「日立闘争全面勝訴から原発メーカー訴訟までの軌跡」
朴鐘碩 2016年1月15日 於龍谷大学
龍谷大学での講演
龍谷大学で講義することになったのは、『日本における「多文化共生」とは何か』を読み、それを基に多文化共生に関する授業を実施し、また、昨年6月発行された「アリラン通信54号・日立就職差別裁判を闘って反原発運動にかかわる朴鐘碩さん」の記事を読んだ出羽孝行准教授からの連絡でした。龍谷大学1,2回生を対象にした授業9:00~10:30で私の体験を話すことになりました。教授は、昨年12月14日、横浜国立大学の講義に出席し、行政と運動体の「共生」、企業社会の「労使協調・協働」の実態を知り、深く関心を示されていました。
龍谷の学生、関係者、外部からの参加者、「日韓人権問題ワ-クショップ」に参加した韓国・京畿道の大学、中学・高校で構成される「京畿道人権教育研究会」の先生方15名含めて150名近くの人たちが聴講しました。
主催した龍谷大学教育学会・会長の林美輝准教授は、「高校生の時、授業で日立闘争を知った。パクさんは裁判で完全勝利し、日立に入社し、その後も様々な活動をされていると聞き、今日のお話を大変楽しみにしています」と挨拶されました。
出羽教授が私の経歴を簡単に紹介した後、日立闘争のスライド(20分)を上映しました。学生、参加者の皆さんは、全員真剣な眼差しでした。
韓国からの参加者との出会い
教授は、事前に「アリラン通信」の記事を翻訳し、韓国・京畿道の先生方に配布、説明されたそうです。スライドの内容、私の話も通訳していただきました。教授の事前準備、通訳などのご尽力により、京畿道の先生方は、驚いた様子で興味深く聞いていました。
京畿道の先生から、「東京高裁の裁判官であった中平健吉氏が、退官して弁護士になって弁護したことは重要だ。民族団体は、支援しなかったのか」という質問があり、「民族団体は、日立闘争は同化・日本人化に繋がると批判し、当初関わりませんでした」と、私は応えました。
学生たちは、同じ年代で就職差別した日立製作所を提訴した私の話を、将来職場で自分も同じような壁に突き当たるかもしれない、と感じながら聞いていたと思います。
授業終了後、11:00~13:00まで昼食をとりながら、「日韓人権問題ワ-クショップ」が開かれました。人権教育に取り組む京畿道の先生方はじめ20名余が集まりました。韓国・亜州大学教授と私が問題提起しましたが、日立闘争後の職場における活動、原発問題が話題になりました。
京畿道の先生方は、自己紹介しながら、「日立闘争を終えて、入社した後も人間性を求めて、職場において一人でやってこられた内部告発、活動、講演に感動しました。パクさんにお会いできて感謝しています」と感想を述べていました。出羽教授夫妻が通訳してくださいました。こうした感想を聞きながら、逆に私の方が驚きました。
日立闘争のスライドは、韓国語版を作成し韓国で上映したら反響があると確信し、これを機会にできれば出羽教授に協力をお願いしたいと思いました。
亜州大学の呉東錫教授は、「韓国にも原発がある。原発は東アジアに集中している。韓国は中東・アラブに輸出しようとしている。原発は、米国が介入し軍事化に繋がっている」と語っていました。
私同様、長年企業に勤めて定年退職された(日本の)参加者は、「パクさんの話を聞いてよかった。本当に企業社会はものが言えない。ものを言えば昇進できない。左遷される。私は、職場で何もできなかったが、話を聞くことでもやもやしていたことがすっきりした」と感想を述べていました。
京畿道の先生方はじめこうした人たちとの出会いを大切にして、国際連帯で「原発メ-カ-訴訟」の闘いが展開できればと思います。
京畿道の先生の一人は、「日本における多文化共生とは何か」「戦後史再考」を購入し、「韓国語に翻訳したい」と言っていました。「京畿道人権教育研究会」安今玉会長から、韓国のお土産をいただきました。
「ワ-クショップ」を終えて、「1909年(明治42年)10月26日、中国東北部のハルピン駅で伊藤博文(初代韓国統監)を射殺した韓国の独立運動家である安重根」の資料を龍谷大学図書館で見学し、京都駅で皆さんと別れました。
日韓人権問題ワークショップ
