1970年代という時代と現代社会の問題
朴鐘碩(ぱくちょんそく)さん 「日立就職差別裁判」原告、日立
崔(ちぇ)勝(すん)久(ぐ)さん 「日立就職差別裁判」支援者
*「日立就職差別裁判闘争」(日立闘争1970~74) 在日朝
<背景>:戦後における在日朝鮮人の位置
(戦前)日本による韓国・台湾植民地支配 「帝国臣民」(しかし二級臣民) 200万人
(戦後)植民地解放→郷里への帰還者と日本残留者(「第三国人
1952 講和独立 外国人登録法施行(日本国籍剥奪、≠「国民」)
1959~84 北朝鮮への「帰国」事業(9万人)
*社会福祉(1958国民健康保険法59国民年金法)、企
⇒「見えない人々」(飯沼二郎『見えない人々―在日朝
(1990年代~ 政策として特別永住者制度や「多文化共
<日立闘争の経緯>
1970.12 高校卒業後の朴(在日朝鮮人二世)が日立製作所採用試験に合格、
→戸籍謄本提出時に韓国籍であることを申出る→就職内定取消し ⇒裁判に
1971~74 「日立就職差別裁判」←「朴君を囲む会」:日本人学生+在日朝鮮
⇒在日二世の困難の訴え、在日を排除する日本社会に対する告発
1974.6 横浜地裁で判決:原告・朴の全面勝訴、日立敗訴(「民族差別」と
1974秋 朴は日立製作所戸塚工場に入社~2011.11定年 *続「日立
*朴鐘碩・上野千鶴子ほか著/
日立就職差別裁判糾弾闘争と植民地主義ー朴鐘碩 横浜国大での講演レジュメ
1951年、愛知県西尾市で9人兄姉の末っ子として出生
碧南高校卒業後、日本名で日立製作所受験、合格
国籍を理由に採用取消
1970年12月横浜地裁提訴 日立就職差別裁判闘争始まる 1974年完全勝訴
民族組織は、「裁判は同化に繋がる」と批判。
1974年6月勝利判決 9月コンピュ-タソフトウエア員として日立に入社
入社5年後、胃潰瘍で1ヶ月入院。日立製作所労働組合、職場集会で発言。
1995年、勤続25年記念論文会社/組合に提出 事業所は国旗、国歌中止。
「戦後50年日韓交流への提言」朝日新聞・東亜日報に応募(朝日1995.7.31)
(民族)差別と労働者の問題 ものが言えない(企業)社会
2000~2010年 ソフト執行部委員長に立候補-敗北。2000年~評議員に立候補-敗北。
公正な選挙、組合費の使途、春闘/一時金闘争など問題点を提起
日立製作所労働組合への公開質問状 開かれた経営、組合組織を求める。
「企業内植民地主義」批判
2011年11月定年退職 12月から日立製作所で再雇用
日立の植民地的経営 3・11原発事故
日立製作所
会長・社長に原発事業からの撤退、原発海外輸出中止を求める。
【参考資料】
NNAA(No Nukes Asia Actions http://ermite.just-size.net/nnaa/index.html
「外国人への差別を許すな・川崎連絡会議」-コミュニケ-ション-掲示板
「原発事故と日立就職差別糾弾闘争」考察 2013年7月5日
「植民地主義の時代を生きて」西川長夫著(平凡社) を読んで(1) (2) 2013年6月16日,21日
川崎市長への抗議文 2013年3月1日
日立製作所(会長・社長)への要望書 2013年6月3日 2012年10月17日
「(続)日立闘争・在日としての経験・現代の日本社会」 2012年8月15日
「原子力を世界に」求める日立
2012年7月1日
日立製作所(会長・社長)への抗議文 2012年6月19日
「日本における多文化共生とは何か」共著
新曜社 2008
2012年5月12日朝日新聞「耕論オピニオン 冷や飯を食う」
2012年1月6日 神奈川新聞 2012年1月6日 東京新聞(川崎版)
2011年12月28日「窓 論説委員室から ある会社員の定年」朝日新聞
2011年5月11日 「日本を変えた日立闘争」民団新聞
1990年5月28日 にゅうす・らうんじ「在日」の壁乗り越えて 朝日新聞
日立製作所労働組合・統制委員会への公開書簡 2006年6月2日
http://homepage3.nifty.com/tajimabc/new_page_111.htm
日高六郎理事長 高橋幸吉事務局長への抗議文
社団法人
神奈川人権センタ-を糾弾する 1997年1月
http://homepage3.nifty.com/tajimabc/new_page_140.htm
民族的自覚への道-日立就職差別裁判上申書(生い立ち) 1974年
http://homepage3.nifty.com/tajimabc/new_page_18.htm
日立就職差別裁判 横浜地方裁判所判決 1974年6月19日
http://homepage3.nifty.com/hrv/krk/index2.html
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