2012年1月2日月曜日

今蘇る「植民地なき植民地主義」理論、「植民地主義の再発見」西川長夫(立命館大学名誉教授)

「植民地主義の再発見」西川長夫(立命館大学名誉教授)
「今改めて、私にとっての日立闘争の意味を問う」:パネルディスカションの資料より
西川長夫さんとは何か昔からお付き合いのあった「大先生」のような感じになっていつもご迷惑をおかけしているのですが、考えてみたら、上野千鶴子さんのご紹介で知り合い、まだ2年くらいしかた経っておらず自分でも驚いています。西川さんの新著の『パリ五月革命ー転換点としての68年』(平凡社新書2011年)の「あとがき」で、「「新植民地主義」「国内植民地主義」といった用語と概念をあてはめることによって見えてくる現実が現に存在している」)と記されています。私は本当にそうだなあと思うのです。

開沼博『「フクシマ」論ー原子力ムラはなぜ生まれたのか』(青土社 2011)はその著書の中で、やや唐突ながら「フクシマ」の歴史と現実を踏まえ、それをみっつのコロナイゼーションにわけます。戦前の「外へのコロナイゼーション」と、戦後から95年までを「内へのコロナイゼーション」、そしてそれ以降を「自動化・自発化されたコロナイゼーション」、すなわち植民地主義という概念でフクシマを説明しようとするのです。学問的にその「コロナイゼーション」の定義を説明しようとしたら、おそろく一冊の本になったでしょう。著者はしかしながらフクシマの現実と歴史をこの概念でなければ説明できないと思ったのでしょう。

1月6日の「朴鐘碩の日立定年退職を祝う会」のシンポの最後にパネルディスカッションを計画し、西川さんに参加をお願いしたのは、日立闘争は、この戦前・戦後続く植民地主義に対する闘いであったのではないかと私は強く思うようになったからです。朴本人もずっとそのように表現しています。「国民国家の統治原理は植民地主義的である」これは西川さんが長年の、それこそ朝鮮・満州で幼少期を過ごした経験から現在にいたるまで思考し続けた結果として記された言葉です(「植民地主義の再発見」(『長周新聞』投稿文を加筆・訂正されたもの)。

6日は予定した希望者を大幅に超えそうですが、それでも限られた人しかそのときに配布される資料や、当日の話し合いの内容に触れることはできませんので、当日のパネルディスカションは映像配信する予定ですが、資料はこのブログでご紹介したいと思います。当日シンポの参加者は是非、お読みください。

崔 勝久

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         植民地主義の再発見
                                            西川長夫
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 植民地問題研究の今日的な到達点について私の問題意識を述べるように、という文化部編集者からのお手紙を受けとりました。私自身、この問題について長年辿ってきた隘路からようやく抜け出して、少し広い場所に出てきたような気がしていたので、気軽に引き受けてしまったのですが、いざ手をつけてみると、これは大変な仕事であることを思い知らされました。ここではごく簡単に、植民地問題にかんして私がたどり着いた道筋と暫定的な結論めいたものを記させていただきます。ここで「私が」と書いているのは、植民地あるいは植民地主義の問題は、地球上のほとんどあらゆる人が直面している問題でありながら、対象化することがむずかしく、それを自分の問題として認識するに至るには、人によって様々に異なる契機があり、異なる回路があることを強調するためです。

 初めに一つの結論から述べたいと思いますが、植民地あるいは植民地主義は、近代に不可欠の構成要素の一つである、と言ってよいと思います。したがって近代人はどこに住もうと、いかなる思想信条の持ち主であろうと、植民地主義から免れることはできない。一般に旧宗主国の住民は、植民地問題の研究者でさえも、そのことの認識と自覚が恐ろしく欠如しているのではないでしょうか。そして旧植民地の住民や研究者もまた、植民地主義の汚染から免れてはいない、というところにこの問題の困難さがあると思います。
 ここでいくつかのコメントを加えさせていただきます。右の文章の「近代」という用語を、私は16世紀の西洋の膨張から始まり現在に至る、長期の近代を指して使いました。また近代に不可欠の構成要素とは、資本、国家、国民(民族)、国家イデオロギーとしてのナショナリズムや文明(文化)概念、等々です。そしてこれらの近代の諸要素は、すべて植民地主義に結びついている。植民地主義の動因をなすものであると言ってよいでしょう。

