OCHLOS(オクロス)は民衆を意味する古代ギリシャ語です。私は民衆の視点から地域社会のあり方を模索します。すべての住民が一緒になってよりよい地域社会を求めれば、平和で民衆が安心して生き延びていく環境になっていくのでしょうか。住民は国籍や民族、性の違い、障がいの有る無しが問われず、貧困と将来の社会生活に絶望しないで生きていけるでしょうか。形骸化した戦後の平和と民主主義、経済優先で壊された自然、差別・格差の拡大、原発体制はこれらの象徴に他なりません。私たちは住民が中心となって、それを憂いのない地域社会へと変革していきたいのです。そのことが各国の民衆の連帯と東アジアの平和に直結する道だと確信します。
2013年1月14日月曜日
昨年度の最大の話題作になった赤坂真理の『東京プリズン』を読んで
『東京プリズン』は赤坂真理の本で、毎日出版文化賞を受賞しています。何気なく、本屋で購入し読みました。副題の、16歳のマりが挑む現代の「東京裁判」という帯に関心がいったからだと思います。
作者はこの本の動機をこのように記しています。「≪戦争と戦後≫のことを書きたい、すべての日本人の問題として書きたいと、私は、十年以上願って願ってきた。(中略)ある民族や国家が、あれだけの喪失をたった60年や70年でわすれてしまうこあたは、本当はありえない。それでも忘れたようにふるまえたのは、なぜだったのか、そしてそのことは、日本と日本人に何をもたらしたのか?それらに迫るには、≪小説≫しかありえなかった。すべての同胞のために、私は書いた。」
この小説は3・11の地震が起こった今を経験する主人公が、過去の15歳の時に渡米して経験したことを振り返るかたちで、自分、娘の時の自分、母親が現実と夢を通して縦横に時空を超えて自由に行き来しながら語る幻想的な小説で、そのクライマックにアメリカの高校での、天皇の戦争責任を問うディベート(模擬裁判)を通して作者の言いたかったことが語られるという構図になっています。
アメリカの高校に送られた少女はその理由を母親から聞かされず、1年で「敗北感」を抱いて帰国し日本で高校、大学を卒業し作家になっていくのですが、その「敗北感」を隠して生きてきたことと、日本が戦争で負けたことをあたかも何もなかったかのようにすることで失ってきたものを、天皇(作者は、敢えて、TENNOUと記す)が日本の象徴であるという意味が曖昧なままにされているということを重ねて捉え、その解決(救い)の道を語ります。それが作者にとってだけではなく、「すべての同胞のため」だというのです。最後のところで、作者は主人公のディべートでの言葉を「なんと叡智に富んだ示唆」だと自負さえしてみせます。
ベストセラーになったということはその、編集者と練り上げた作戦が成功したということでしょうか。深くはないが、多くの人が知らないようなエピソード、単語の意味をところどころ播きながら読者の歴史への関心を引き付け、最後はたたみかけるように書かかれたエンディング部分での主張に多くの人は納得したということでしょうか。
しかし結論的に言うと私は納得できませんでした。この手の浅薄な理屈で本当に作者の、そして「すべての同胞(日本人)」の救いがあるとはとても思えません。「救い」の水準がこの程度に記され、多くの人の評価を受けているという事実に驚きます。小説に「主な参考文献」が書かれるということがあるのか、私にはわかりませんが、この本には9冊主に東京裁判と憲法関係の本が紹介され、内海愛子以下、5名の取材協力者の名が記されています。
作者はTENNOUが神から人間宣言したことをとりあげ、神学論も展開します。参考文献に一冊の紹介もないということは、作者が長年、このことを考え続け持論を展開したということでしょう。この展開も中途半端です。この小説は、要は、全て中途半端な水準で(意図的に)書かれており、それを幻想的な場面と表現で舞台設定したその中で16歳の少女の言葉として語らせています。
作者は模擬裁判にTENNOUを登場させ、「前線で極限状態の者は狂気に襲われうる。彼らが狂気のほうへと身をゆだねてしまったときの拠り所が、私であり、私の名であったことを、私は恥じ、悔い、私の名においてそれを止められなかったことを罪だと感じるのだ。私はその罰を負いたい。」「私の全責任があるはずであった。戦争前に、戦争中に、そう思い至らなかったことを悔いている」と語らせます。それは南京大虐殺、生体解剖をした七三一部隊、アジアでの残虐行為を受けてのことです。しかし戦後、天皇が実際は一切の謝罪をしなかったことには触れません。
一応TENNOUに謝罪の言葉を語らせた後刀を返すかのように、東京大空襲と原発投下はナチスのホロコーストと同じ「民間人を消し去る周到な計画」をもったものであり、日本軍のは、「前線の兵士の狂気や跳ねっ返り行動」であると弁解し、パールハーバー急襲は国際法に違反せず、単なる「手違いの事故」と片付けてしまします。
天皇が現人神(あらひとがみ)であるということがおかしいのか、それではキリスト教のイエスはどうかと反論し、合理的なアメリカ人は自分の信じる神だけが唯一の救いの神だとして、それを信じない日本人に原発投下、東京大空襲という民間人殺害をしたのではないか、日本人は、「自分たちの過ちを見たくないあまりに、他人の過ちにまで目をつぶってしまったことこそ、私たちの負けだったと、今は思います。」とアメリカ側にこそ問題があったのだと強調してこの小説を終えます。
復活後のイエスがどのように生きたのか、そのことを問わないのは、「教会がイエスを神のひとり子として独占しようとした」からだとキリスト教を批判的に見る人たちにとっては当たり前のことを鬼の首を取ったかのように書いています。作者の神学論に関しては言いたいことは多くありますが、私は彼女の主張に何ら目新しいことを見い出せません。
要は、戦争で天皇を神と信じて死んで行った英霊も犠牲者、この世の全ての人は犠牲者であり、そこに3・11の犠牲者も含まれ、彼女は観念の世界での「救い」を説き、なおかつ問題を相手に押し付けている、自分たちの戦争責任、自分たちの原発体制の責任を徹底的に担い、それを負い、その克服の過程で「救い」を見ようとしていない、安直で現状肯定の「救い」の伝道師だというのが、私の率直な感想です。
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