東京女子大学社会学紀要題38号(2010年3月3日)は、上野千鶴子さんの基調報告を元に福祉関係者とインドネシアの関わる人たちが参加し、参加者からの発言も記載された読み応えのあるいい小冊子です。私自身知らなかった事実も多くあり、また学生の発言の中に、外国人問題を考えるときの視点はどうあるべきかについて、重要な示唆がありました。「多文化共生」が外国人施策の政策用語となり、当事者抜きに、或いは外国人問題というカテゴリーに入れその範囲で、問題解決を図ろうとする行政の姿勢に疑問を感じてきた私は、外国人介護士の問題と「多文化共生」を推進する問題が通底すると考えます。
事実として押さえておくべきことは、インドネシアの労働者(介護士)を日本に入れたのは、日本市場での働き手がないということではなく、また日本政府は輸出促進の一環としてインドネシア政府とEPA(経済連携協定)を結び労働者を受け入れたということです。最低賃金の保障も実態は定かでなく、将来は現代の奴隷制度である研修制度と似たものになる可能性もあるとのことです。漢字を習得しなければ試験に通らず、4年後は帰国する(その間雇い主は労働力を確保できる)、そのような現実に対して、漢字のルビ化というような具体的な提案もなされています。
私自身、一番納得したことは、最後の締めで司会者が学生の意見を紹介する形で「外国人差別はいけない。労働者として人権も守られるべきだ。でも日本の介護現場の実態を放置していては外国人受け入れの是非に結論をだせない」というくだりです。勿論、上野さんはその前に「外国人が入る入らない以前に、すでに日本人のワーカーさんの置かれた職場の環境が悪すぎる」(P223)と話しています。
この構造は、まさに「在日」問題についても全く同じです。マイノリティのためになることがマジョリティのためになるとか、権利をあげるという視点に対して私たちは、マジョリティの問題そのものにまずしっかりと取り組めよ、私たちも一緒にやるぞ、と言います。外国人の現場を知れば知るほど、外国人への取り組み(その必要性と熱意には敬意を払いつつ)がパターナリズムに陥る危険性があることに多くの人は気付いていません。
しかし地域の問題に「在日」が本気で関わることを疎外しているのは、私たち自身に即して考えると、国民国家を元にしたナショナリズムではないのか、日本人の問題は第一義的には日本人が解決すべきと考える限り、日本人と「在日」の対等な関係構築と地域変革の「共同」作業は不可能です。徐京植と花崎論争は実はまだ終わっていないと思います。「在日」にとっての民族主体論をどのように相対化するのか、この論議を始める時期が来たと思います。みなさんはいかがですか?
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