一九七〇年代日本の「民族差別」をめぐる運動――「日立闘争」を中心に―― 加藤千香子
「今改めて、私にとっての日立闘争の意味を問う」:パネルディスカションの資料より
1970年代の「日立闘争」における「在日」と日本人青年たちとの「共同」の実態を分析し、そこから現在の川崎の「多文化共生」の動きは、「在日」側の民族主義への回帰と並行し、「マジョリティである日本人の側が行政施策を通して、権利を求めるマイノリティに対して、日本社会の中で一定の場所と文化の承認を与えようとするもの」であり、現在では「民族差別」解消の課題は、「「多文化共生」のかけ声へと変わっているかに見られ」、「七〇年代の「共同」と新自由主義時代の「(多文化)共生」を超える新たな協働の模索が必要なのではないだろうか。」と結んでいます。
ここには日立闘争を中心的に担った者が川崎を去った背景、その後の運動の「変質」と共に、川崎を去った朴たちが会社の中や、地域社会の中で新たな動きを見せていることに対する言及もあり、これまでの「共生の街」川崎の知られざる部分を明らかにしながら、それが新自由主義の時代における「多文化共生」を乗り越える可能性であることを示唆しています。
加藤千香子さんの先の論文「1 9 7 0 年代日本における公共性の転換―川崎・在日朝鮮人からの問 い―」 http://www.oklos-che.com/2011/06/1-9-7-0.html と合わせ、シンポ参加者の必読の資料です。
崔 勝久
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一九七〇年代日本の「民族差別」をめぐる運動――「日立闘争」を中心に―― 加藤千香子
はじめに
「自由」と「競争」を特徴とする新自由主義は、人と人のつながりや既存の共同性・公共性の解体を生むことが指摘されている。本稿で問題としたいのは、こうした背景の下で、マジョリティとマイノリティの関係に代表されるような力関係の異なる者同士の協働が、一層困難になっている点である。現在の外国人参政権法案の是非や高校無償化対象から朝鮮学校を外すか否かをめぐる論議からうかがわれるのは、マイノリティとされる他者との「差異」化をはかることで、マジョリティとしての自己の「安心」を取戻そうとする傾向の強まりである。また、競争が生み出す「格差」が自明視されていくなかで、従来は力をもった「差別」批判の言葉も力を失っているように思われる。
こうした現状を念頭におきながら、ここでは、日本社会においてマイノリティによる「差別」告発が行われ、それが社会的争点となった一九七〇年代という時代を取り上げる。事例とする「日立就職差別裁判闘争」(以下「日立闘争」と略)とは、七〇~七四年にかけて、在日朝鮮人二世・朴鐘碩(パクチョンソク)が採用取消しを行った日立製作所を相手どって起こした裁判をめぐって、多くの在日朝鮮人・日本人支援者を得て闘われた運動である。「日立闘争」は、日本社会の「民族差別」を正面から告発したはじめての運動と位置付けられているが、本稿では特に、日立闘争の運動の核となった「朴君を囲む会」が、在日朝鮮人と日本人の「共同」の場と位置づけられた点に注目し、当時模索されたマイノリティとマジョリティの「共同」・協働のあり方に焦点をあて検証していくこととする。
一 一九七〇年代社会運動史研究と「日立闘争」への視点
まず、当該期の社会運動に関する研究動向を見ておこう。社会運動史研究において、ポスト「革新国民運動」と位置付けられる六〇年安保闘争後の運動は 、運動主体の多様性や自主性が特徴とされている。当時の主体の多様性・自主性に注目する道場親信は、「名乗ることにおいて主体のあり方が問われ、他者との関係性が問い直される、そうしたダイナミズムをもった時代 」と指摘する。本稿は、新たな「名乗り」をあげる「主体」としての「在日朝鮮人」に焦点をあてるものである。
一方、近年高まりをみせているのは、「一九六八年」に象徴される学生叛乱の時代を戦後史の画期ととらえる研究である「一九六八」をタイトルに掲げる絓秀実 ・小熊英二 は、そのメルクマールを、在日中国人グループが新左翼各派に突きつけた一九七〇年七月七日の「華青闘告発」に置く。これをきっかけに「経済大国日本と、そこで豊かな経済的果実を享受する『日本人』(マジョリティ)が、貧しいアジアとマイノリティを差別し搾取し、管理社会からはみだした人びと(不登校児や障害者など)を抑圧している 」という「一九七〇年パラダイム」が登場し、「差別」をテーマとする議論や運動が急浮上したとする。日立闘争においても「華青闘告発」との関係は認められる。その意味で画期としての「七〇年」は確認されるが、さらに「七〇年」の検証は、マジョリティの日本人のみならず「告発」を行う在日中国・朝鮮人や、何より両者の関係において、また思想・言説上のみならず、企業や地域とかかわる実態をもった運動のなかでなされるべきであろう。