 資本については説明不要だと思います。国家については異論のある人があるかもしれません。しかし国民国家という近代の統治システムは、世界的な国家間システムの中で常に、優越的で支配的な位置の確保と領土的な拡張を図ることが、その存在理由となっています。国家とは一定の領域内で暴力の行使を独占する人間共同体である、というのがヴェーバーの国家の定義ですが、国家装置の中心をなす軍隊という組織は、戦争という名の下に殺人を公認された装置です。かつて戦争をしなかった、あるいは国境侵犯を行わなかった国家があったでしょうか。

 もう一つの中心的な国家装置である学校はどうでしょうか。新しい教科書を作る会の歴史教科書は別格としても、世界各国の歴史教科書を読み比べてみて、それらがいずれも自国中心的なナショナリズムによって書かれていることは否定できません。右にせよ左にせよ、学校教育の中核的なイデオロギーは「愛国」でそれは今でも変わりません。

 同じく中心的な装置である家族はどうでしょうか。現在も活躍しているある著名な俳優が、軍隊から逃げ帰った息子を憲兵隊に突き出した母親の話を書いていますが、これは戦中の家庭を知っている者にとっては、よく理解できる話です。坂口安吾は戦後、戦中を振り返って、戦争をもたらす国家の秩序の基底には家制度があったことを指摘し、家庭の弊害を縷々述べた後で、世界の単一国家と家制度に代わる新しい秩序を求める言葉で終えています(「戦争論」)。現在でも在日外国人、とりわけ在日韓国・朝鮮人から見れば、日本の家庭は、人種差別と植民地主義の温床でしょう。こうした事例を重ね合わせて、かつて私は「国民国家は植民地主義の再生産装置である」(『<新>植民地主義論』の「あとがき」)と書いたことがあるのですが、これは私の考えの一つの到達点で、今もその意見は変わっていません。

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 西洋の膨張としての近代は、新世界と旧世界の住民たちに対する侵略、略奪、殺戮、武力による支配と抑圧、ぺてんと搾取、等々といった野蛮な恐るべき暴力によって始められ、そして世界の四分の三が植民地化されたという厳然たる事実があるにもかかわらず、輝かしい魅力的な衣装を纏って登場しています。その輝かしい衣装とは、文明や科学、都市、芸術、宗教、さらには革命や人権や民主主義やヒューマニズム、等々、あるいは自由・平等・友愛といったモットーを加えてもよいでしょう。

 この近代の両義性には、十分な注意が必要だとおもいます。近代のきらびやかな表面には戦争や植民地支配やさまざまな差別や抑圧などといった暗黒世界がべったりとへばりついている。私はこうした近代の輝かしい諸側面の魅力を全面的に否定するつもりはありません。しかしその輝かしい表面が何を隠蔽し、またどのような仕方で隠蔽しているかについては、十分に注意深くありたいと思っています。隠蔽の仕方には大別して二つの方法があるのではないでしょうか。一つはそれを隠すのではなく、むしろ大々的に宣伝し顕揚することによって、その悲惨な実態と本質を隠蔽する。国家が行う戦争はその代表例でしょう。私の耳の奥には少年の頃にラジオで聞いた大本営発表の声調がいまだに残っていますが、最近の例であれば、ブッシュの戦争報道を思い出せばよいと思います。

 もう一つの隠蔽の方法は、逆に暗黙の了解として触れることなく意識下に抑圧するやり方です。人種差別や植民地主義の隠蔽はその代表例で、差別する側の人間がそれを自覚するのは決して容易ではない。また仮にそれを自覚したとしても、私たちの思考や感覚や身体的な反応から、内面化された植民地主義を摘出し排除することは極めて難しい。植民地主義は政治的経済的な関係に限らず、私たちの食物の好みやある種の匂いに対する拒否感覚などにも結びついています。