「日立就職差別裁判」の原告であった朴鐘碩(パクチョンソク)さんと、韓国京畿道の中学・高校教員で構成される京畿道人権教育研究会の先生方との間でワークショップを行います。朴鐘碩さんと呉東錫さんの話題提供ののち、参加者の間でディスカッションを行います。基本的には同研究会メンバーを対象としたワークショップですが、龍谷大学の学生の皆さんの参加も歓迎いたします。
記
●日時:2016年1月15日(金)
午前11時00分~12時30分
●場所:龍谷大学 深草学舎 和顔館214演習室
●話題提供者
朴 鐘碩 氏(日立製作所・嘱託所員)
呉 東錫 氏(亜洲大学校法学専門大学院教授)「人権教育と児童生徒人権条例」
本会は昼食をとりながら進行する予定です。学生の皆さんは各自で昼食を準備してきてください。
問い合わせ先:龍谷大学大宮学舎出羽研究室 (大宮学舎西黌320)
電話 075-343-3311(内線5320)
主催:京畿道人権教育研究会、学生人権条例科研(注1)
(注1)科学研究費助成事業(基盤研究(C))「韓国における学生人権条例の制定と定着に関する研究」(課題番号:26381158、研究代表者:出羽孝行)
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
以下、講義で配布したレジメと講義(追記)です。
~日立闘争全面勝訴から原発メ-カ訴訟までの軌跡~
朴鐘碩 2016年1月15日 龍谷大学
【略歴】
1951年、愛知県西尾市で9人兄姉の末っ子として出生
県立碧南高校卒業後、日本名で日立製作所受験、合格 国籍を理由に採用取消
1970年12月横浜地裁提訴 日立就職差別裁判闘争始まる
民族組織は、「裁判は同化に繋がる」と批判。
1974年6月19日 完全勝利判決 9月コンピュ-タソフトウエア員として日立に入社
入社5年後、胃潰瘍で1ヶ月入院。職場集会で日立製作所労働組合批判。
1995年、勤続25年記念論文会社/組合に提出 事業所は国旗、国歌中止。
「戦後50年日韓交流への提言」論文 朝日新聞・東亜日報に応募(朝日1995.7.31)
「当然の法理・共生体制」批判 (民族)差別と労働者の問題 ものが言えない(企業)社会
2000~2010年 ソフト執行部委員長に立候補-敗北。2000年~評議員に立候補-敗北。
公正な選挙、組合費の使途、春闘/一時金闘争など問題点を提起
日立製作所労働組合への公開質問状 開かれた経営、組合組織を求める。
「企業内植民地」批判 2011年11月定年退職 12月から日立製作所で嘱託として勤務。
戦後の原発体制と日立の植民地的経営 2011・3・11原発事故
日立製作所 会長・社長に原発事業からの撤退、原発海外輸出中止を求める。
証拠説明書 戊第14号証「原発メ-カ-訴訟の会・本人訴訟団」http://www.nonukes-maker.com/
「原発メ-カ-訴訟の会」 http://maker-sosho.main.jp/ mail:info@maker-sosho.main.jp
【参考資料】
「外国人への差別を許すな・川崎連絡会議」-コミュニケ-ション-掲示板
http://homepage3.nifty.com/hrv/krk/index2.html
「原発メ-カ-訴訟の会・本人訴訟団」
http://www.nonukes-maker.com/
「原発メ-カ-訴訟の会・本人訴訟団」証拠説明書 戊第14号証 2015年10月28日
「アリラン通信NO.54」反原発運動にかかわる 2015年5月
「戦後史再考」共著 平凡社 2014年10月
「No Nukes Asia Forum 2014 in Taiwan」に参加して 2014年10月13日
「原発体制から「見えない」植民地主義と排外主義の考察」2014年7月16日
「日立資本の城下町・茨城県日立市で反原発をアピ-ル」2014年3月11日
~1970年「日立就職差別闘争」からの問題提起~歴史科学講座 一橋大学2014年2月1日
「外国籍職員の任用に関する運用規程」-外国籍職員のいきいき人事をめざして- 川崎市
横浜国立大学での講義 2013年7月19日
「原発事故と日立就職差別糾弾闘争」考察 2013年7月5日
