2016年5月23日月曜日

拝啓、中曽根康弘元総理大臣殿、元「慰安婦」への謝罪を ー木村公一

福岡の教会の専任牧師を辞任され協力牧師になられた後も、西南学院大学で老人学などの講座を受け持っていらっしゃる木村公一牧師は、地域の問題だけでけでなく、原発メーカー訴訟の会・本人訴訟団の代表としてインドネシアや韓国を訪問し、原発体制に抗う国際連帯運動の構築のために精力的な活動をされています。

過日、木村さんとソウル滞在中に、インドネシアの元「慰安婦」の依頼で、インドネシアで「慰安所」を作ったと回顧録に記した中曽根元首相に対して、中曽根氏から直接謝罪の言葉がほしいという手紙を送られたことを知りました。ご本人の承諾を得て、ここに中曽根元首相への手紙を公開します。

従軍「慰安婦」問題は、軍の直接的な「強制」によるものではないという詭弁が横行し、本人の証言を疑問視し、「慰安婦」は当時合法的であったおかねをもらった売春に過ぎないという声が日本国内で高まりました。しかし「慰安所」を作ったのはまぎれもなく日本の軍であり、しかも自分が作ったと証言した元首相の中曽根氏はこの点に関して、日本社会に自らの見解を公表したことも、元「慰安婦」に関する謝罪をしたこともありません。世界はこの問題に関して、Sex Slaveであると糾弾しています。木村さんの手紙に対して中曽根氏は返事を出さなかったようですが、まだご健在とのこと、是非生きていらっしゃる間に、「慰安婦」問題に関する謝罪と見解を公にしていただきたいと願います。 
    
 なお、日韓両政府の「慰安婦」問題解決の合意は最終的なものでなく、何よりも日本政府の元「慰安婦」への直接的な謝罪を含め、さらに議論すべきことが多々あるということはしっかりと確認されるべきでありましょう。    崔 勝久      


世界平和研究所会長
中曽根康弘元総理大臣殿             2009109

拝啓、中曽根康弘様
 突然、手紙を差し出す無礼をお許し下さい。わたしは木村公一と申します。1986年から17年間、インドネシア中央ジャワでキリスト教神学校の教師を務めていた者です。2002年に帰国し、現在は福岡市にある福岡国際キリスト教会(日本バプテスト連盟)の牧師を務めています。

 実はお願いがありまして失礼を省みず手紙を書かせていただきました。このたび、スハルティという81歳になられるインドネシアの婦人が先生にお会いしたいという願いを持って来日されます。来る1128日に来日、1130日から122日まで東京に滞在されます。スハルティさんのお気持ちを汲んで、わたしも先生に是非とも彼女に会っていただきたいと希望しており、このように手紙を差し上げる次第です。先生がお忙しいお立場にあることは重々承知しておりますが、この老婦人の願いを先生に取り次ぎ、彼女の願いを叶えてあげたいと思いまして、謹んでこの労を引き受けた次第です。

 わたしは1992年以来、中央ジャワの神学校で教えるかたわら、日本の植民地時代に「慰安婦」にされたインドネシア女性の被害調査を行い、幾つかの調査結果を発表してきました。その過程で先生の書かれた文章にも遭遇する機会がありました。『終わりなき海軍』(1978年松浦敬紀氏編集。文化放送開発センター出版部)という書物の中で、「23歳で三千人の総指揮官」という先生の回想録を読ませていただきました。ボルネオのバリックパパンで当時、日本軍「第二設営班主計局長」のお立場にあった先生が、軍慰安所設営に関わったことを次のように証言されています。「三千人からの大隊長だ。やがて、原住民の女を襲う者やバクチにふける者も出てきた。そんな彼らのために、わたしは苦心して、慰安所をつくってやったこともある」。(98頁)

 1943年当時スハルティさんは15歳の少女でした。当時ジャワの村々には一定の若い男女を「兵補」あるいは「ロームシャ」として送り出す義務が課せられていたようです。ご両親と共に彼女自身も納得しないまま「一年間のタイピスト研修」という務めに送り出されたのでした。スハルティさんは同郷の数十名の娘たちと共にスラバヤから漁船でジャワ海を越えて、先生が「苦心して慰安所をつくってやった」と言われるボルネオ・バリックパパンへと渡ったのでした。彼女たちを待っていたのは「日本軍慰安所」でした。それから日本の敗戦まで2年半、日本兵たちの性奴隷として地獄のような生活が彼女を苦しめました。

 スハルティさんはこの世を去る前に、ご自分のこころに抱き続けてきた日本に対する憎しみを清算して、天国へと旅たち、神の裁きと赦しに与かりたいと願う敬虔なカトリック教徒です。このたびの来日を機会に、彼女は是非先生にお会いし、直接、謝罪の言葉を頂きたいと願っているのです。お会いしていただけないでしょうか。彼女の願いを聞き入れ、お会いしてくださるなら、先生はきっと、日本の保守政治家の道義心の模範を若い政治家たちと国民に示すことができるはずです。

また、アジア諸国とオランダの「慰安婦」被害者たちとその遺族に対し、日本の戦争・戦後責任を言明する良き機会となるはず。さらに、この度発足した民主党政権に対し、この国が東アジアの共生と平和構築に貢献するためには、戦争・戦後責任を誠実に担う道徳的基盤を布設することが不可欠であると提言する良き機会にもなるかもしれません。もしも、先生がこのような行動を公にされるのであれば、わたしは謹んで先生に対し宗教者として全面的な協力を申し出る用意があります。英知と誠実さに裏付けられた行動は、被害者たちの心身に刻まれた深い傷を癒やし、和解をもたらし、裂かれた歴史に平和を造り出す力となることでしょう。さらに、「世界平和研究所」の会長であられる先生にとりましても最も相応しい行為になると信じます。

