2017年11月4日土曜日

日本政府が核禁止条約禁止に賛成しなかった理由とその歴史的な背景ーー澤野先生との輪読と勉強会より

日本政府が核禁止条約禁止に賛成しなかった理由とその歴史的な背景 http://oklos-che.blogspot.com/2017/11/blog-post_4.html … 大阪で澤野義一先生を囲んでの7回目の輪読と勉強会の報告です。反核、反原発運動に関わる人、団体には必読だと思われ、ここに掲載します。短く体系的な説明ですので、是非、お読み下さい。 今回、日本が核兵器禁止条約に賛成しなかった理由は本当なのでしょうか? 実際のその理由はマスコミでも解明されていません。核兵器の禁止を求める世界の動きと国際条約の内容を明らかにし、その上で日本政府の核政策の歴史と現状がいかに世界の流れとは違うのかを示しながら、具体的なあるべき政策を提示しています。 非核3原則は実は4つの内容(①非核三原則、②日米安保を前提にする米国の「核の傘」への依存、③積極的核廃止提案とは一線を画した核軍縮外交、④原発推進)を含んでおり、核兵器禁止条約と原発禁止条約は本来、ひとつになるべきという、憲法学者としてのまさに正論、直言です。 

          2017年11月4日 


        「平和憲法とこの国の自立を考える」輪読&勉強会 第7回


日時:2017年10月28日 14:00~17:00
場所:大阪南YMCA
講師:澤野義一先生(大阪経済法科大学法学部教授)

1.核兵器禁止条約と日本の核政策(「科学的社会主義」2017年10月号、p6-12)

 (1)核兵器禁止条約の意義
この条約を進めた団体が今年のノーベル平和賞を受賞した。
日本政府はこの条約には全く組みしないという立場をとっている。
   この条約は国連加盟国の約三分の二の122の賛成で採択された。NATO以外、米国の核の傘に入っている国以外はかなり賛成した。非核兵器地帯条約参加国や中立主義国党が賛成した。

日本が賛成しない理由としては、核兵器を全面的に禁止する同条約は核抑止力という考え方を否定しているが、「北朝鮮の重大な脅威に対する解決策を提供せず、核抑止力を必要とする安全保障上の課題にも対処しえない」ということである。その他、核保有国は当然入らない。それから核不拡散条約(NPT)支持国と核兵器禁止条約支持国の分断を招くという批判、あるいは核兵器禁止条約はNPTと矛盾するという理由である。

しかし、これらの批判は本当にそうなのなかというと、NPTは対局にあり意味のあるもので、NPTにも核兵器を全面的に廃止していくんだという精神はあります。その意味ではこの条約とNPTとを矛盾として捉えないことが今回条約をつくった国々の趣旨です。しかし、日本政府等は矛盾する、分断するということで批判している。

この条約の具体的内容は、第一条に、あらゆる核兵器の使用を禁ずるということが書かれています。核の開発、実験、生産、製造、保有、貯蔵、さらに使用および使用の威嚇も禁止するというのが特徴になっていますし、核兵器を外国に移転したり、そのような活動を援助したりすることも禁止ということで、ほぼ全面的に禁止するものです。日本が米国の核の傘に入るという政策を採ることは、この条約で禁止されることになる。この条約の基本的な前提は核抑止力を前提とする安全保障という考えではなく、核兵器が使用された場合にどうなるかという国際人道法の観点からつくられているのが特徴です。


(2)核兵器禁止の国際法的根拠
核兵器を禁止する国際法的根拠にはどのようなものがあるかというと、国際法の中に国際人道法という分野が確立されてきています。戦前は、戦時国際法というのがあり、戦争であっても一定のルールを守ってやりなさい、一定のルールを破ると戦争犯罪になるという国際法がありました。戦後それをより発展させた国際人道法というものに変わっている。

この条約はそれを前提にしていますので、この条約の前文の所で「国際人道法の諸原則および諸規定、特に武力紛争の当事者が戦闘方法および手段を選ぶ権利は無制限ではない」とし、「区別の規則、無差別攻撃の禁止、攻撃の際の均衡性と予防措置の規則、性質上過度の障害または無用な苦痛を与える兵器の使用禁止、および自然環境保護の規則」をあげて、「核兵器のいかなる使用も武力行使に適用される国際法の規定、特に国際人道法の原則の規定に違反する」と述べている。

このような内容を規定している国際人道法は、1977年のジュネーブ条約追加議定書に書かれている。第二次大戦前からも、戦争に関する条約(ハーグ陸戦法規等)の中で、武力行使に関するルールを設けることで一定の人道保護をしていたが、第二次世界大戦後は、より人道保護を図るジュネーブ諸条約が整備された。さらにベトナム戦争の経験を踏まえて被害を受ける民衆の人道保護の強化を図ったのがジュネーブ条約追加議定書(1977年)である。その他、人道法違反を裁く国際刑事裁判所規定(2002年)が制定されている。