日立闘争については、社会教育学の分野で取り上げられている。竹ノ下弘久は運動過程での朴鐘碩(パクチョンソク)のアイデンティティ変容を探り 、勝山雅絵は朴を支援した日本人青年の「思想的葛藤と自己変革」を追う 。現在の川崎市で進められている「多文化共生教育」を評価する金侖貞は、「共生」の端緒を日立闘争にみる 。これらに共通するのは、現在をマイノリティの権利や「共生」の達成点ととらえ、その発端として日立闘争を位置づけ、運動過程における在日朝鮮人と日本人の意識変容に注目する視点である。そこで用意されているのは「在日朝鮮人の民族的自覚と日本人の自己変革」―これは闘争時の評価そのまま―という結論である。だが、現在を新自由主義の時代ととらえその困難に向き合おうとするならば、これらの前提や結論自体を問い直すことが不可欠なのではないだろうか。
本稿は、今日なお解決困難な課題としての協働を俎上にのぼせることを意図するが、そこで検証対象とするのは次のような点である。第一に、闘争過程で問われた「在日朝鮮人」「日本人」それぞれの「主体」のあり方について、第二に、「在日朝鮮人」と「日本人」の関係性と「共同」がどのように模索されたのかについて、第三に、裁判終結後において地域社会に場を移して展開された地域活動の行方についてである。
二 一九七〇年前後の日本社会と在日朝鮮人
在日朝鮮人から日本国籍を剥奪、外国人登録法の管理下においた戦後日本で「在日朝鮮人問題」が浮上したのは一九七〇年前後である。六八年の金嬉老事件の衝撃、六九年に浮上した出入国管理法案に対する反対運動(「入管闘争」)と「七・七華青闘告発」は大きな画期となり、ベ平連の活動家らを中心に各地で在日朝鮮人を支援するための市民運動が起った。在日朝鮮人を「見えない人々」と呼んだ飯沼二郎はベ平連の活動の中で「在日朝鮮人のための市民運動」を提唱した が、その中には、日立闘争「朴君を囲む会」、朝鮮人被爆者「孫さんを救援する会」、北朝鮮への”自由往来”を求める「柳さん、崔さんを支援する会」「在日朝鮮人に国民健康保険の適用を求める会」、スパイ容疑をかけられ韓国で逮捕された「徐君兄弟を救う会」などがある。大阪では公立学校教員によって「公立学校に在籍する朝鮮人子弟の教育を考える会」が七一年に結成されている。
七〇年前後における在日朝鮮人の人口は約六〇万人。その中で日本生れの在日朝鮮人は七〇%に達し、戦後生まれの二世の世代はちょうど就学年齢を終える時期にあたっていた。当時、大半の在日朝鮮人の選択肢は、底辺労働を担うか自力で自営の道を探るかにあったといってよい。七一年段階で在日朝鮮人の有業者は二五%、七五%が無職か半失業状態であったとされる 。有業者は下層肉体労働、自営業、運転手が多くを占めていた。高度成長期のピークである当時、安定した労働条件を備える企業の本工・正社員としての就職が、日本人には容易でも在日朝鮮人には不可能に近い現実が存在した。社会に出る時期を迎えた在日朝鮮人二世は、この現実と向きあわねばならなかった。
三 日立就職差別裁判の経過と判決
裁判の原告となった朴鐘碩は、愛知県西尾市に生まれ育った在日朝鮮人二世である。朴は、愛知県立碧南高校卒業後の一九七〇年八月、日立製作所ソフトウェア戸塚工場を通名の「新井(あらい)鐘司(しょうじ)」の名で受験し合格通知を得た後、戸籍謄本の提出を求めた会社に在日朝鮮人であることを告げたところ、採用取り消しの通告を受けた。会社がいったん認めた採用を取り消すのはおかしいと考えた朴は、七〇年十二月に横浜地裁への提訴を行う。日本人青年たちの支援を得ながら、「日立が間違っているという強い確信」をもって裁判に向かった朴の行動の根柢には、戦後日本の教育で身につけた「この社会にたいする理想」や「(日本社会への)信頼の情」があった 。
七一年一月にはじまった裁判は三年半に及んだ。主な争点は、日立による解雇処分の理
由が民族差別であるか否かにあった。朴が履歴書に「虚偽の記載」を行ったことを解雇理由とする被告・日立に対し、解雇理由を民族差別とする原告・朴側は、履歴書記載の背景に存在する「朝鮮人に対する差別の実体を正しく認識することの必要」を主張し、二二回にもわたった公判では「差別の実体」にかかわる歴史や現実の具体像が、「異例ともいわれる大量の原告側証人」による口頭弁論の中で論じられることとなった。
判決は七四年六月十九日に出された。原告の労働契約上の権利を確認、未払い賃金と慰謝料五〇万円の支払いを被告に求める内容は、原告・朴側の全面勝訴といえるものであった。注目すべきは、判決文理由で「懲戒解雇をした真の決定的理由は、原告が在日朝鮮人であること、すなわち原告の『国籍』にあったものと推認せざるを得ない 」と明言された点である。この根拠に基づき、被告(日立)の行為が、「国籍、信条、社会的身分を理由とする差別の禁止」をうたう労働基準法第三条に反し、民法第九〇条「公序良俗に反する法的行為の無効」に該当すると判断されたのである。
原告・朴の全面勝訴、日立の敗訴は大きく報じられたが、報道は「民族的差別」に踏み込んだ「画期的な」判決という評価で一致している。「“民族差別”事件に判決」と題した『東京新聞』解説は、「在日韓国人への民族差別問題にまともに取り組み、日本人社会、特に大企業にこの差別意識が抜きがたい現実を指摘」、「就職差別問題に画期的な判例を示した 」と書く。在日朝鮮人メディアも、この判決に高い評価を与えた。『統一日報』は、「この種の日本大企業の就職差別は『氷山の一角』」でしかないと限定しながらも、「至極当然のことである民族的偏見による就職差別の不当性というタテマエが日本の裁判所によって確認された意義と影響は大き(い)」と書く 。日本社会の「民族差別」を争点とし、またそれに踏み込んだ判決は、まさに「パラダイム転換」を示すものであった。