「植民地主義の時代を生きて」(西川長夫)を読んで(1) (2) 2013年6月16日,21日
川崎市長への抗議文 2013年3月1日
日立製作所(会長・社長)への要望書 2013年6月3日 2012年10月17日
「(続)日立闘争・在日としての経験・現代の日本社会」 2012年8月15日
「原子力を世界に」求める日立 2012年7月1日
日立製作所(会長・社長)への抗議文 2012年6月19日
「日本における多文化共生とは何か」共著 新曜社 2008年7月
「耕論オピニオン 冷や飯を食う」2012年5月12日朝日新聞
「窓 論説委員室から ある会社員の定年」2011年12月28日朝日新聞
「勤続25年」1996年1月27日朝日新聞
日立製作所労働組合・統制委員会への公開書簡 2006年6月2日
http://homepage3.nifty.com/tajimabc/new_page_111.htm
日高六郎理事長 高橋幸吉事務局長への抗議文
社団法人 神奈川人権センタ-を糾弾する 1997年1月
http://homepage3.nifty.com/tajimabc/new_page_140.htm
にゅうす・らうんじ「在日」の壁乗り越えて1990年5月28日朝日新聞
「民族差別-日立就職差別糾弾」亜紀書房 1974年
民族的自覚への道-日立就職差別裁判上申書(生い立ち) 1974年
http://homepage3.nifty.com/tajimabc/new_page_18.htm
日立就職差別裁判 横浜地方裁判所判決 1974年6月19日
http://homepage3.nifty.com/hrv/krk/index2.html
【講 義】(追記)
40年後の朴鐘碩本人です。よろしくお願いします。
40年以上前の「日立闘争」のスライドを観ていただきました。
スライドにも出ていましたが、私は高校卒業後、皆さんと同じ19歳の時に就職差別した日立製作所を横浜地裁に訴えました。4年近い裁判闘争で民族差別の不当性を訴え、日立の経営陣を糾弾し、国境を越えた運動によって完全勝訴し、私は22歳で日立に入社しました。在日朝鮮人への差別・偏見に立ち向かい、常識を覆した日立闘争は「これでようやく終わった」と思いました。
先程、龍谷大学教育学会・会長の林美輝准教授は、「高校生の時、授業で日立闘争を知った。」と挨拶されていましたが、この日立就職差別裁判闘争は、公立高校の教科書・「現代社会」に掲載されています。
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
【判例】日立訴訟-在日朝鮮人への就職差別
【概要】1970年愛知県の高校を卒業した朴鐘碩(パクチョンソク)さんは、横浜市にある日立製作所ソフトウエア工場を受験、9月に採用通知を受けた。しかし「在日朝鮮人なので戸籍謄本は提出できない」と話したところ、会社側は「応募書類に日本名(新井鐘司)を用い本籍も偽って記入するなどウソつきで性格上信頼できない」として採用を取り消した。そこで朴さんは「採用取り消しは在日朝鮮人であることを理由とした「民族差別」として提訴した。
【裁判の経過】横浜地裁(1974.6.19):労働基準法第3条(均等待遇)、民法第90条(公序良俗)に反し、採用取り消しは無効。会社側は控訴断念。
【地裁判決の要旨】「在日朝鮮人」は、就職に関して日本人と差別され、大企業にほとんど就職することが、多くは零細企業や個人経営者の下に働き、その職種も肉体労働や店員が主で、一般の労働条件も劣悪な場所で働くことを余儀なくされている。また在日朝鮮人が朝鮮人であることを公示して大企業等に就職しようとしても受験の機会さえ与えられない場合もあり、また朴さんにとって日本名は出生以来ごく日常的に用いられてきた通用名であって「偽名」とはいえず、採用試験に当たって、前記のような在日朝鮮人のおかれた状況から、氏名・本籍を偽ったとしても、採用を取り消すほどの不信犠牲があるとは認められない。(「民族差別」亜紀書房などによる)
【解説】朝鮮人として生きる権利