戦前から、合法的にできる戦争は兵士と兵士の闘いであって、正規軍が例えば一般民衆を攻撃すると、これはルール違反になる。あるいは病院とか宗教施設とか戦争に関係のない施設を攻撃すると違法になる。この理屈でいえば、戦車が戦車を攻撃する、これは良いが、民間人やその関連施設を攻撃するのは違反になる。それを戦後拡大した。特にベトナム戦争の辺りから戦争で亡くなる戦闘員は5%程度で、90%ぐらいが一般市民で、死亡するという被害が出る。戦争では圧倒的に一般市民の方が死亡するというのが、現代戦争の特徴ですので、戦争の中で人道保護を強化しなければいけないということで、この流れの中で国際人道法が大きくなってきた。その中で核兵器はどうなのかということですが、核兵器の使用は、核兵器禁止条約が指摘するように、戦後の国際人道法に照らせばもちろん違法である。さらに戦前のハーグ陸軍法規等に照らしても違法であったということです。

広島・長崎に原爆を投下したアメリカの行為は、当時の国際法に違反していたと判示した1963年の東京地裁判決(下田判決)で示されている。この判決はあまり知られていないが、日本の裁判所で争ったものです。この裁判では日本やアメリカへの賠償請求は棄却しましたが、判決の中で核兵器の使用は国際法違反であったというかなり注目すべき判断を述べている。

それは核兵器の使用は戦闘員と非戦闘員の区別なく攻撃する、それは無差別攻撃で、占領に対する軍事的に抵抗する意図がなかった広島・長崎の無防備都市を攻撃する無差別攻撃になる。軍事施設であっても、それが戦闘の意思を持って使っていない状態であれば、それは国際法上は無防備都市というふうに言える訳です。そのようなものを攻撃するというのは戦争犯罪になる。無防備都市、軍隊のない都市、軍事的に防衛する意思を欠いている都市を攻撃してはいけないというのは戦前からあります。これを本質的に使った平和運動が無防備平和都市運動です。澤野先生が代表でやっていたことがあります。

それから不必要な苦痛を与える戦闘行為を禁止するのが国際条約です。戦前から毒ガス兵器は禁止されていた訳ですが、勿論原爆の投下は不必要な苦痛を与える兵器ですから国際法違反です。毒ガス兵器が違法であれば、核兵器は勿論違法になります。従って、もっともな判決が出ていた訳です。この判決は世界では非常に注目された判決で世界の学者たちにかなり影響力を及ぼしていた。それから国際司法裁判所の1996年の勧告的意見に反映され、核兵器の使用は一般的には国際法違反との勧告がでた。自衛戦争の場合はどうかなとの留保が付いていますが、一般的には国際法違反とされた。核兵器の使用については国際社会では違法だとされている。難しいのは、核兵器の使用は明らかに違法だと誰でも分かるのですが、保有については、国際法は禁止するのでしょうかということが、はっきりしなかった。今もはっきりしていないのですが、この条約上は保有することも違法と判断した。

これの法的根拠はこの条約では示していない。何故禁止になったのかの理屈がない。澤野先生の考えとして、「要するに、核兵器の保有という核抑止力については、核兵器による戦争計画ないし戦争準備行為だと捉えれば、ドイツの戦争犯罪を裁く法的根拠となった1945年ニュルンベルグ憲章第六条「戦争犯罪」の「平和に対する罪」というのがあって、「平和に対する罪」とは、侵略戦争あるいは国際条約・協定等に違反する戦争の計画、準備、開始、あるいは遂行、またはこれらの各行為のいずれかの達成を目的とする共通の計画あるいは共同謀議への関与である。核兵器の保有は、多数の人間を無差別に殺傷などして「人道に対する罪」を犯すことを計画、準備する違法な行為ではないかと解釈すればこの条約違反ではないかという説明ができる。


(3)日本政府の核政策
日本政府は何故この条約に反対しているのかというと、これは従来の日本政府の核政策が原因です。日本政府の核政策は一般的には、非核三原則がありますが、実はこれが単独で存在しているのではなく、実際には4つの方針があって、その一つが非核三原則です。4つとは、①非核三原則、②日米安保を前提とした米国の「核の傘」への依存、③積極的核廃止提案とは一線を画した核軍縮外交、④核エネルギーの平和利用の名の下での原発推進政策(日米安保と一体になった日米原子力協定が背景)である。従って「非核三原則」は核政策一つにすぎず、他の3方針とは密接なかかわりで運用されているので、「非核三原則」は理念通りには絶対実行できない。この4つの政策は事実上の日本の核政策だということを知らずに「非核三原則」だけをいっているのは大間違いです。