四 「共同」闘争としての「日立闘争」
1 「共同」の場としての「朴君を囲む会」
朴の裁判をめぐる支援運動「日立闘争」の検証に入ろう。支援運動は、一九七〇年一〇月に朴が横浜駅で入管法反対の署名活動をしていたベ平連の学生に協力を求めたことにはじまる。話を聞いた慶応大ベ平連の学生は、「在日朝鮮人の就職差別を粉砕する会」を結成、弁護士を探し朴の提訴を支えた 。さらに翌七一年一月、朴の提訴を取り上げた『朝日新聞』を見た在日朝鮮人二世の崔(チェ)勝(スン)久(グ)(国際基督教大学学生)の参加を得、日本人・在日朝鮮人学生らの手で「朴君を囲む会」(以下「囲む会」と略)が結成されることとなった。崔らの求めに応じて呼びかけ人に名を連ねたのは、小沢有作(東京都立大学助教授)、大沢真一郎(ベ平連、金嬉老公判対策委員会世話人)、佐藤勝巳(日本朝鮮研究所事務局長、同上世話人)、李(イ)殷(ウン)直(ジク)(作家、民族教育創設期の活動家)、李(イ)仁(イン)夏(ハ)(在日大韓基督教会川崎教会牧師)、山本将信(日本基督教団牧師)、田川建三(和歌山大学講師)ら、在日朝鮮人支援運動にかかわっていた知識人・運動家、キリスト教会関係者であった。
三月に出された「<朴君を囲む会>への呼びかけ 」は、次のような言葉を掲げている。われわれは、広く、日本人と、そして在日中国人・朝鮮人に、<朴君を囲む会>への参加を呼びかけたいと思います。三者の置かれている状況と、歩んで来た歴史の相違を考えます時<共同>なる言葉が安易に語られることは、決して許されるべきことではありません。しかし、それでもなお、まともに、相手の立場を見つめ、批判をし、受けとめあう場が必要である、と考え、会設立に踏み切ったのです。「日本人」と「在日中国人・朝鮮人」との「共同」がうたわれ、「相手の立場を見つめ、批判をし、受けとめあう場」と位置づけられたのである。
2 「共同」の模索
「共同」をうたう「囲む会」では、「在日朝鮮人」「日本人」それぞれの「立場」や相互の関係性が追究されていくこととなる。
①「日本人」にとっての「共同」
まず、「『入管ブーム』に乗るような」意識でかかわりはじめた日本人学生は「囲む会」結成にあたり、「あくまで朴君自身を具体的個人としてみつめ、……この関りから在日朝鮮人と日本人の関係の総体をときほぐしてゆく方向性を模索」することを述べている。朴という「具体的個人」とのかかわりは、当時の入管闘争で常套語でもあった「在日朝鮮人」についての再考を促し、新たな関係性の構築を課題としたのである。では、「具体的個人」としての「在日朝鮮人」とのかかわりとはどのようなことであったのか。「個人個人がもう一度<日本人>に還元された所で、<私>自身にはねかえってくる問題」ととらえ、「囲む会」を「『抑圧者としての日本人』が朝鮮人にうたれることによって、日本人の中に、思想的な核としての<朝鮮人体験>を形づくり、在日朝鮮人問題を日本人にとっての<原罪>にまで深めてゆく<場>」と位置付ける 。
呼びかけ人の小沢有作は、「日本人の甘さ・差別への鈍感さを告発してもらう場として日朝共同のこの会がある」と言う 。「在日朝鮮人」とかかわる「囲む会」で日本人が意識したのは、「抑圧者」としての自覚と「原罪」意識であった。
しかし、「在日朝鮮人問題」を「自己の問題」としてとらえよという言葉と、学生個人の現実との切り結びは、実際には困難をきわめざるをえない。結成からまもなく、会の中で「朝鮮人が自らに鞭打ってまで日本人に語りかけんとするにも拘らず、日本人は全くおし黙っている 」状況が指摘されるが、それは日本人学生が語る言葉をもたない状況を示しているだろう。にもかかわらず、その後も「在日朝鮮人問題を自己の問題とする」という命題は、「日本人」の主題とされていく。七二年五月の「再度の呼びかけ文」にも、「私たちはこうした経験(引用者注:語りかけと沈黙)の中から、私たち日本人が在日朝鮮人の問題を、ほんとうに現実の自己の『生き方』にとって切り離せないものとしてもっているのかどうかを問い続け、具体的なかかわりを作っていく持続した『場』としての<朴君を囲む会>の意味と可能性を、更に模索し、追求していかねばならない 」。
②「共同」の中での「在日朝鮮人」
「抑圧者」である自覚を自らに課した日本人に対し、在日朝鮮人自身はどのように自己の主体性を認識したのか。原告・朴は裁判開始に際し、「僕は“朝鮮人になろう”と決意した 」と宣言した。この決意表明は、出自を隠し「日本人」として生きてきた過去に訣別する新たな主体獲得の願いが込められたものにほかならない。朴は、「日本人の意識構造が我々同胞をどんな目で観ようと、それはあくまで日本人の問題なのである。我々にはもっと大きな要素を含む課題がある。それは当人が朝鮮人を前面に押し出して常に闘い続けることなのだ」と述べる。朴の課題は、日本人の意識変革よりも自らの「朝鮮人としての自覚」の獲得にあったのである。
「朝鮮人になる」という朴の課題は、「囲む会」の在日朝鮮人二世たちに共有されたものでもある。日本人への「告発」を行う裵(ペ)重度(ジュンド)はその行動の理由について、「私は現在、自己の存在を日本人を告発することによって、同化されまいとする私を成りたたせようとしている部分がある」と述べる 。日本人に対する「告発」は、「朝鮮人」であることの自己確認であり、「告発し闘う中にあってこそ朝鮮人と日本人の結合点が見出されるのではないだろうか」というように、求められたのは関係性である。