現在の在日韓国・朝鮮人の多くは、日本の植民地統治下(1910~45)に土地を奪われたり貧困化して(時には強制連行により)日本に渡ってきた人々や、その子孫である。多くの日本人は、在日韓国・朝鮮人が日本名を名のることに少しも疑問を抱かないし、本名を名のる在日韓国・朝鮮人には違和感を覚えるひとさえいる。しかし、本名を名のりたくても名のれない差別が、厳然として存在することを忘れてはなるまい。「バカでもチョンでも・・・」などという時の「チョン」は朝鮮人に対する蔑称である。この判決は、こうした差別の現実をえぐり出した画期的なものである。判決後会社側(日立製作所)は控訴を断念。「現代社会 2015」
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
日立闘争のあと、日立に入社して
その後、日立に入社した朴は、職場の人たちとうまくやっていけたのか、日立は、本当に差別をなくすために人権問題に取り組んだのか、という疑問を、皆さんは感じていると思います。
これから話す内容が、皆さんが就職して、似たような問題に直面し、どのような生き方をすればいいか、悩んだときの参考になればと思います。
日立は、日立鉱山を発端にして、朝鮮半島が日本の植民地となった1910年に創業しています。年間売上高は10兆円弱です。33,500人の所員と947の関連会社を含めた総従業員数は約32万人で、家族を含めると日本の人口の約1%に相当します。
2011年3月福島原発事故が起こりましたが、日立は、東芝、三菱と並ぶ原発メ-カです。日本にある原発54基の内20基以上を造っています。事故を起こした原発は、GE、日立、東芝が造りました。
裁判闘争を経て1974年、日立に入社した私は、全く未知なコンピュ-タソフトウエア部門に配属され、プログラム開発に従事し、仕事を覚えるのに必死でした。当時IBMが世界のコンピュ-タ市場をほぼ独占し、技術の先端をリ-ドしていました。それに追随する日立の経営方針に従った数人のエリ-トエンジニアは、1981年IBM産業スパイ事件を起こし、最終的には和解したものの職場はその後の始末と対策に追われ、余計な業務が増えて大変な騒ぎとなりました。
開発設計者は、工程を死守するため長時間残業をし、徹夜することが日常化していました。製品は、事前に繰り返し厳しい検査・性能評価を経て出荷します。それでも予期しないプログラムの論理不良で証券・金融のオンライン業務が停止しマスコミ報道されたりすれば、経済・社会への影響は計り知れません。その責任は、当然メ-カにあります。
私は、プログラム開発と保守を経験しましたが、製品の不良原因には、設計した当事者でなければわからないという、致命的な欠陥があります。不良箇所を作ったと疑われる関連会社を含めた設計担当者は原因が判明するまで帰宅は許されず、事故調査のため徹夜作業が何日も続くこともあります。開発と調査で心身共に冒され出社拒否したり、職場で倒れたり、入院するエンジニアもいました。
不良の原因が判明すれば顧客に報告しますが、職場ではその後も不良箇所を作成したプロセス、技術および動機的原因を徹底的に議論し追求します。不良箇所を作った担当者およびその上司は、他の業務を一切停止し、事業所幹部に報告するドキュメント作成に追われます。
このような厳しい職場ですが、国際人を育成するために、定時後、所員は自己負担で、英会話教育を受講できます。しかし、教育よりも業務を優先させるために殆ど受講できず、給与から授業料が天引きされ、無駄になり、この問題を訴えることもできない雰囲気です。
沈黙を余儀なくされる労働者
日立・企業の労働者は、資本の論理に従い、上司から課せられたノルマを遂行することが求められます。原発事故後もそれは変わらず、会社・組合からは、事故の状況、収束工事に関する説明がなく、事故と関係なく日々の仕事に追われています。
日立就職差別裁判が起こったとき、日立労組幹部はじめ多くの労働者は見て見ぬふりをしましたが、この反応は多くの犠牲者を出した原発事故に対する沈黙と通じています。原発メ-カの労働者は、原発製造・輸出といった会社の事業に疑問を感じても、業務に追われ、自分の将来を考えて沈黙します。
企業は「個性」あるユニ-クな学生をリクル-トします。その個性とは利潤と効率に繋がる個性であり、人間性を求める個性ではありません。