 近代の輝かしい側面が、近代の暗黒面の隠蔽に一定の役割を果たしていることは明らかですが、そのことはそうした輝かしい諸要素の分析からも示すことができるはずです。例えば人権です。人権を掲げる先進国、つまり旧宗主国が人権宣言以後も植民地や奴隷制度を保持し続けていたこと、宗主国が植民地の人権に配慮するのはむしろ、植民地が独立して以後の時代であることは、歴史が示す通りです。人権が先住民にまで及ぶには、先住民の長い闘争の歴史が必要でした。またそうしたいわゆる先進国においても住民の全員が必ずしも人権が尊重されているわけではない。アフガニスタンやイラク戦争の例を出すまでもなく、人権の旗の下に多くの人権無視が行われてきました。

 もう一つの例として、文明概念について記しておきます。文明(civilisation)と言いう語の初出は、フランス18世紀の後半ですが、文明という言葉の生成は国民国家の形成期と一致し、近代の進むべき方向と到達目標を示すことになりました。それは欧米に限らず、近代化と国民国家形成を目指した後発諸国においても同様です。日本の近代化は「文明開化」の掛け声とともに始まりました。中国で「文明キャンペーン」が行われたことは、まだ記憶に新しいところです。文明は西欧近代において追求されるべき最高の価値を示し、人類の進歩と幸福、さらには自由、平等、などの観念も含んでいますが、それは同時に野蛮の対概念として、教化、致富、開発、さらには異民族の支配や帝国形成への、したがって植民地化や植民地獲得の欲望を秘めた概念です。

 こうして、「文明化の使命」が植民地支配の合言葉となり、悪を善と言いくるめる弁明の言葉となっていたことは周知の事実です。そしてこの迷妄から覚めるためには、マルチニックの詩人エメ・セゼールの次のような言葉が必要でした。「植民地化がいかに植民地支配者を非文明化(’’’’)し、痴呆化/野獣化(アブリュティール) し、その品性を堕落させ、もろもろの隠された本能を、貪欲を、暴力を、人種的憎悪を、倫理的二面性を呼び覚ますか、まずそのことから検討しなければならない」(砂野幸稔訳『植民地主義論』)。もっとも半世紀以上も前に発せられたこの言葉が旧宗主国の人々の耳に達した形跡はほとんど認められません。

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 だが植民地主義隠蔽の圧力は、必ずしも旧宗主国においてのみ作用するとは限りません。植民地あるいは独立後の旧植民地においても存在することも認めなければなりません。これは複雑で深刻な問題だと思います。植民地化は住民やその土地を変えてしまう。そしてこの変化は多くの場合不可逆的です。植民地責任は謝罪や補償で償えるものではない、と私は考えています。私たちが植民地問題を学ぶのは多くの場合、旧宗主国の植民地研究者よりは、旧植民地出身の革命家や文筆家たち、そしてなによりもその土地に生活している住民たちからです。しかし植民地的状況が植民地認識を奪う場合も多い。むしろそれが植民地的状況の定義だとおもいます。

 例えば、フランツ・ファノンの言う「黒い皮膚・白い仮面」の問題があります。ファノンはこの書物の冒頭にエメ・セゼールの『植民地主義論』から次の一節をエピグラフとして引いています。「私は、恐怖、劣等感、おびえ、屈従、絶望、下僕根性を巧みに植え付けられた何百万の人々のことを語る」。これは正に植民地的状況です。だがここでエメ・セゼールはなぜ、植民地の何百万の人々に代わって、しかもあの美しいフランス語で、かれらのことを語るこよができたのでしょうか(同じ問いは同じマルチニック出身で、セゼールの生徒でもあったファノンについても向けられるでしょう)。お座なりの回答を言えば、それは彼ら二人は本国のフランス共和国の教育と価値観を内面化していたからです。それは植民地の知識人に共通した矛盾ですが、より広く、独立を目指す植民地の矛盾である、と言っても良いと思います。  