「囲む会」を立ち上げた崔勝久は、「在日朝鮮人」である自らの「民族意識」を問い、「素朴な民族意識」「国民としての民族意識」のいずれも該当しない、「<被害者意識>そのものが既に『民族意識』である」と答えを出す 。「自分の置かれている生活の場で、自分の生活を通して社会に関っていく」ことを重視する崔は、「朝鮮人」として生きるのは「民族の優秀さを誇示する」ことでなく「被差別者、弱者、被搾取者を生み出す現代の社会の中で、<被害者>としての朝鮮人として最も人間らしく生きるということである」と言う。
ここにみられるのは、現実の日本社会や日本人とのかかわりの中で「被害者」あるいは「告発者」という位置をふまえた「朝鮮人としての自覚」である。呉林俊は、「歴史からふりはらえない流域からの、自ら選択したのではない他律から、その軌跡を踏まえた道から、しかもいま、自からの意志で選別したのが<在日>」であると宣言する 。自ら選び取った「主体」的な自己規定としての「在日(朝鮮人)」。この名乗りが、日本社会への積極的なかかわりを生んでいくこととなる。
こうした「在日」としての自己規定は、一世や当時の民団・総連といった民族団体が拠り所とする「民族的自覚」とも異なるものである。朴や崔に対して民族団体からは「同化主義」とする批判がなされ 、日本企業への就職を求める朴には「まず韓国人としての主体性を築き、生きて行くべき指針を持ってもらいたい」との言葉が投げられる 。日本社会の中で「人間らしく生き」ようとする朴や「囲む会」の二世たちは、日本社会との分離を前提とする民族団体とは、その後も一線を画すこととなる。
以上、「共同」の場がもたらしたものは、「日本人」「朝鮮人」というそれぞれの「主体」に対する自覚である。相互関係性の中で生まれた自覚は、「抑圧者」たる「日本人」と「被害者」たる「朝鮮人」という対極のものであった。
3 「共同」の実践―歴史検証
次に、「共同」を掲げた「囲む会」の特徴的な取組みについて見ていこう。まず、裁判を闘う方針において、歴史の検証に重きが置かれるようになったことをあげたい。この方向性は、一九七一年一〇月の第五回裁判以降明確となり、第五回裁判準備書面には「原告に対する不当な解雇処分の背景には、在日朝鮮人総体に対する民族差別の歴史と現実がある 」と明記され、現実とともに歴史検証に力点がおかれるようになった。
歴史検証の重要性の認識は、七三年の関東大震災五〇周年を機に、「囲む会」メンバー自身による関東大震災時の朝鮮人虐殺の検証という実践を生んだ。関東大震災五〇周年の意味を問う「九・二集会」は、きっかけは在日朝鮮人から提起されたものであったが、実行委員会のよびかけには、「在日朝鮮人との関わりの中で考えてきたこと、見てきたことが、一体何であったのかを、五〇年の『歴史』をかいくぐり、あとづける中で点検することを、私達の課題としたい」と、「日本人」の課題が示された 。日本人実行委員たちは、各地の朝鮮人虐殺の事実を探り、「多くの『震災もの』が見落とした、『沈黙者』の証言」を取り上げた。そこには、「就職差別の歴史と現実を許してきたものこそ、虐殺時の日本人の意識ではないだろうか」との言葉に表れるように、過去と現在に通底する「日本人」の意識を問題とする視点がある。
一方、在日朝鮮人はどのような意味を見出したか。講演に立った李仁夏牧師は、「出来事の意味を“両民族”が、主体と主体をかけて問うことが歴史に関わる姿勢」であるとしながら、ただし「未だ主体を構築することを疎外する要因の余りにも多い日本社会に生きる在日朝鮮人があの事件をどう受けとめ、その意味をどう問うかが優先としてなされなければならない」と訴えた 。「抑圧される側」としての「在日朝鮮人」の「主体」構築を重視していたのである。
以上に見るように、歴史の検証は「日本人」「在日朝鮮人」それぞれの「主体」をめぐる模索の延長にある「共同」実践であったといえる。そこで確認される「主体」とは、加害者としての「日本人」、被害者としての「在日朝鮮人」であり、歴史検証はそうした両者の関係性をより鮮明に意識化するものとなった。
4 「共同」の広がり
「囲む会」の運動には、一九七四年以後大きな広がりが見られる。これは特に「囲む会」の在日朝鮮人たちの働きによるものである。
第一は、国際的な運動の広がりである。まず、「囲む会」の崔勝久が、ソウル大学への留学の中で韓国民主化運動を進めていたキリスト教系の学生とつながりをもったことによる。七四年一月、民主化運動の一翼を担っていた韓国キリスト教学生総連盟により「反日救国闘争宣言」が出されたが、宣言の要求には、「日立会社の朴鐘碩氏就職差別問題など、日本内での韓国人同胞に対する差別待遇を即時中止せよ」という一項が入った 。これ以後、韓国民主化運動を通じて、「本国」とのかかわりを意識化していなかった「囲む会」の在日朝鮮人に、「我々は本国の民衆との強い連帯のなかに存在する」との認識が生まれるようになる。また、世界キリスト教会協議会(WCC、本部ジュネーブ)「人種差別と闘う委員会」の副委員長をつとめていた李仁夏牧師が、七四年に至り日立闘争に関する報告と日立製品不買運動の提案を行った。委員会は日立製品ボイコットを満場一致で可決、「囲む会」にはWCCから一万五千ドルに及ぶ支援金が送られることとなった 。WCC決議を受けた日立製品ボイコット運動は、欧米や特に韓国で広く展開され、日立に大きなダメージを与えることとなる 。
