OCHLOS(オクロス)は民衆を意味する古代ギリシャ語です。私は民衆の視点から地域社会のあり方を模索します。すべての住民が一緒になってよりよい地域社会を求めれば、平和で民衆が安心して生き延びていく環境になっていくのでしょうか。住民は国籍や民族、性の違い、障がいの有る無しが問われず、貧困と将来の社会生活に絶望しないで生きていけるでしょうか。形骸化した戦後の平和と民主主義、経済優先で壊された自然、差別・格差の拡大、原発体制はこれらの象徴に他なりません。私たちは住民が中心となって、それを憂いのない地域社会へと変革していきたいのです。そのことが各国の民衆の連帯と東アジアの平和に直結する道だと確信します。
2009年11月25日水曜日
中村政則氏の『『坂の上の雲』と司馬史観』(岩波書店)を読んで
近現代史の専門家である中村政則氏の『『坂の上の雲』と司馬史観』(岩波書店)を読みました。
文学と歴史書の関係については、田川建三の遠藤周作批判を既に読んでいたので、私には中村さんの司馬遼太郎批判は物足りませんでした「イエスを描くという行為―歴史記述の課題」(『宗教とは何か 宗教批判をめぐる』(洋泉社 2006)。遠藤と同じく、司馬の読者もまた、『坂の上の雲』をフィクションでなく、ノンフィクションとして読むでしょうし、本人もまた事実に基づいて書いていると自覚している点でも同じです。
中村さんはさすが近現代史の専門家として、司馬が目を通したであろう当時の資料の批判と、その後の学問的成果を踏まえながら、司馬史観を批判します。中村さんの指摘はあたっていると思います。その点に関してはその通りなのですが、どうして物足りなさを感じるのか、考えてみました。
司馬史観の批判はあたっているのだが、ではどうして司馬はそのような史観をもって資料を解釈ないしは無視したのか、という点では、中村さんは、司馬の産経新聞時代に培った「サービス精神」に帰着させます。勿論、「司馬を論じることは、日本文化を論じることである」ということは強調されています。彼が読まれた時代(「高度成長下で・・野放図にまで成長してきた『戦後的価値意識』)を代表していた」という指摘もあります。
司馬遼太郎は、私は夏目漱石後の国民作家と位置付けられる作家ではないかと思っています。勿論、二人の文学の質ではありません、国民から受け止められ、評価されてきたという意味です。そういう意味で、朴裕河の漱石を批判した『ナショナル・アイデンティティとジェンダー漱石・文学・近代』(クレイン 2007)(私は評判になった『和解のために・・』『反日ナショナリズム・・』よりもこの本を評価します)では、どうして漱石が国民作家になっていったのかという背景がナショナル・アイデンティティをキーワードにしながら描かれているのですが、中村さんにはこの点の分析が希薄です。
学問の専門分野が違うということかもしれませんが、司馬の「サービス精神」をキーワードにしたのではあまりにも彼を国民作家と仰ぐ人が多い現象の説明としては弱いのではないのでしょうか。私見では、司馬遼太郎批判が、ナショナル・アイデンティティ批判につながる視点として提示されていないからではないかと思われるのですが、皆さんのご意見はいかがでしょうか。しかし司馬史観と「つくる会」の事実認識・歴史認識のレベルを知り、教科書問題の背景を知るためには必読書であるということでは異存はありません。個人的には、加藤陽子『それでも、日本人は「戦争」を選んだ』を正面から論じてほしかったですね。それは戦後歴史学の評価・批判にもつながると思います。
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