トップダウンで全て決定する日立労組は、所員を強制的に加入させて組合費を給与から天引きし、幹部の裁量で自由に遣います。組合員は組合費の使途を情報公開請求できることになっていますので、私は何度も請求しましたが、組合(幹部)はそれを拒否しました。
組合への批判や苦情を公にすれば組合幹部・職場の上司から睨まれ、昇進の妨げになる恐れがあります。また組合では役員選挙を実施しますが、その実態は、職場と候補者名だけが掲示され、組合活動に関心もない、所信表明もしない、ものを言わない、会社の意向に沿った組合員が立候補する、というよりも、させられるものとなっています。
立候補する組合員に所信を尋ねると、殆ど沈黙するか、「組合から頼まれたから立候補した。特にやりたいことはない。」と返事をします。
日本の大手企業の実態
企業社会では、「言論の自由」が保障されていないため、不祥事・談合・偽装のような犯罪があっても、経営者を公に批判し、まして地球全体を汚染する原子炉の製造を中止し、事故の責任を求める組合幹部・エンジニアは皆無です。かげで上司のやり方に愚痴をこぼすことはあっても、経営トップの哲学を批判できる開かれた風土、風通しの良い企業文化は存在しないと思います。逆に言えば企業・組合は、労働者の沈黙によって支えられていると言えます。不良製品とエンジニアに沈黙を強いる経営体質は深く関係しています。
日立就職差別裁判の勝利判決から5年後の1979年、東京に本社を置く経団連に加盟する多くの企業は、「差別図書である『部落地名総監』の購入、採用にあたっての差別選考等の反省を契機として、それぞれの企業が差別体質の払拭に取り組む」東京人権啓発企業連絡会(通称・人企連)を発足しました。124社(2015年7月)が加盟しています。大阪に関西人企連があります。
原発事故で世界の人々を核の恐怖に導き、人権を侵害した東京電力、原発メ-カである日立・東芝・三菱の関連企業も加盟しています。
人企連の役員は、反差別国際運動(IMADR)日本委員会、部落解放研究所、東日本部落解放研究所等の会長、副会長、理事などに就任し、また賛助会員、法人会員になって、「あらゆる差別の撤廃にむけて取り組」んでいます。
ところが、人企連に加盟する企業経営者の一部が1996年創設された、歴史を歪曲する「新しい歴史教科書をつくる会」に賛同していることが判明し、私は「東京人権啓発企業連絡会を糾弾する」抗議文を提出しました。
日立と原発事業
また人企連は、原発事故を起こした日立・東芝の経営陣に責任を追及していません。日立製作所・中西宏明元社長は、2013年6月の株主総会で次のように述べています。
「原発に取り組んでいることを恥ずべきことだとは、片時も思ったことはない」「原発事業は恥ずべきことではなく、むしろ誇ること」「イギリス、リトアニア、ベトナム、インドなどで進めていきたい。GEとはワンチームだ」と原発事故の原因も解らず、事故収束の目途もないまま、平気で原発の輸出を強調しています。
これは、国民国家を支える国旗を会社の正門に常時掲揚する経団連・経営陣の本音ですが、犠牲となった福島の住民はじめ世界の人々への謝罪の言葉は一切ありません。
日立の経営陣は、日本の植民地支配の歴史から生まれた民族差別を謝罪しましたが、被曝した広島の惨状を見た金井務元会長は、犠牲となった人たち、強制連行された多くの朝鮮人が被曝した事実、原爆の恐怖、戦争責任ついて全く触れず、沈黙しました。
こうした経営者トップの発言から、「日立の経営陣は、一体日立闘争から何を学んだのか。日立は、差別をなくし、開かれた企業を目指したのか。」と疑問を感じるのは当然です。戦後の植民地主義である原発体制は、ウラン発掘、原子炉建設、被曝しながら廃炉作業に関わる末端労働者、解決の糸口がない使用済核燃料処理、海洋への大量の汚染水垂れ流しなど地元住民に犠牲を強いる差別と抑圧を前提にしています。
社会に甚大な事故、不祥事を起こした企業の経営陣に対して人権を擁護する組合幹部・労働者が責任を追及できず沈黙し、逆に経営陣を擁護した事件が過去いくつもありました。