第二は、国内の他のマイノリティ運動―部落解放同盟との関係である。裁判過程で争点となった戸籍謄本問題は、部落解放運動でも同様に問題とされ、七四年四月以降の日立への直接抗議行動では、部落解放同盟との連携も進められた。「(戸籍謄本提出を求める)この主張こそが、明確に、部落差別に結がり、或いは、部落差別の論理を、在日朝鮮人に適用したものなのである」と、両者に共通する問題が認識されたのである 。
第三は、日立闘争後にも継続する地域への広がりである。舞台は、京浜工業地帯の中心部、在日朝鮮人の集住スラム地区として知られていた川崎市川崎区桜本である。この地区の在日大韓基督教会川崎教会(李仁夏牧師)が、「囲む会」の青年たちと地域との接点となった。すでに、川崎教会が六九年より開設していた桜本保育園では、在日朝鮮人園児の本名使用を方針とするなど「民族保育」実践が進められており 、桜本保育園を通じて知り合った在日朝鮮人児童の母親たちにより、七三年七月には「川崎市内の公立学校に在学する在日外国人子弟の教育を考える会」(七四年四月から「在日同胞子弟の教育を考えるオモニの会」と改称)がつくられていた。
七三年夏に朴は桜本に転居、崔らとともに川崎教会青年部に参加しながら、桜本保育園の保母や母親たちとかかわりをもつようになった。こうしたつながりの中で開かれたのが、「朴君を囲む会在日韓国人部会」主催による七四年四月の「日立と地域を考える川崎集会」である。集会は次のように呼びかけられた。「朴君の受けた就職差別は氷山の一角であり、私たち川崎地区に住む在日韓国人にとっては、身近かな、誰もが経験していることではないでしょうか。……私たちは韓国人として、人間らしく生きたいのです。そこで身近かな問題として、私たちの生き方が問われる教育の問題を手がかりに、地域のみなさんと話し合いたいと願っています 」。「(民族的)主体性の確立」の課題が「韓国人として、人間らしく生きたい」という言葉で、地域に投げかけられたのである。
5 「日立闘争」の終結と運動の評価
国内外に波及した闘争の高揚のなかで、裁判は結審を迎えることとなる。まず裁判終結に先立つ七四年五月十七日、「囲む会」と日立との間で、採用取り消しの撤回、賃金・慰謝料の支払い及び謝罪、今後差別を繰り返さないための措置についての「確認書」が交わされ、続いて六月一九日の判決で原告の朴は勝訴を得、日立闘争は完全な勝利を成し遂げた。
朴は裁判勝訴後の談話で、「朝鮮人として生きていこうとする主体性を回復できたこと」を「かけがえのない勝利」と語っている 。裁判を通じて「朝鮮人になろう」という決意を表明し「朝鮮人としての自覚」を自らの課題とした朴は、裁判勝利に「(朝鮮人としての)主体性の回復」の達成をみたのである。
在日朝鮮人系の『統一日報』は、「被告・日立のほぼ全面的な謝罪を得るに到ったことは、大きな意義をもっている」と論じ、闘争を「在日韓国人社会に巣喰っていた“常識”を突き破ったという点で、多くの在日韓国人に自己批判を迫るもの」、「在日韓国人の権利意識を高めるうえで、ひとつの踏み台になりうるもの」と評価した 。在日朝鮮人の権利意識という点で画期的な「問題提起」ととらえたのである。続いて同紙では「朴君『就職差別』闘争と在日韓国人の権利意識」と題した連載も行っている 。
一方、闘争に参加した日本人は何を感じ取ったのだろう。闘争の最終局面を迎えた時点で、次のような言葉が見られる。「三年間ふりかえって、例会の有様を見れば、個人としての認識の高まり、意識の変革は保障されたとしても、そこにいる個人は、多くの場合、孤立しているのではなかっただろうか 」。「囲む会」事務局を担ってきた小塚隆夫は、「日本人にとって、自分を丸裸にしたところで、本当に地についた、自身の思想性と階級性の質を点検することであった」と闘争をふり返りながら 、糾弾闘争のなかで「全体化、集団化」する在日朝鮮人に対し、「私たち日本人」は「むしろ個人化・分散化した」と指摘する。これらの言葉から浮かび上がるのは、「抑圧者」としての自覚と意識変革を自らに課しながら内向化し疲弊する姿である。「権利意識」を育み、社会へのかかわりを積極的に求めていく在日朝鮮人との対比が明らかであろう。
6 「共同」のゆくえ
①「民族運動としての地域運動」の開始
日立闘争後における「民族差別」との闘いは、在日朝鮮人を担い手として川崎市桜本に場を移して展開されていくこととなる。闘争終結後の一九七四年一〇月、「囲む会在日韓国人部会」は、桜本を拠点とし「川崎・在日同胞の人権を守る会」(「守る会」と略、会長・朴)を結成した。十一月に「朴君を囲む会」は、全国的な運動連合体としての「民族差別と闘う連絡協議会」(民闘連)に発展解消する。一方「囲む会日本人部会」は「神奈川朝問研」を立ち上げたが、数年で活動停止に至っている。