  大変恐縮ですが、10月末日までにご返信をくださいますようお願い申し上げます。わたしの文章に失礼な表現がありましたら、どうぞご容赦下さいますようお願いします。
敬具
木村公一
福岡国際キリスト教会牧師
福岡にて

メモ:
2009121日、スハルティさんは支援者たちと共に、平河町・砂防会館3階にある中曽根事務所を訪れたが、家族が「インフルエンザが流行しているときなので、〔中曽根の〕外出は控えさせた」ということで、残念ながら、面会は果たされなかった。それにしても中曽根氏は働きものです。翌日に自民党本部を訪れ、谷垣自民党総裁と会談している(インターネット情報)のですから。
広い応接室の壁には、レーガン大統領をはじめ、世界中のさまざまな政治指導者たちと撮った写真が飾られていたが、「この最も小さい者にしなかった」(マタイ福音書2545)面談不作為の罪を神は問い続けるであろう。


「慰安婦」被害者スハルティ(1929年生まれ)さんの個人史

 夕日に照らされたマンゴウの樹の下で、スハルティさんは1944年、東ジャワ州クディリのカンプン・ンドゥウェットの町役場に集められ、自らの青春を滅茶苦茶にされた事件について、語りはじめた。その時、日本軍はボルネオ(現在のカリマンタン島)で働かせる15歳以上の女性を探していた。選ばれた少女たちとその親たちは町役場から呼び出しを受けた。スハルティさんの両親もその中に入いた。村長は父親に「(ボルネオに行けば)スハルティさんを学校に通わせてやる」と言った。初め、その父親は「スハルティは学校になど通ったことがないから」と申し出を断ったが、町長は「それなら仕事をやろう」と言った。村長は執ように娘を手放すよう迫った。日本軍は町役場に各村から少女を「供出」するよう割り当てていたのだった。

 当時スハルティさんは15歳だった。異なる村から彼女と3人の少女が選ばれ、日本軍のために働くことになった。当初、スハルティさんたちは行き先も知らされていなかった。東ジャワのスラバヤに着いた時、多くの男と女がタンジュン・ペラック港に集まっていた。ようやく、スハルティさんは「オトマル」という大きな木造船に乗せられてボルネオに行くことを知った。2泊3日の船旅だった。

 スハルティさんの一団はボルネオのバリックパパンに到着すると、木造の簡素な住宅に連れて行かれた。建物の中には30個ほどの部屋が廊下を挟んで設けられていた。そこで、スハルティさんは軍人と軍属のために、昼も夜も慰安婦として働かされた。言うまでもなく、スハルティさんの衝撃は大きかった。しかしその苦い現実を受け入れる以外に道はなかった。名前も日本風に「みき」と変えられた。慰安所に来る客は入り口で切符を買い、入室前にコンドームを携帯することが義務付けられていた。

 慰安所にいる間、スハルティさんが自分の「労働」に対する報酬を得ることはなかった。雑穀の混じりのわずかの米飯が日々の食べ物だった。スハルティさんたちはいつも空腹だった。兵隊が厳重に守っており、逃げ出すこともできなかった。慰安所は丘陵地帯の森の中にあり、部屋からは海が見えたという。

 スハルティさんはその慰安所に6ヵ月間閉じこめられていた。連合軍の空襲が始まった。切符切りの男の知らせで、スハルティさんと何人かの慰安婦たちは逃げ出すことができた。彼女たちは52日間かけて、森の中を歩き続け困難と闘いながら、やっとバンジャルマシンの町に到着した。
 慰安所を出る時に渡された住所が書かれた手紙を頼りに彼女たちが見つけた場所、そこはバンジャルマシンのトゥラワンにあった別の日本軍慰安所だった。彼女たちは慰安所で働くことを再び余儀なくされた。スハルティさんは、そこで、騙されて連れてこられたマルディエムさんと親しくなり、互いに助け合って苦難を忍んだ。

 1945年になると、連合軍がバンジャルマシンの日本軍を空襲し、進攻してきた。慰安所で働いていた全ての女性たちは、その混乱に紛れてまぎれて必死に慰安所から逃げた。スハルティさんも身体ひとつで逃げた。

連合軍が制圧したバンジャルマシンは治安が取り戻された。スハルティさんは食堂で働いて身銭を稼いだ。そこでオランダ植民地時代にオランダ兵として働いていたインドネシア人男性に出会い、結婚した。スハルティさんは、夫の転任に従って、南カリマンタン、東カリマンタンを転々とした。そのうち、いくつかの軍の駐屯地で、スハルティは差別を経験している。インドネシア人たちも、日本の占領時代に彼女が「慰安婦」として働いていたことを知り、彼女を蔑んだのだった。そんなときに決まって彼女を守り励ましてくれたのは夫であった。

1950年代、スハルティさんは、夫の生まれ故郷のジャワ島のジョグジャカルタに移った。そこで、マルディエムさんと偶然の再会を果たした。スハルティさんは子宝に恵まれた。2000年、東京で行われた国際女性戦犯法廷に、他の「慰安婦」被害者たちとともに証人として出廷した。すでに老年に達したが、日本軍に踏みにじられた正義と人権を取り戻すための彼女の戦いは今も続けられている。Ω
(文責・木村公一200911月)


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