 この矛盾は植民地が独立を達成した時に、より大きな規模で現れました。そもそも独立とは何でしょうか。それが他国の支配を脱して新しい国民国家を樹立することであれば、それは近代を構成する世界的なシステムの中で共通の価値観を自ら受け入れることを意味しています。「独立」の概念自体、「国民」や「民族」と同じく、西欧近代が生み出し、西欧近代を支える主要な概念の一つです。・・・・・ここまで来て、私は共和国の理念を受け入れたエメ・セゼールが何故あれほど自己の黒人性(ネグリチュード)に固執したのか理解できるような気がします。この一点を失えばエメ・セゼールは、西欧近代の価値観のただ中に漂流することになりかねない。

 独立が西欧的国民国家の形成を意味していたとするならば、独立もまた植民地遺制の一つです。そして独立という言葉に、残存する自他の植民地主義を隠蔽する働きがあったこよも事実でしょう。第二次世界大戦後に植民地支配からの独立を果たした第三世界の新興諸国の指導者たちは、おそらく独立のもつこのパラドクスに気づいていたはずです。少なくとも独立の幻想から覚めるのに多くの時間はかからなかったと思います。この植民地主義に対する旧植民地の側からの新しい認識は、1960年前後に「新植民地主義」という用語で表明され、日本でも一時期活発に議論されたことがありますが、今ではほとんど忘れられてしまいました。

 「新植民地主義」にかんする議論の契機となったのは1955年のいわゆるバンドン会議(アジア・アフリカ会議)の開会演説で、インドネシアのスカルノ大統領が「古典的な形態をとらない新しい植民地主義」の存在を指摘したのが発端とされています。その後幾度かのアジア・アフリカ会議が開かれ宣言文も出されていますが、ここでは「新植民地主義」に関しておそらく最も深く正確な認識を示した文章として、ガーナの大統領クワメ・エンクルマの『新植民地主義』の序論から引用させていただきます。  

 「新植民地主義の本質は、その下にある国家は、理論的には独立しており、国際法上の主権のあらゆる外面上の装飾を有しているということである。現実には、経済体制、政治政策は外部から指揮されている。
 この指揮の方法と形態は、種々の形をとりうる。たとえば極端な場合には帝国主義の軍隊が新植民地主義の国家領域に駐屯し、その政府を支配する。しかし多くの場合、新植民地主義的支配は、経済的もしくは金融的手段を通じて行われる。...」

 こうした言葉は、私たちがアフガンやイラクにおけるアメリカの介入を目撃している21世紀の現在において、いっそうのリアリティーをもって迫ってきます。しかしここで急いで付け加えなければならないのは、アジア・アフリカ会議に集まった当時の指導者たちの初志は貫徹されなかった、ということです。現在、私たちが目前にしているのは、国民国家と資本主義という近代西欧の諸制度と諸価値を受け入れた啓蒙的あるいは開発独裁的な「独立」の帰結ではないでしょうか。植民地主義から解放された「独立」国家が、他の国家や他国民に対して、あるいは自国の周辺部に対して、植民地主義的な対応をしないという保証はないということを、私たちは世界政治の現実のなかで十分に知っています。

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 植民地主義の概念の転換について述べなければなりません。「古典的な形態をとらない新しい植民地主義」という表現は、植民地から解放され、独立を勝ち取ったはずの新興諸国が直面した困難がいかなる性質のものであったかを示す切実な言葉ですが、それは同時に植民地主義の変容を示す予見的な言葉でありました。そしてそれは、現在グローバリゼーションの名の下に私たちが直面している現実を予告しています。私はそれに「植民地なき植民地主義」という名称を与えました。第二の植民地主義の出現です。植民地を前提とする従来の植民地主義の定義では、グルーバル化時代の植民地主義を理解できないばかりか、植民地主義の存在自体を隠蔽しかねない。グローバリゼーションがいかに強力な植民地主義を内蔵しているかを私たちの前に示してくれたのは、植民地主義の研究であるよりはむしろ、9.11以後のアフガニスタンやイラクに対するアメリカとその同盟国の介入、そしてそれに続く世界的な金融危機と経済恐慌の現実でした。