桜本で「守る会」が提起したのは「民族運動としての地域活動」であった。スローガンは「民族差別と闘う砦づくり」である。その内容は、七五年八月に出された文書 で次のように説明されている。「民族運動」とは「非人間化をもたらしている現実社会にあって全体的な人間性回復を指向する解放運動」であり、「具体的な生活そのものの中における人間性回復のための運動」としての「地域活動」と、「人間性回復」という点で結びつくものであると。「民族」を普遍的な概念としての「人間性」と同義でとらえるこの解釈は、幅広い「被害者」との連帯の可能性を提起するが、会には、通常の「民族」概念に基づき「民族集団としての位置づけ」を重視すべきであるとの異論も存在した。
「守る会」は地域活動の推進母体として、桜本保育園の経営を担う社会福祉法人・青丘社と連携し、七七年十一月には青丘社運営委員会を設置した。運動の中心的担い手は在日朝鮮人二世であったが、「朝鮮人と日本人との共斗の場」と位置づけられ「共同」という理念は継承された。七五年から七八年にかけての運動では、在日朝鮮人住民の児童手当や市営住宅入居、児童への奨学金支給等の国籍条項についての問題を行政に対して突きつけ、実際に要求をかちとるという成果をあげた。
「在日朝鮮人の人間性回復」にかかわる取り組みとして重視されたのは、桜本保育園や学童保育・桜本学園の「民族保育」「民族教育」であった 。「民族保育・教育」の目的は、民族アイデンティティの注入ではなく、日本社会で「自ら朝鮮人として“胸をはって”生きていけるようにする」ことにおかれ、「本名を名のらせる」ことがその観点から重視された。つまり、在日朝鮮人の子どもを「差別に負けない子」にすることを目標とし、他方、
これに対応する日本人の子どもに対する教育目標は「差別をしない子」とされた。
しかしながら、こうした「民族教育」理念は地域の現場で宙に浮くことになる。七六年に行われた座談会の場で次のような発言が出ている 。桜本学園の日本人教師は、朝鮮人=「差別に負けない子」/日本人=「差別をしない子」という二分法的方針について、「朝鮮人が一番しんどいところを生きてるとは思うけれど、でも障害児の子供なり、現象的に言えば、生活保護の子供なり、底辺の生活をしいられている子供だったら、学校に行けば色んな意味で大変疎外されてるわけでしょう。だから日本人の子供の場合にも、差別に負けない子供ということもやはりあるわけです」と疑問を呈する。これを受けた在日朝鮮人の主事も、「在日朝鮮人の子供だから、差別を受けていじめられてると思っては大まちがいで、あらゆる色々な、この地域で持っている矛盾というのが混じっている」と述べている。「朝鮮人」「日本人」という民族枠組みを前提とする教育実践が、現実の子どもたちの状況や、地域社会に存在する多様な差別と矛盾を来しているあり様が、吐露されていたのである。
②「民族運動としての地域活動」の転回
地域に下りた「民族差別」と闘う運動は、「民族」理念と現実との矛盾にあたり試行錯誤を繰り返すこととなったが、一九八〇年代に転機を迎える。きっかけは、七九年から八一年に起った青丘社の「混乱」と呼ばれる事態で、その経緯は次の通りである 。
「民族保育」を方針とする青丘社・桜本保育園から主体的な取り組みを求められた父母会会長が、その要請を受けて在日朝鮮人差別の実情を父母に知ってもらおうとしたところ、日本人父母から反発を受けたことにはじまる。悩んだ父母会会長は、保育園の方針とは独自に在日朝鮮人や日本人の母親たちの協力者を得、父母会の運営や保育のあり方を話しあうようになり、八〇年十二月に青丘社・保育園に対して「問題提起」の集会を開くまでに至った。だが、保育園に向けられた「お母さんたちの問題提起」は、青丘社・保育園によって「すれちがい」とされ正面から取り上げることないままに終わる。
こうした一連の経緯の中で、青丘社・保育園の対応に疑問を抱いた曺慶姫(チョウキョンヒ)や設立時からの保母が青丘社から離れることとなり、保育園「混乱」を招いたとして崔勝久が運営委員長を解任され、朴鐘碩も崔とともに青丘社を去ることとなった。
確認しなければならないのは、ここで、朴と崔ら日立闘争とそれを継ぐ「民族運動としての地域活動」を主導してきた人物が、青丘社から離れたという点である。これ以後の青丘社・桜本保育園は、新たな主事の下で、行政に対する要求運動に向けて組織的結集をはかるとともに、崔の提起した「民族」を超えた「人間性」よりも、「民族性」「民族文化」に重きを置く方向に向かうこととなった。
その後の青丘社の運動の成果としてあげるべきは、八〇年からの民闘連による指紋押捺拒否闘争を経て、川崎市教育委員会との交渉を通じて教育における在日朝鮮人の権利を明確化確認したことである 。八二年、青丘社を中心に「川崎在日韓国・朝鮮人の教育をすすめる会」が結成、川崎市教育委員会との話合いが続けられた結果、八六年には「川崎市在日外国人教育基本方針―主として在日韓国・朝鮮人教育―」が成立をみた。同方針は、「市内に居住する外国人に対して教育を受ける権利を認め、これらの人々が民族的自覚と誇りを持ち、自己を確立し、市民として日本人と連帯し、相互の立場を尊重しつつ共に生きる地域社会の創造を目指して活動することを保障」するとうたう。運動の中で追求されてきた在日朝鮮人の「民族的自覚」が、伊藤三郎革新市政下で公的な教育方針に位置付けられたものである。
