戦後日本の製鉄業が大都市圏の臨海工業地帯に立地したわけは?
横浜国大の中村剛治郎教授の講義で興味深いことがわかりました。農業・工業・サービス業が成り立つ立地についてのドイツ学者の研究を説明した後、日本の製鉄業の立地についてのお話です。
戦前は石炭・鉄鉱石原料に近いところで製鉄所は作られた(八幡製鉄、室蘭等)が、戦後は太平洋側の大都市臨海工業地帯(堺、君津等)に作られた理由は何かという問いがありました。答えは、原料が海外からの輸出に頼るようになったからです。輸入に便利だということで太平洋側の消費地である大都市の臨海部工業地帯に製鉄所を作り、そこからすぐに国内消費だけでなく、輸出できるようにしたのです。日本の製鉄業は、世界のほとんどの国は国内用なのに輸出の比率が高いそうです(ここまでは講義になかったのですが)。
では何故、本来地価の高い大都市ではなく、地方の活性化も可能になるのに地方に製鉄所を作らなかったのか? これは臨海工業地帯というのは埋め立て地だからです。新たに土地を「作る」のですから、ただに近いものになります。それによって太平洋ベルトと言われるくらい、ほとんどの大都市で製鉄所は作られ、それができなくなって瀬戸内海や、九州の大分あたりまで広がったというわけです。これに石油コンビナートが重なります。
東京湾にはもう三番瀬を除いては自然のwater frontはありません。川崎の臨海部はまさに人の住めない、モンスターのような工業地帯です。公害がおこったのも起こるべきして起こったのです。またその臨海部では学者は触れませんが、多くの「在日」や「未開放部落」の集落が残っています。川崎の臨海部に隣接するところにも「在日」の集落が残っています。しかし川崎の公害から「環境再生」やSustainable Communityを訴える学者も「在日」の歴史と現実には一切言及していません(『環境再生』(有斐閣))。
海はもともと誰のものでしょう、公共のものではないのでしょうか。埋め立て地を安く購入した大企業は、今はその土地も値上がりし簿価とはまったく違う高い価格になっており、その含み資産たるや大変なものになっているでしょう。しかし高い技術を誇る日本の高炉もいつまでもつでしょうか。川崎の臨海部の6割はJFEの土地だそうです。石油会社は統合がはじまり大きな空き地になりはじめています。その土地を市場価格で売るということが果たして許されるのか、というのが中村教授の主張で(『地域政治経済学』(有斐閣))、
まったくその通りだと思います。
川崎の埋め立ての起源は江戸時代ですが、本格的な埋め立て地の上での工業化がはじまったのは「韓国併合」と同じ100年前です。100年かかって「化け物」を作ったのですから、100年先を見越したグランド・デザインが求められるのです。今がまさに歴史的なチャンスだというのが中村教授の主張です。まったくそうだと私は思います。行政ははたして中村教授の本を読んでいるのか、私には疑問です。まさに市民が声をあげなければいけない瀬戸際だと思います。
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