 ここでグローバリゼーションについて私の考えを記すべきところですが、これまでに幾度か書いており、またすでに紙幅も尽きているので省略させていただきます(いちばん最近のものでは私たちの共同研究をまとめた『グローバリゼーションと植民地主義』西川長夫・高橋秀寿編、人文書院があるので参照いただければ幸いです)。ただ一つだけ付け加えさせていただきたいのは、私は本稿で述べた、大航海時代から始まる「長期の近代」をグロ-バリゼーションと一体のものとして考えているということです。もっとも、ある一つの時代の連続性や断絶が見えてきたとすれば、それは一つの時代の終わりに臨んでいるという意識があってのことだと思います。だが時代の終わりと未来について語るのは止めましょう。私の歴史観によれば、歴史とは偶然と驚きに満ちたものであるはずだから。

 「植民地なき植民地主義」という言葉が暴くであろうもう一つの重要な対象は、「国内植民地」あるいは「内国植民地」と呼ばれている近代の歴史的現実です。この用語の起源は大きく分けて二つあります。一つは明治政府の殖民政策にかかわるもので、植民地、あるいは内国植民地という言葉の誕生の地は北海道、つまり日本帝国主義の先端部においてでありました。もう一つは1960年代後半のアメリカの都市部において公民権運動にかかわった黒人やヒスパニック系など、あるいは周辺部の先住民たちの、自分たちは再び植民地的状況に追いやられているのではないかという痛切な自己認識から生まれた言葉です。英語ではinternal colonialismですから、内部植民地主義、内的植民地主義といった訳も可能であり、それだけの意味のふくらみを持った用語として使いたいと私は思っています。

 植民地は遠い海外にあるものという古典的な前提、さらには独立した国の内部には植民地や植民地主義はありえないとする民族主義的な前提が、国内における植民地的状況、収奪や抑圧、差別や格差、等々、などの存在を見えなくしていることは事実です。だが国内植民地という用語は、そうした偏見を追い払い、国内(あるいは内面)における植民地主義や植民地的状況の発見と直視に道を開いたのではないでしょうか。ここではチェチェンやチベットやあるいはアメリカの西部の歴史を持ち出すつもりはありません。また帝国の概念を持ち出す必要もないでしょう。あらゆる大国が、そしてほとんどあらゆる小国が、様々な形で、中央と地方、あるいは中核と周辺という構造をもっているとすれば、国内植民地の存在は、国民国家に普遍的な現象ではないでしょうか。そうした考察の果てに私がたどり着いた結論の一つは、「国民国家の統治原理は植民地主義的である」というものです。そう言い切った時に、国民国家と西欧近代の本質が見えてくるのではないでしょうか。
                  
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 長くなってしまいました。そろそろ結論を出さなければなりません。近代の主要な構成要素の一つである植民地主義の研究は、近代の再考と近代の根底的な批判に至らざるをえないというのが一つの結論である、と一応は言うことができるかもしれません。しかし私が本当に言いたいのは、むしろ植民地問題の研究は常に一つの過程であって、確定的な結論に至ることは私たちにはありえないだろう、というペシミスティックな予想です。私たちが近代という時代に生きている以上、植民地主義はあらゆる場面、あらゆる次元で私たちに付きまとって離れない。国家や社会のあらゆる部分、あらゆる組織の中で発生し機能している植民地主義。自己の身体や内面で育成され、時に他者に向けて強力に発散されて他者を傷つける植民地主義。他者への視線、他者に対する暴力の中に潜む植民地主義。性差や身分、貧富や階級、身体的能力と結びついた植民地主義。国際的な力関係は言うまでもありませんが、植民地主義は私たちが社会や様々な集団の中で占める位置によって姿を変え、あるいは姿を隠して現れます。

 したがって植民地問題の研究ほど研究者の立場を明確にさらけ出し、明確に示すことが要請される研究は少ないと思います。また植民地問題研究ほど時代のイデオロギーの影響を受けるも少ないでしょう。植民地問題研究が少ないわけではありません。むしろ最近は年々盛んになっていると言ってよいでしょう。しかし自分の立ち位置を反省することなく、実証的な研究成果を積み上げて満足している幸せな研究者を見ると、どう対応してよいのか困ってしまいます。あるいは逆に、自己の内なる植民地主義に目をつむって、植民地主義の不正と加害性を叫びたてる、正義の味方的な研究者の存在をどう考えればよいのでしょうか。