さらに八八年には、社会教育施設「川崎市ふれあい館」が設立された 。「ふれあい館」は、民族舞踊や民謡、言語の学習などを通した在日朝鮮人と日本人との交流活動に力を入れ、地域「文化センター」としての役割を果たし、今日に至っている 。一方、青丘社と桜本から離れた朴は、その後「足元である職場」―日立製作所―に目を向け、朴自身が「続『日立闘争』」と呼ぶ「労働者がものが言えない環境、暗黙の『掟』と抑圧」との闘いを続けていく 。朴や崔が再度「民族差別」を問う運動を起したのは、九〇年代である。東京都職員の鄭(チョン)香(ヒャン)均(ギュン)が訴えた管理職試験拒否問題の裁判 に接し、地方公務員の「国籍条項」撤廃後における昇進差別とともに、その背景にある「当然の法理」の問題に気づいたことがきっかけであった。
九〇年代には、グローバル化に見合った政策課題として、「多文化共生」が掲げられるようになる。朴や崔は、「多文化共生」が政策となる中で見えにくくなる差別の実態と問題を問うべく、九七年に「外国人への差別を許すな・川崎連絡会議」を結成、運動を続けている 。
おわりに
一九七〇年代前半は、日本社会で「在日朝鮮人問題」が浮上した時代で、「日立闘争」はその象徴となる運動であった。本稿は、運動の中での日本人・在日朝鮮人の「共同」という課題と、闘争後における地域での展開に注目し検証を行った。現在は、七〇年代に課題とされた「民族差別」解消、マジョリティとマイノリティの「共同」という点から見て、いったいどう評価されるだろう。
七〇年代の「共同」は、「日本人」「在日朝鮮人」がそれぞれの「民族性」「主体性」を問う中で、歴史的につくられた「抑圧する者/抑圧される者」という対極的な位置の自覚のうえに、新たな関係性を模索するものであった。一方、新自由主義の時代である九〇年代以降に登場する「(多文化)共生」は、それぞれの歴史性に由来する対照的な位置への視点を薄めつつ、特に文化面における「民族性」の違いの承認に重点をおくものである。七〇年代の「共同」は、在日朝鮮人に連帯と「差別」解消を要求する権利意識の高揚をもたらしながら、日本人の内向化や逃避を生む結果となったが、九〇年代以降の「共生」は、マジョリティである日本人の側が行政施策を通して、権利を求めるマイノリティに対して、日本社会の中で一定の場所と文化の承認を与えようとするものといえる。現在では「民族差別」解消の課題は、「多文化共生」のかけ声へと変わっているかに見られる。
だがここで、七〇年代運動の当事者であった朴から、現在次のような言葉が発されていることを無視するわけにいかない。「日立裁判が始った一九七〇年代と三〇年後の今日では、状況は良くなっているどころが、悪くなっています。本質的には何も変わっていません 」。朴の言葉は、職種を限定しながら地方公務員採用の国籍条項を撤廃した川崎市の方法を「民族差別の制度化」と批判するとともに、日立製作所で働く者としての目から、「矛盾や疑問があっても沈黙して組織に従い、組織の指示がすべてに優先する」という「企業社会の同化・抑圧」の現実に対して鋭い告発を行う中で出されたものである 。
「多文化共生」が提唱される今日、マイノリティは本名使用など一定の文化的承認を与えられ 、マジョリティ社会の一角への参画が可能となるかにみられる。しかしながら、参画には日本国籍者以外を阻む「当然の法理 」による壁があり、所属する社会や組織に対する同調は必須とされる。朴はその点を衝くのである。権利意識を抑えられながら強いられる社会への同調=「同化」、これは民族的マイノリティに限らない。今日、こうした現実と向き合いながら、七〇年代の「共同」と新自由主義時代の「(多文化)共生」を超える新たな協働の模索が必要なのではないだろうか。
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1.三宅明正・庄司俊作「現代社会運動の諸局面」『講座日本歴史 現代2』東大出版会、一九八五年。2.道場親信「地域闘争―三里塚・水俣―」『戦後日本スタディーズ②「60・70」年代』紀伊国屋書店、二〇〇九年。
3. 絓秀実『1968年』ちくま新書、二〇〇六年。
4. 小熊英二『1968(下)叛乱の終焉とその遺産』新曜社、二〇〇九年。
5. 同右、八四〇頁。
6..竹ノ下弘久「エスニック・アイデンティティの葛藤と変容―日立就職差別裁判の朴鐘碩氏の生活史から―」『解放社会学研究』一〇号、一九九六年五月。
7. 勝山雅絵「在日朝鮮人支援における日本人青年の思想的葛藤と自己変革―日立就職差別裁判支援を例として―」『お茶の水女子大学 人間発達研究』二八号、二〇〇五年。
8. 金侖貞『多文化共生教育とアイデンティティ』明石書店、二〇〇七年。
9.飯沼二郎『見えない人々―在日朝鮮人―』日本基督教団出版局、一九七三年。
10.『朝日新聞』一九七一年一月十三日。
11. 朴鐘碩「民族的自覚への道―就職差別裁判上申書―」朴君を囲む会編『民族差別―日立就職差別糾弾―』亜紀書房、一九七四年、二三七~二六〇頁。
12. 裁判判決理由部分(前掲『民族差別』二七七~二七八頁)。
13. 『東京新聞』一九七四年六月十九日。
14. 『統一日報』一九七四年六月二〇日。
15.高浪徹夫「朴君を囲む会この三年」前掲『民族差別』五九~六〇頁。
16. 「<朴君を囲む会>への呼びかけ」『朴君を囲む会会報』(以下『会報』)創刊号一九七一年三月。
17. 「『朴君を囲む会』設立の経緯―日本人による一つの中間総括―」『会報』同右。