私は、原発事故があった2011年11月末、日立製作所を定年退職しました。現在は、日立で嘱託として働きながら「原発メ-カ-訴訟の会」事務局長として関わっています。
労働者に沈黙を強いる「企業内植民地」
在職中、「朴は職場で何をしているか。会社に埋没して管理職となり、安定した生活をしている。闘争までして差別の壁を破ったのだから、大人しく黙って働いた方がいい。会社・組合を批判したら、企業は再び朝鮮人を採用しなくなる」などの声を聞いていました。
「私は仕事だけしていればいいのか。何のために裁判までして日立に入ったのか」と悩み、入社して、5年後、胃潰瘍で1か月入院しました。労働者は、言いたいことがあるのに、何故、職場集会で沈黙するのか、発言しないのか、労働者の問題と民族差別の関係を考えるようになりました。開かれた企業・組合組織を求め、人間らしく生きるためには、「国籍、民族など関係なくおかしいことはおかしいと言う勇気と決断が大切だ」と開き直り、発言するようになりました。
日立製作所の職場集会は、管理職の前で開かれ「民主主義」を装うためのポ-ズでしかありません。組合(幹部)は、組合員が会社・組合に批判・不満があっても上司のいる前で発言しない(できない)ことを承知しています。組合員自ら「これは選挙ではない」と話す選挙投票日、投票率を上げるために、事前に選ばれた委員が組合員名簿をチェックし、棄権する(しそうな)組合員に上司がいる前で「投票しろ!」と意図的に周囲に聞こえるように恫喝します。「私は投票しません」と勇気を表明する組合員は皆無です。組合員は、生活を考え、孤立を恐れて従うしかありません。
私は、4年近い裁判闘争を経て日立に入社しましたが、闘争を経験した私でさえ職場環境・雰囲気に圧倒されて当時ものが言えませんでした。
日立が民族差別を起こした背景には、こうした労働者がものを言う「表現の自由」を束縛する企業文化があり、この抑圧から解放されなければならないと思い、会社と組合から厳しく監視される中、私は役員選挙に立候補しました。ほとんどの組合員が無視する中で、当初30%近く得票しましたが、1度も当選しませんでした。私に投票する組合員は「パクさん頑張れ!」と声を発することすらできません。
労働組合の実態
日本人労働者が、ものが言えない企業・社会・組織の中で、「自らと関わりのない」植民地で犠牲となった外国籍労働者の差別・人権問題を提起すると多くの労働者は反発します。
労働者にものを言わせない、抑圧的な職場が差別・排外に繋がる就職差別・不当な解雇事件を起こし、経営者に原発事故の責任を追及できず、沈黙に繋がっている、と理解しました。
組合費の使途、選挙方法、組合費から支払われる組合幹部報酬、職場の不満・疑問があっても、誰も発言しません。ものを言わ(せ)ない組合員を悪用した組合(幹部)の横暴に我慢ならず、日立本社で開かれた労使幹部の春闘交渉現場に参加し、組合を批判したこともあります。
私の言動を封じるためなのか、組合・会社は職場集会をなくしました。これまで気楽に話していた上司、同僚、後輩たちの表情も変わり、私を敬遠するようになりました。
日立経営陣に原発事故に対する問題提起
原発事故後、原発メ-カで働く労働者のひとりとして、沈黙していいのか悩み、内部から声を発することの意味、重要性を考え、日立製作所の会長・社長に抗議文・要望書を提出し、原発メ-カとしての責任、被曝避難者への謝罪、原発事業からの撤退、輸出中止、廃炉技術・自然エネルギ-開発への予算化を求めました。
また、東京駅前にある日立本社に向かって、海外からの参加者と共にリトアニアへの原発輸出に抗議しました。原発事故から3年目となった2014年3月11日、日立資本の城下町である日立市中心街で、青年たちと共に「反原発、輸出反対!」「日立の労働者は、目を覚ませ!」「日立の経営陣は被曝避難者・子どもたちに謝罪しろ!」と訴え、東京新聞・茨城版に掲載されました。
数百名が集まった職場の予算説明会で私は、「日立製作所にとって原発事故は、緊急な課題である。原発事故から3年経過したが、原発事故にどのように対応しているか。土地を奪い、家族の絆を引き裂いた被曝避難者のことを考えないのか。遺伝子を破壊する放射能、子どもたちへの影響を考えて日立の関係者も避難していると思われる。事故を起こして原因も究明せず、なぜ、原発を輸出するのか。その神経がわからない。日立の経営陣は、一体何を考えているのか。新聞報道されたが、原発メ-カ-である日立は、世界中の人々から責任を問われている。企業としての道義的・社会的責任をどのように考えているか」と問いました。