 植民地問題へのアプローチには、ひとそれぞれの異なる契機、様々な回路、様々な方法がありうることはすでに述べたつもりです。特定のやり方があるわけでなく、それぞれのやり方が尊重されるべきだと思います。私の場合には戦争中に朝鮮、満州といった植民地で幼少期を過ごし、敗戦後一年近く抑留されていた北朝鮮から脱出し、38度線を越えて引揚者として帰国した(たしか11歳でした)経緯がありました。占領下の日本に引き揚げてきて、植民地状況にある国を見て強い衝撃を受けたのですが、さらに驚いたのは、自分の同級生をはじめ日本の人々がそれを植民地状況であるとは全く自覚していないということでした。ジープの後を追って、ギブミー・チョコレートと叫ぶ子供たちを見たときの屈辱。だが、自分もチョコレートやガムが欲しかったのだと思います。それは一種のトラウマとして残っています。朝鮮・満州で植民地について何も考えることの無かった少年が、そうした日本の現状に身を置いて、改めて自分が育ったのが植民地であったことを考え始めたのではないかと思います。その後現在に至るまでに長い時間が経っていますが、植民地と植民地主義は私にとって自明のものではなく、時間をかけて発見されるべきものでした。

 今年2010年は「韓国併合」100年の年であり、多くの行事が予定されており、様々な議論が交わされると思います。私はそれらの議論から多くを学びたいと思っていますが、制約のある公的な場の議論にはあまり加わりたくないな、というある種の憂鬱な予感があることも記しておきたいと思います。ここでは最後に私の「<新>植民地主義論」の延長として、おそらく2010年にはあまり議論が行われないであろう三つの論点について前もって記させていただきます。

 第一点は、植民地と宗主国の相互的な関係についてです。言うまでもなく植民地支配は簒奪を目的とした不正で暴力的な行為であり、支配者は加害者、住民は被害者です。しかし支配と被支配の関係は複雑に絡み合っています。もっとも相互性の問題と植民地が宗主国に与えるパラドクサルな影響、というのはポストコロニアルの理論の要点の一つであり、あまり新しい観点ではありません。しかしここで私が特に強調したいのは、その相互的影響の大きさであり深刻さです。そのことの反省に私たちを導くのは、先に引用したエメ・セゼールの言葉です。「植民地化がいかに植民地支配者を非文明化し、その品性を堕落させ、、、」。植民地を持つこと、他国の人を植民地化することが、いかにその宗主国の人間をダメにし堕落させたか、そのこと深刻さを日本の知識人も国民も十分に理解していないし、理解しょうとしない。日本の近代史もそのことを描ききっていないと思います。他方、相互作用のもう一方の側、つまり植民地における堕落の深刻さの問題があると思います。これも先に引用したセゼールやファノンの言葉が私たちを導いてくれると思います。その堕落を救ったのは抵抗運動でした。だが抵抗運動あったがゆえに、その堕落の深刻さに対する考察が弱められるということが起こりえたのではないでしょうか。韓国の近代史はその深刻さを描ききっているでしょうか。

 第二点は、植民地主義の同時代性と連続性の問題です。植民地主義は過去のことではなく、形を変えて現在も、つまり解放後の今も続いているとしたら、日韓併合百年の意味変わってくるのではないでしょうか。私たちは現在の植民地主義に対して闘わなければならないとおもいます。

第三点として、最後にもう一つだけ、日韓併合条約の合法性がすでに問題になっているようですが、当時の国際法の基準に合わせて条約の合法-非合法を問うこの議論は、私には全くナンセンスなものに思えます。なぜなら国際法自体が列強の利益に合わせた植民地主義的なものであるのだから。法律は国内法国際法を問わず、基本的には既成の秩序を守るためのものだから、根本的な問題を議論するときには用心しなければならないと思います。(西川長夫 この試論は『長周新聞』の2010年1月11日、13日、15日、18日に4回に分けて掲載された文章に部分的な加筆・訂正を加えたものです。2010年10月22日記)

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