OCHLOS(オクロス)は民衆を意味する古代ギリシャ語です。私は民衆の視点から地域社会のあり方を模索します。すべての住民が一緒になってよりよい地域社会を求めれば、平和で民衆が安心して生き延びていく環境になっていくのでしょうか。住民は国籍や民族、性の違い、障がいの有る無しが問われず、貧困と将来の社会生活に絶望しないで生きていけるでしょうか。形骸化した戦後の平和と民主主義、経済優先で壊された自然、差別・格差の拡大、原発体制はこれらの象徴に他なりません。私たちは住民が中心となって、それを憂いのない地域社会へと変革していきたいのです。そのことが各国の民衆の連帯と東アジアの平和に直結する道だと確信します。
2012年12月30日日曜日
吉田松陰をむやみにもてあそぶなー右翼政治家集団、安倍政権への危機感から
藤田省三を読み直そうと思いました。読むべき本が多く、得るべき知識も多く求められている中で、さて何を読むかと考えた時に、ふと思い出したのが藤田省三でした。藤田省三『精神史的考察』(平凡社)は骨太で、
ひとつひとつの文章を確認しながら読むとき、著者の息吹を感じさせてくれる本でした。そのなかで「松陰の精神史的意味に関する一考察ーー或る「吉田松陰文集」の書目選定理由ーー」を選びました。
藤田省三の松陰論
私は無意識に安倍政権が打ち出した「原発ゼロ」の見直し、原発新設の示唆、朝鮮高校の無償化はずし、生活保護者の支給額見直しなどに反発をし、彼ら右翼政治家がよく引用する吉田松陰に関する、藤田省三の冷徹な考察をもう一度、確認しようとしたのかもしれません。
藤田省三は松陰が「もてはやされる」ことをよしとしていないようです。彼の選書を任された藤田は、松陰が他の当時の思想家とはちがって「気概」「行動」の人でしかなく、まるまる一冊を松陰に当てる編集方針に不満げです。藤田にとって松陰は、思想家でもなければ主著なるものもなく、ただただ「状況の真只中に突入していくことを得意とした」、「徹底的に状況的」な人物だと言うのです。松陰は根本的には幕府の体制を支える人間でありながら、「歴史的変動の体現者」として行動を起こしその「政治的行動における失敗と蹉跌」こそが彼の「最大の成功」であったと逆説的に述べます。
しかしその松陰を藤田は、「全社会の崩壊」、「在来の社会関係がすべてが・・・分解」していくなかで、それを自らの「瓦解として経験しながら生きてきた者の孤独」を徹底して味わった人物とみなします。藤田は松陰の行動の裏に「全社会の状況性を一身に引き受けて体現した者の内面の深さ」「孤独」を見るのです。
従って松陰をむやみにもてあそぶ今の政治家に徹底して批判的です。松陰の「やむにやまれぬ大和魂」などという文句を勝手に抜出し、「文脈から勝手に外して、自分や自分達の権力の防衛物にしたり、自分の「政治的情熱」の証拠品のように扱ったり、総じて松陰の知名度に便乗しながら自分の権益や評判を増大させようとする態度」をやり玉にあげます。そして論文の最後はこのように締めくくるのです。「この稿はその傾向に些かの抑制を与えて、あらためて松陰の苦闘の歴史から何を教わるべきかを考えようとする小さな試みであった。」
安倍政権への危機感
予想されたこととは言え、自民党安倍政権の本質が露わになってきました。経済学を学んだことのない私でさえ(専門家もわかるはずがないと言う意味で)、安倍の経済政策がどうしてもてはやされているのか、日本国民が期待を寄せるのか、それは間違いだろうと感じるのです。戦後の、いや本当は明治以降の国の成り立ち、歩みを根底的に見直すなかで国の方向を定めるべきものを、この20年のデフレの脱却をスローガンに掲げ、公共投資と輸出増大(このなかに民主党が謳ったリニアカーや原発ははいっているのでしょう)という最も安直な方法でやるというのですから。
輸出を増やすという発想に立つ限り、日本はだめだと私は思います。日本は貿易立国ではもはやないのです。その誤った方向性の根の部分に、幕府に殺されるまでに「尊王攘夷」で日本国を愛し(たとされ)、日本の歴史上人気ナンバーワン人物に選ばれる、坂本龍馬と吉田松陰がいるのではないかと勘繰りました。
松陰の実像
しかし藤田省三によると、松陰は現代の日本の政治家が軽々しく担ぎ出すような人物ではどうもなさそうです。行動派ではあっても、孤独の中で、それでも藩のことを考え、投獄された江戸の牢獄を克明に記録し、当時の権力者は「近年の内に倒れるだろう」と正確な予想をしたそうです。松陰は、「英雄」でも「偉人」でもなく、地方にあっては「格下」の人たちと交わり、結果としては本人の意思とは異なり、幕府社会を打倒する内実を持ちえた人物と藤田はみます。
安倍は12月22日、祖父と父親の墓前で「長州出身として恥じない結果をだしていきます。」と語ったそうです。その中に長州出身の吉田松陰がおそらく、間違いなく入っているのでしょう。藤田が生きていたら、国防軍、憲法改正を軽々しく語る安倍の総理再任をどのように評価したでしょうか。おそらく安倍は松陰の孤独がいかなるものであったのかを知らず、明治の薩長の権力者がつくってきた日本国を誇りに思い、彼らが明治20年代になってつくりだした天皇中心の国造りという神話を信じ、戦犯の祖父を尊敬し、新たな国づくりに励むのでしょう。しかしそれは新たでもなんでもなく、明治の歪んだ天皇制国家の後塵を拝するものだと私は思います。
参考文献:半藤一年『幕末期』(新潮文庫)
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