OCHLOS(オクロス)は民衆を意味する古代ギリシャ語です。私は民衆の視点から地域社会のあり方を模索します。すべての住民が一緒になってよりよい地域社会を求めれば、平和で民衆が安心して生き延びていく環境になっていくのでしょうか。住民は国籍や民族、性の違い、障がいの有る無しが問われず、貧困と将来の社会生活に絶望しないで生きていけるでしょうか。形骸化した戦後の平和と民主主義、経済優先で壊された自然、差別・格差の拡大、原発体制はこれらの象徴に他なりません。私たちは住民が中心となって、それを憂いのない地域社会へと変革していきたいのです。そのことが各国の民衆の連帯と東アジアの平和に直結する道だと確信します。
2012年1月17日火曜日
モンゴルを世界の核のゴミ捨て場にしていいのでしょうか? セレンゲ氏の日本最終講演
1月16日 カトリック麹町聖イグナチオ教会にて、モンゴルのセレンゲ氏の最終稿講演がありました。セレンゲ氏に先立って、芝山豊氏(清泉女学院大学教授)のモンゴルについての基本的な歴史、自然環境についての説明、及びモンゴルとの関わりについては、司馬遼太郎のご自身への手紙を示しながら、日本社会とのかかわりにおいて考え続けるという研究者としての姿勢についてお話をしてくださいました。
私自身は、モンゴルが遊牧民であることが、雨量が少なく、植物育成が一定で無い状態では、定着よりも自然環境との最も密着したライフスタイルであるという芝山さんのご説明がよくわかりました。ジャレド・ダイアモンドの名著『銃・病原菌・鉄』でオーストラリアの原住民のライフスタイルを怠惰と見た西洋人たちの方こそ、自然に合わせた最も合理的な生き方をしている彼らに対する偏見と喝破した個所を思い浮かべました。内モンゴルにおいて中国政府が遊牧から定着を前提とした農業に転換させたことがモンゴルの自然には合わないと話された芝山氏の説明には納得です。
セレンゲ氏は、横浜での講演内容と違い、モンゴルの具体的な鉱山資源をめぐる一部の金持ちの生活の一端を怒りを込めて話していました。120トンの石炭を運ぶトラックが連続して舗装をしていない道を走るのですから、その近辺の住民の生活環境は悪化するばかりです。原発は鉱山発掘を掘りつくした地域を対象にしているという話を私は現地で聞きました。原発はモンゴルにとって決して必要なものではありません。セレンゲ氏は、それでもモンゴルをめぐる世界列強との関係において、モンゴル人が原発を許さない闘いを進めるのに、日本や韓国をはじめとしたアジアの諸国の支援が必要ということ強調していました。
彼女はそれでも蒙古に使用済み核燃料を持ち込もうと画策した原子力マフィアと一般の日本人とは違い、自分が遭った日本人は自然を愛する人達なので、原発を許さないためにはそのことを何よりも主張する「緑の党」を支援し、国政選挙に関われるような方向に具体的に向かうべきであるという強い主張をして、50名を超える聴衆の喝采を受けていました。
それでは明日早朝からセレンゲさんとソウルに飛びます。韓国でもモンゴルの実態を説明し、韓国市民との働して脱原発を実現させねばならないということを力強く発言されることでしょう。では行って来ます!
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