日韓会談に臨む日本の姿勢について。米国のサンフランシスコ講和条約の目的はアジア冷戦大戦の構築であり、米国は日本のファシズム体制の解消よりも経済復興を通しての反共網構築政策を支持し、日韓会談はサンフランシスコ条約締結後アメリカの主導で始められた。日本は朝鮮の植民地支配を正当化する立場で臨んだ。 崔勝久
(6)私たちにそれほどまでに不利だったサンフランシスコ条約は、日本に植民地賠償に対して、免罪符を与えたことになるので日本として有り難かったでしょう。
このことを契機に韓日会談が始まったとしたら日本は韓日会談に対する準備もそのような立場でしたはずなのですが、ここで二つの質問があります。
まず、日本は韓国に対してどのような態度で会談に臨むようになったのかということと、どのようにして韓日会談が始まったのかということです。順番で見ると2番目の質問が先ですね。
ー韓日会談はサンフランシコ条約締結後、アメリカが主導的になって始まったものです。1951年9月サンフランシスコ条約が締結して、その年の10月から韓日予備会談があり、1次会談は1952年2月15日から4月21日まで行われました。その時韓国は韓国戦争中でした。
どこで行ったのか、このことも重要で、
日本の東京で行ったということです。
日本で米軍政を任されていた、連合軍の最高司令部 (GHQ: General Headquaters/SCAP:Supreme Commander for the Allied Powers)
実際には米軍司令部がいる会議室で始まりました。
会談の公式言語も英語でした。
米軍は韓日会談を通して韓日関係をサンフランシスコ条約が作った秩序の中に入れようとしたのです。
日本の東京で行ったということです。
日本で米軍政を任されていた、連合軍の最高司令部 (GHQ: General Headquaters/SCAP:Supreme Commander for the Allied Powers)
実際には米軍司令部がいる会議室で始まりました。
会談の公式言語も英語でした。
米軍は韓日会談を通して韓日関係をサンフランシスコ条約が作った秩序の中に入れようとしたのです。
(6-1)私たちはサンフランシスコ条約の署名当事者ではないのに、どうしてそのようなことが可能なのですか?
ーまさにその点です。
サンフランシスコ条約の署名当事者ではない韓国をサンフランシスコ体制に包括させる作業、このことがアメリカが意図した韓日会談でした。そこから基本的な矛盾が生まれていきました。
私たちは賠償問題をはじめ植民地問題の清算を提起しましたが、アメリカは日本が要求した”在日朝鮮人の法的地位問題”にだけ限局しないといけないと言いました。違う問題は議論できないようにしようとしたのです。
サンフランシスコ条約の署名当事者ではない韓国をサンフランシスコ体制に包括させる作業、このことがアメリカが意図した韓日会談でした。そこから基本的な矛盾が生まれていきました。
私たちは賠償問題をはじめ植民地問題の清算を提起しましたが、アメリカは日本が要求した”在日朝鮮人の法的地位問題”にだけ限局しないといけないと言いました。違う問題は議論できないようにしようとしたのです。
(6-2)しかし韓国の反発が思いのほか大きくなった結果、議題が拡大されました。
本格的な会談が始まるとアメリカは抜けましたが、予備会談では参観という名目で参加し、
(ウィリアムシーボルド最高司令部外交局長)
日本の負担を最小化する方に舵をきりました。
(ウィリアムシーボルド最高司令部外交局長)
日本の負担を最小化する方に舵をきりました。
(6-3)アメリカはアジア-太平洋戦争で日本と戦ったのですが、どういうことですか?
ー前にも触れましたが、アジア冷戦体制の構築がサンフランシスコ条約の基本目的であり、ここで日本の役割を強化して、冷戦遂行基地に作ろうとしたからです。
いわゆる”逆コース(reverse course)”といって、日本のファシズム体制を解消するといったことよりも、その基盤を積極的に活用して経済復興を通して、アメリカが中心となる
東アジアの強力な反共網を作ろうとしたのです。
親日勢力を清算するための韓国の反民特委法律制定(反民族行為特別調査委員会)が、米軍政によりなかなか進まなかった歴史も、全てこのようなアメリカの世界政策から始まります。韓国はサンフランシスコ体制で守職的に日本の下位に位置するようにしたのです。
東アジアの強力な反共網を作ろうとしたのです。
親日勢力を清算するための韓国の反民特委法律制定(反民族行為特別調査委員会)が、米軍政によりなかなか進まなかった歴史も、全てこのようなアメリカの世界政策から始まります。韓国はサンフランシスコ体制で守職的に日本の下位に位置するようにしたのです。
私たちは経済的財源が切実な状況だったこともあって、韓日会談がこの枠の中で始まることになるのです。
(6-4) 議題を”在日朝鮮人法的地位問題”にだけ限局しようとしたのはなぜですか?