18. 小沢有作「「朴君を囲む会」結成集会の報告」『会報』創刊号、一九七一年三月。
19. 和田純「<朴君を囲む会>で日本人は…」『会報』三号、一九七一年一〇月。
20. 「再度の呼びかけ文」『会報』五号、一九七二年五月。
21. 「朴鐘碩君の手記<朝鮮人としての自覚をもって>」『会報』創刊号、一九七一年三月。
22. 裵重度「『朴君を囲む会』の運動の中から」『働く人』一九七三年八月一日。
23. 崔勝久「差別社会の中でいかに生きるか―朴君の訴訟を手がかりに―」『朝鮮研究』一〇六号、一九七一年七月。
24. 呉林俊「拒絶と負担からの解放」『玄界灘』(『朴君を囲む会会報』の後継誌)創刊号、一九七三年四月。
25. 崔は在日大韓基督教会青年会の代表委員の職務を「同化論者」であるとの理由からリコールされた。
26. 三重県・呉相奉(会社員)「韓国人としての主体性を」『統一日報』一九七四年四月十日。
27. 田中正美「第五回及び第六回公判報告―原告第五準備書面及び補佐人許可申請書―」『会報』三号、一九七一年一〇月。
28. 「関東大震災―朝鮮人虐殺―五〇年 九・二集会へのよびかけ」『玄界灘』三号一九七三年三月。29.李仁夏「歴史的事件としての関東大震災―朝鮮人虐殺―」『玄界灘』同右。
30. 運動の広がりに関して、土屋和代「越境する市民権運動―川崎における日立就職裁判支援運動と黒人神学―」(二〇〇九年度同時代史学会大会報告、要旨は『同時代史学会ニューズレター』十六号、二〇一〇年六月に掲載)は、李牧師や崔などが米国の黒人解放運動や神学に影響を受けていたことに注目し、世界的な反人種差別闘争との同時代史的なつながりで理解すべきことを指摘する。
31. 張鮮仁「日立を撃つ!―祖国との連帯にあって―」『玄界灘』十一号、一九七四年二月。
32. 「日立の就職差別に抗議 欧米も不買運動 キリスト教世界教会協決議」『朝日新聞』一九七四年五月九日。
33. 「韓国では全土で展開」同上。
34. 松本茂「日立抗議行動の目ざすもの」『玄界灘』一四号, 一九七四年五月。
35. 社会福祉法人青丘社『共に生きる 青丘社創立10周年記念 桜本保育園15周年記念』一九八四年六月。
36. 「4・28 日立と地域を考える川崎集会報告―在日韓国人部会―」『玄界灘』一五号、一九七四年六月。
37. 『朝日新聞』一九七四年六月十九日。
38. 『統一日報』一九七四年五月二一日。
39. 『統一日報』一九七四年五月二四~二六日。
40. 松本茂「団結頑張ろう!」『玄界灘』十三号、一九七四年四月。
41. 小塚隆夫「日立糾弾闘争と日本人」『玄界灘』十七号、一九七四年一〇月。
42. 川崎・在日同胞の人権を守る会編『川崎における地域運動――民族運動としての地域活動をめざして―』一九七五年八月。
43. 川崎・在日同胞の人権を守る会編『民族運動としての地域活動3 川崎における青丘社の実践』一九七七年一〇月。
44. 「子供と向き合って―桜本学園の実践―」『朝鮮研究』一五七号、一九七六年七月。
45. 青丘社の「混乱」の経緯については、崔勝久「『日立闘争』とは何だったのか」崔勝久・加藤千香子編『日本における多文化共生とは何か―在日の経験から―』(新曜社、二〇〇八年)六四-六七頁、曺慶姫「『民族保育』の実践と問題」同上、一三二~一三八頁。
46. この間の経緯は、金侖貞『多文化共生教育とアイデンティティ』(明石書店、2007年)の主題となっている。
47. 川崎市行政の取組みについては、星野修美『自治体の変革と在日コリアン―共生の施策づくりとその苦悩―』(明石書店、二〇〇五年)、山田貴夫「川崎における外国人との共生の街づくりの胎動」『都市問題』八九巻六号(一九九八年)に詳しい。「囲む会」メンバーであった山田が川崎市職員(市民局人権・共生推進担当)となり、果した役割も大きい。
48. 『だれもが力いっぱい生きていくために―川崎市ふれあい館事業報告書(88~91)―』川崎市ふれあい館・桜本こども文化センター、一九九三年。
49. 朴鐘碩「続『日立闘争』―職場組織の中で―」前掲、崔・加藤編『日本における多文化共生とは何か』。
50. 一九九四年から二〇〇五年にかけて東京都を相手どって行われた鄭の裁判については、鄭香均編『正義なき国―「当然の法理」を問い続けて―』(明石書店、二〇〇六年)に詳しい。
51. 崔の問題意識と運動については、崔勝久「『共生の街』川崎を問う」前掲、崔・加藤編『日本における多文化共生とは何か』に詳しい。
52. 朴「川崎市による民族差別の制度化に抗して」『批評精神』六号、二〇〇〇年。
53. 朴「「続『日立闘争』―職場組織の中で―」前掲、崔・加藤編著。
54. しかしながら、二〇一〇年に鳩山内閣の下で行われた高校無償化政策の対象から朝鮮学校が除外されたように、民族教育の承認には依然限界が存在する。
55. 「当然の法理」とは、一九五三年に内閣法制局によって出された次のような見解である。「名文の規定が存在するわけではないが、公務員に関する当然の法理として、公権力の行使、又は国家意思形成への参画にたずさわる公務員となるためには日本国籍を必要とするものと解すべき」。
『人民の歴史学』(東京歴史科学研究会)185号、2010年9月 に掲載
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