原発輸出は、相手国住民を差別・抑圧し、生命を奪い、生態系を破壊します。戦前日本がアジアを侵略したように再び日本が加害者になることが懸念されます。京都、川崎、大阪などの街頭における排外主義を煽る朝鮮人へのヘイトスピ-チデモ、愛国主義を謳う人たちが増えていますが、弱者及び外国籍住民を抑圧することは、ものが言えない社会へと繋がります。ものが言えないのは、企業社会だけでなく自治体・教育現場・マスコミなどどこの世界も同じような状況だと思います。
企業内の労使一体「協同(共生)」の実態
企業社会は、経営者と組合幹部が「労使一体」という「協働(共生)」を謳い、民主主義・人間性を育てない(育たない)ように労働者を巧みに管理・支配しています。こうした職場に就職して、人間性を求める皆さんがどのような生き方をするのか、悩み、日々問われます
戦前、日本の企業は、労働力不足を強制連行した朝鮮人、捕虜で連れてこられた中国人などで補い、植民地であった朝鮮において莫大な利益を得ました。戦後、日本政府は、日本国籍を剥奪し、官民一体で外国籍となった朝鮮人の、人間としての権利を全て排除しました。
戦前の植民地支配から生みだされた差別・偏見によって在日朝鮮人の子どもたちの教育・就職に悩むオモニ(母親)、アボジ(父親)が集まった、川崎南部地域で開かれた日立就職差別闘争勝利集会で「国籍を理由に児童手当がもらえない、市営住宅に入居できないのはおかしい。差別ではないか」とアボジから問われたことがあります。
この問いによって「そうか、そのような差別をする法律自体がおかしい」と気付き、そこから法律によって差別を正当化する国籍条項を撤廃させる運動を始め、段階的に自治体ごとに国籍条項が撤廃され、その後、年金加入、銀行融資を受けることも可能になりました。
外国籍住民を2級市民扱いする「当然の法理」ー川崎市のケース
全国の自治体は、外国籍住民との「共生」を謳うものの、(1953年の)内閣法制局の見解である「当然の法理」を理由に、採用した外国籍地方公務員に許認可の職務、決裁権ある管理職に就くことを禁じています。これは植民地時代、朝鮮人・台湾人を2級市民扱いした現代版です。
2002年、阿部孝夫川崎市長は、就任早々「日本国民と、国籍を持たない外国人とでは、その権利義務において区別があるのはむしろ当然のこと」「会員と準会員とは違う」と、戦争に行かない「外国人は準会員」(「正論」2002年1月)発言しています。
また、法律でもない、単なる国・政府の見解にすぎない「当然の法理」(国籍)を理由に、採用した外国籍公務員に許認可の職務、管理職への道を閉ざした、「外国籍職員の任用に関する運用規程」を作って日本に差別制度を確立したのが川崎市です。
余談ですが、川崎は、原子炉を開発する東芝の工場があり、日立が最初に「原子の灯」をつけた因縁の場所です。
この「運用規程」は、100ペ-ジ以上に亘って、外国籍職員に制限する職務と理由が記されています。これは労働基準法3条(均等待遇)に違反し、明らかに労働者の権利を侵害しています。ところがこのマニュアルのサブタイトルは、「外国籍職員のいきいき人事をめざして」となっています。
外国籍の青年は、事故・災害・震災時、人命救助する消防士に就けません。また正式教員でなく(非)常勤として採用され、管理職である教頭・校長に昇進できません。
「運用規程」は作らなかったものの、原発事故起きた福島、再稼働が可決された鹿児島県、被災した東北の自治体、米軍基地撤去を求める沖縄、皆さんが住んでいる京都など全国の自治体は、この川崎方式を採用しています。調べて戴ければその実態がわかります。「運用規程」による差別制度は、自治体首長の裁量で撤廃できることが解っています。
国籍を理由に採用を取り消し、原発事故の謝罪もせず、労働者に沈黙を強いて原発を輸出する日立グル-プの経営陣や、外国籍住民を2級市民扱いする自治体の姿勢は、植民地主義であり、国民国家の戦略です。
