2021年6月10日木曜日

田川建三訳著『新約聖書 訳と注 ヨハネの黙示録』(作品社)より

「民族」と「国民」の違い。田川さんの怒りは当然でしょう。 「地球上のほとんどの国の場合、それを形成しているのは一民族ではないので、多数の民族がひとつの国を形成しているのである。・・・それを「民族」と「国民」の区別もつかないようでは、あまりに無知蒙昧といわねばならない。というよりも、余りに偏狭に国家主義にこり固まっている。…日本のファシズムの支配する時代はもう終わったはず、・・未だにその意識をひきずっているなんて、知的反省力の欠如すること、おびただしいではないか。」217頁

田川さんが福音書を初めて書いたマルコの動機を描く姿は、そのまま何故田川さんがマルコを描こうとしてきたのかという動機につながっているように、私には思えます。 (以下、田川さんの著作の引用)

マルコにとって福音とは、

イエスの歴史的出来事から切り離され無時間化され抽象化されうるような真理でもない。それはイエスが語った真理であるとともに、イエス自身でもある。イエスの生、イエスの活動がその歴史的広がりにおいて意味してもの、それがマルコにとって福音なのである。 イエスが自らの歴史の場において実現していった福音を、イエスの後についていく者は、今度は自分の歴史の場において実現し、しかもそれをイエスと同様に十字架の死という悲劇にたどりつくまでも負い続けよ、というのである。その行為こそ「イエスのため、福音のため」というのである。 この句に、イエスの過去に生きた姿をえがきつつ現在の自分たちの生に対する語りかけをなそうとしたマルコの意図がはっきり現れている。そして、この意図が福音書を生み出したのだ。317頁

すべての国の民がその前に集められると(815頁)ー(マタイによる福音書25章32節) 「民族」と「国民」の区別もつかないというのは、言語の理解として(言語だけでなく、事柄の理解として)最低である。困ったことです。(815頁) (日本人であることがあたり前の日本社会では、田川さんの指摘が理解されるかどうかわかりません。崔)

イエスが「神の国」理念を自分の考えの基礎に置き、何を考えるにもそこから発して考えていた、などというのは、全く根拠がない。「神の国」という単語を口にするとき以外は、イエスは「神の国」なるものについて何も考えていない。 そして、口にするときは、斜めにかまえて皮肉に言及するだけである。 イエス自身が「神の国」なる圧倒的超越を一生懸命信仰していたなどということは、福音書のどこにも書いていない。少なくともイエス自身に確実にさかのぼりうる福音書伝承の中では、そういうものはどこにも見られない。 それが(「神の国」)がどんなにすばらしいことか、「神の国」なんぞと言いたければ、これが神の国というものだろう、と言ってるだけである。685頁

あなた方を先立ち導いてガラリヤへと行く(マルコ16-7) 復活のイエスの顕現のお話なんぞ、マルコ福音書が書かれた当時はまだ知られていなかった。・・・ガリラヤに行けばイエスに会えるというのは、そこに行けば、かつてイエスが活動した思い出が、イエスの生きた姿の思い出が、イエスの語った言葉の数々が、まだ生き生きと残っている、その姿に会えるだろう、と言っているのである。そして、そのイエスの生きた姿があなた方を、このエルサレムにとどまるのではなく、そのガリラヤへの「先立ち導いてくれる」のだよ、と。(489頁)。

「器物を持って神殿を通るのを許されなかった」マルコ11-16 「ユダヤ教的対場で神殿の神聖を尊重しようというのなら、神殿商人を追い出そうとするなど、考えられないことである。神殿の基本機能そのものに反対する姿勢をもっていなければ、こういう極端な行為に走ることはありえない。」365-366頁

我、渇く者に生命の水の泉から(水を)価なしに与えよう(21-6) 「神の何たるかを示すために(たとえそれが幻想文学上の幻想の神であるにせよ)、その本質を示すために、この著者はたった一言、これだけを書いたのだ。神が神であるなら、我われ日々苦労して真面目に働いて生きているものたちを飢えたり、渇いたりさせないであろう、と。」797頁

「彼らはもはや飢えることなく、もはや渇くこともない。」7-16 「この短い句に、原著者の特色がいかんなく発揮されている」。 「この著者は、天国などいうものがあるのであれば、そこではまず、地上の生では安心して食べることもままならなかった無数の人々が安心して食べることができるようになるよ、ということでなければならないと思っている。そのことをさて置いて人類の宗教的救済なんぞを考えたって、なんの意味もない。」 「彼(黙示録の著者)に言えることは、せめて、「神が彼らの眼からすべてを拭いくださるであろう」ということだけだった。「黙示録は、悲しい著作なのだ。」(331-332頁)

黙示録18章について(687頁) 「黙示録18章はローマ帝国支配そのものが批判の対象であって、その経済的繁栄がいかに支配下の諸民族を抑圧し、苦しめることによって成り立っているか、その犠牲の上に彼らのけばけばしい空疎な贅沢が可能になった、という点についての批判。」

黙示録19章 「キリスト信者であろうとなかろうと、ローマ帝国支配下で「イエスの証し」をなし続け、その姿勢で生き続け、その故に弾圧、抑圧を被った、その人たちの姿勢を、その人の証言を。これこそ「真実な神の言葉」と呼ぶ方がはるかにまっとうではないか。」744頁

我、渇く者に生命の水の泉から(水を)価なしに与えよう(21-6) 「神の何たるかを示すために(たとえそれが幻想文学上の幻想の神であるにせよ)、その本質を示すために、この著者はたった一言、これだけを書いたのだ。神が神であるなら、我われ日々苦労して真面目に働いて生きているものたちを飢えたり、渇いたりさせないであろう、と。」797頁

田川さんの解説によって、黙示録の著者の主張の本質が明らかにされる。 「そしてその木の葉は諸民族の癒しとなる」22-2 「黙示録の著者はまさにその「諸民族」という単語を、神によって作られる「新しい町」の中にある「生命の木」、人々の生命を支える木を形容する語として付け加えたのだ。この木は「諸民族の癒し」のためのものだ、と。」 「これはエゼキエル書全体の結びのせりふである。そのせりふを黙示録の著者は自分の最後にほとんどそのまま引用して、しかもそこにエゼキエル書の主張と正反対の単語をずばっと一言付け加えたのである。「それは諸民族の癒しとなるのだ」と。」 「こういう仕方で黙示録いの著者は、旧約、ユダヤ教全体を覆っているえぐいた民族排除、自民族絶対主義に対する決定的な批判を突きつけたのだ!」828-829頁

福音について 「パウロはその「福音」の中身として、かつて生きていたあのイエスという人物の存在まるごとを無視し、ただ、自分が幻想の中で出会ったという復活のキリストによる「救済」のことのみを考えていた。」 「マルコはそれに対して、もしも「福音」などと言いたいのであれば、かつて生きていたあのイエスのことをさしおいて何が言えるのか、というので、この書物を書いて公にしたのである。」 「だから、マルコがこの書物に「福音」という表題をつけたのは、当時のキリスト教にあっては、非常に挑戦的な行為であったのだ。」130頁

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