.co.kr)
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