排外主義である「当然の法理」を克服していく必要がありますが、何故、安倍政権を批判する反原発・反戦・平和・人権運動の中で、この差別制度を是認する「当然の法理」の問題が提起されないのでしょうか。
こうした人間としての権利を剥奪した歴史に加担した企業、自治体、それに抗議しなかった労働組合の戦争責任を不問にしたことは、日立、東芝のような企業内組合からなる連合の労働運動が体制化したことにも繋がりました。
民族差別は、日本による植民地支配から生まれ、戦後、朝鮮半島は、核を保有する覇権国によって分断されています。日立の経営陣は、日立就職差別闘争からこうした歴史的背景を学び、国籍・民族を超えて労働者にとって差別のない、人間らしく働きやすい、開かれた職場をつくるべきだったのです。
しかし、原発事故を経て、横浜地裁判決から40年以上が経過した現在、「あらゆる差別の撤廃にむけて取り組む」はずだった日立の経営体質、日立労組の沈黙は変わっていません。
原発と核兵器は、表裏一体ー原発メーカー訴訟の提起
原発と核兵器は、表裏一体であり、超大国の核による世界支配を補完するものです。朝鮮半島の状況がそうであるように人間・民族・国家間を分断し、難民、棄民を生み出し、差別構造の上に成り立ち、弱者に犠牲を強いる非人間的なものです。
原発メ-カの道義的・社会的責任と人類と自然を破滅に導き、核兵器に繋がる原発の開発・製造事業から完全撤退することを求め、世界39ヵ国4千名近い原告が、GE・日立・東芝3社を東京地裁に訴えています。
原発事故の原因、その責任を徹底的に追求し、2度とこの世界で原発事故を起きないことを願い、反原発を訴える世界の人々と連帯が不可欠です。これはこの世で生きる私たちの責務であり、私たちの子ども、孫、次世代への責任でもあります。
歴史は作られるものではなく自分で作るもの、人権は与えられるものではなく自分で獲得するものである、ということを私は日立就職差別裁判闘争から学びました。
戦争責任が問われないまま、経済と効率を優先させて、人類、自然と共存できない、人間性を否定する戦後の「植民地主義」である原発体制を国際連帯で打破し、原発・核兵器の廃絶を求め、私は、開かれた企業、社会・組織を求めていきます。
私自身が人間らしく生きるために、どのような状況に置かれてもおかしいことはおかしいと言い続けていきます。
日本における多文化共生とは何か
詳細は、配布されたレジメ資料、新聞記事、「日本における多文化共生とは何か」新曜社 2008年、「戦後史再考」平凡社 2014年 を参照してください。
この本の基になった原稿は、勤続25年を記念に会社と組合に提出し、東亜日報・朝日新聞の共同主催の「戦後50年日韓交流への提言」として応募した論文です。日立は、「この論文を取り戻すように要求」しましたが、何日も話し合いを続けた結果、要求を撤回しました。その後、私が勤務する事業所は、記念セレモニ-で実施していた国旗掲揚・国歌斉唱を中止しました。’96年1月27日、勤続25年の記事が朝日新聞に掲載されました。
ご清聴有難うございます。
朴さんの生き方に感動している一人です。企業で働く人にとって、日本で暮らす外国人にとって大変参考になると思います。更に、企業経営者、大企業の労働環境問題に取り組む人びと・・ETCは、朴さんが悩み、そして発言し、行動した勇気に、逆に学ばなければならないと思うのは、私一人ではないと思います。大変な道のりを、一歩一歩、勇気をもって発言し、行動してきた朴さんの行き方を、私は多くの人々にに伝えたいです。 特に、若者・・。、青少年、これから企業で働く青年たちに・・。朴さんの謙虚な、しかし、勇気ある行動を¡私は、朴さんの日立闘争、並びに原発裁判訴訟までの生き方を・・。 海外の人びと、更に、トルコの人々、更に、企業に働く労働社、更に、労働問題に携わっている弁護士、経営者に是非伝えたいです。私は、いつも言います。朴さんの人生への生き方、姿勢、勇気を尊敬している一人です。そして原発メーカー訴訟裁判(本人訴訟裁判)を朴さんを中心に多くの強い意志の人々と一緒に活動できることに感謝しております。そして、一歩一歩、裁判勝利に推し進める事を確信しています!!!
返信削除