ー敗戦国日本は、日本にいる在日朝鮮人/韓国人を負担に思ったからです。
敗戦直後、200万名ほどの在日日朝鮮人/韓国人の多数が帰国した後、60万名ほどが残りました。以前は法的に日本人だったのですが、今や法的責任を取りたくない集団になってしまったということです。アメリカとしても冷戦体制強化のために日本の味方になったということでしょう。
敗戦直後、200万名ほどの在日日朝鮮人/韓国人の多数が帰国した後、60万名ほどが残りました。以前は法的に日本人だったのですが、今や法的責任を取りたくない集団になってしまったということです。アメリカとしても冷戦体制強化のために日本の味方になったということでしょう。
(6-5) この問題はあとで、もう少し詳細に説明していただくとして、会談に臨む日本の韓国に対する姿勢はどうでしたか?
ー重要な項目だけ取り上げてみますね。
1. 朝鮮の併合は条約として適法に成された。国際法的に正当な取得である。
2. 朝鮮統治時代、韓国人の経済・文化生活は向上した。
3. 日本が韓国のための統治をしたために、むしろ韓国から受け取るものがもっと多い。
1. 朝鮮の併合は条約として適法に成された。国際法的に正当な取得である。
2. 朝鮮統治時代、韓国人の経済・文化生活は向上した。
3. 日本が韓国のための統治をしたために、むしろ韓国から受け取るものがもっと多い。
(6-6) これはもしかして、今の日本の安倍政権も今も持っている考えではないのですか?
ー表には出せないでしょう。
この間、いろんな総理たちが植民地支配被害に対して認定と謝罪をしたりもしましたから。その謝罪というのも”法的責任”は決して認めませんでした。日本の右翼は韓国の植民地支配が正当だったという考えから抜け出そうとしていません。
彼らの歴史教科書には、まさにそんな考えが反映していますから。韓国のいわゆるニューライト植民地近代史観もこれと変りません。
この間、いろんな総理たちが植民地支配被害に対して認定と謝罪をしたりもしましたから。その謝罪というのも”法的責任”は決して認めませんでした。日本の右翼は韓国の植民地支配が正当だったという考えから抜け出そうとしていません。
彼らの歴史教科書には、まさにそんな考えが反映していますから。韓国のいわゆるニューライト植民地近代史観もこれと変りません。
まさにこのような日本の韓国に対する認識は以降第3次会談(1953年10月)を中断させた
日本側会談代表、久保田貫一郎のあの悪名高い妄言が頂点に達します。
日本側会談代表、久保田貫一郎のあの悪名高い妄言が頂点に達します。
(6-7) 久保田がどんな話をしたのですか?
ー韓国に対する日本の主権放棄を明示したサンフランシスコ条約締結以前に樹立された韓国政府は、不法的存在だ。
ー日本の韓国統治は、韓国にとって有益だった。鉄道施設、港湾建設、資本投資増加等が例だ。
ー日本でなかったら、韓国は中国やロシアが支配していた。その方がもっと悪い状況だ。
ーカイロ宣言で韓国民族が日本統治下で”奴隷状態”としたのは、連合軍が戦時ヒステリー状況(戦争の時期の興奮状態)にあったからです。
ー韓国を統治した米軍政が、日本の財産を韓国に戻したことも国際法違反だ。
ー日本の韓国統治は、韓国にとって有益だった。鉄道施設、港湾建設、資本投資増加等が例だ。
ー日本でなかったら、韓国は中国やロシアが支配していた。その方がもっと悪い状況だ。
ーカイロ宣言で韓国民族が日本統治下で”奴隷状態”としたのは、連合軍が戦時ヒステリー状況(戦争の時期の興奮状態)にあったからです。
ー韓国を統治した米軍政が、日本の財産を韓国に戻したことも国際法違反だ。
その中で、日本の朝鮮に対する植民地支配が朝鮮にとって有益だったという発言は、まさに多大な反発を呼び、結局第3次会談は白紙に戻ってしまいました。
吉田総理が日本が貰うものがあるという、いわゆる逆請求権論理を貫徹しようとした時期の問題でした。
吉田総理が日本が貰うものがあるという、いわゆる逆請求権論理を貫徹しようとした時期の問題でした。
(6-8) 日本ではどうだったんですか?
ー日本の外務省も久保田の発言を擁護し、与党も野党もこれを支持し、メディアも意義を問なえませんでした。日本全体の意識であったのです。
このように、第4次会談は4年後の1958年になってようやく開くことができました。
今、私たちが受けている日本の韓国大法院強制徴用判決否定は、まさにこの考えの延長線上にあるのです。
今、私たちが受けている日本の韓国大法院強制徴用判決否定は、まさにこの考えの延長線上にあるのです。
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