横鼻内閣法制局長官が2016年3月に参議院予算委員会で「防衛するために必要最小限度のものに限られるが、憲法上あらゆる種類の核兵器の使用がおよそ禁止されているとは考えていない」との答弁をした。原子力政策としても核兵器は持てない、原子力基本法は平和利用で作ったもので原発だけを動かし、原発を核武装に使ってはいけないというのが、原子力基本法です。この現実では核武装できないのです。所が、内閣は同年4月1日に「非核三原則を堅持し、原子力基本法やNPTにより一切の核兵器保有はなしえないとしながらも、「純法理的な問題として、憲法9条は一切の核兵器の保有や使用をおよそ禁止しているわけではない」と正式に述べました。

これは憲法9条に関する政府の新たな解釈改憲で、集団的自衛権行使を容認・合憲とした閣議決定に続く重大な問題である。これまでは核兵器保有について、自衛権の範囲内であれば合憲との見解が岸内閣の国会答弁以来、事実上政府見解となっていたが、核兵器使用の合憲論については政府見解といえるようなものはなかった。ただ、大森内閣法制局長官は、1998年参議院予算委員会で「核兵器の使用も我が国を防衛するために必要最小限度のものにとどまるならばそれも可能であるということに論理的になろうかと考えます」と述べている。

次に安倍首相ですが、内閣官房副長官時代の2002年5月13日に、「日本は非核三原則がありますからやりませんけれども、戦術核を使うということは1980年の岸総理答弁で違憲でないとされている」と述べており、総理になったので、いよいよ政府見解に持ち上げたということです。政府見解は核兵器の保有も使用も憲法上問題ないと公式見解を述べている以上、この核兵器禁止条約にはとても入ることができないのは当然です。

では何故、核兵器を持たないと言いながら憲法で持てることをあえて強調するのだろうか。それは今北朝鮮の核開発等を考慮して、いざという場合は、核兵器を使用できるんですよといういわゆる核抑止を残しておこうと、いざという場合には、今回の新安保法制の体系の下で戦術核ぐらいであったら、先制的に使いますよという理屈だと思います。


(4)日本の平和憲法と非核政策の課題
世界の憲法では通常の軍事力の保有は容認されているが、パラオ、フィリピン、オーストリア、カンボジア、トルクメニスタンでは核兵器の保有を禁止した憲法が登場しています。日本憲法では軍隊を持たないと書いていますが、核兵器を禁止するとは明言していません。だから政府のいうような解釈が出てくるということになるのですが、そんな解釈ができるのですかといことになると、これはちょっと無理があるではないですか。

第一に、そもそも憲法9条ができた理由は、原発を投下されたことを背景にして幣原首相もマッカーサーも言っていますように、核による戦争が可能になった時代においては一切の軍備が不要になるといっていることがあります。従って9条というのは、核時代を見据えた非武装の立憲的平和主義憲法である。

第二に、9条は一切の戦争と武力行使の禁止、威嚇も禁止していますので戦力不保持の中に核戦力も規定している。

第三に、核被曝させられない権利は、恐怖と欠乏から免れて平和に生きる権利(平和的生存権)、生命権,生存権、将来の国民にとっても侵されない権利、環境権で保護される。

第四に、核兵器使用を違法とすることは国際法で確認されていて、この国際法を憲法98条により政府は誠実に遵守する義務がある。
以上の観点からいうと憲法上は核兵器について明記はしていないけれど解釈上は許されないであろう。

そうするとどのような核政策をとるべきかというと、①非核三原則を完全な法制化する。②非核自治体宣言を実効化する。非核平和都市宣言がなされているが、それを法的拘束力を持つ条例に高めること。③北東アジア非核地帯設置を進める。世界的にはラテンアメリカ、南太平洋、アフリカ、中央アジア、東南アジアには「非核地帯条約」があるが、北東アジアにはない。④原発推進政策からの脱却。日本の原発推進政策の一つは核武装を潜在的に可能にするということが政府の中で言われている。ここの問題もはっきりさせる必要がある。

核兵器禁止条約の成立を積極的に推し進めたのは,永世中立国のオーストリアで、ここは非核化憲法で、核兵器を憲法で持たないことと、原発を持つことも憲法で禁止するということで、一貫した非核憲法をつくっていて今回も中心的に働いた。

核兵器禁止条約はNPTと矛盾しないように、核の平和利用、原発についてはノーコメントです。従って、澤野先生は、核兵器禁止条約と原発禁止条約と本来は一緒にならないといけないのですが、これはかなり将来的な課題になるものであるとか考えている。


2.「脱原発と平和の憲法理論」
 第2章 原発に関する生命権的人格権論の意義と検討課題
        - 大飯原発・福井地裁判決に関連して -


 Ⅱ 原発と生命権的人格論 - 大飯原発・福井地裁は判決の意義
  6 その他の論点
    この福井判決のキーワードは生命権的人格権です。これまでの人格権は、名誉棄損とか、そのようなレベルで使われてきた概念だったのですが、この福井地裁はこの人格権というその根底に人間の生命とか生存を置いて人格権を位置付けたことが、興味深く大きな特徴です。それが原発を差止める根拠になっている。原発のメリットを挙げる主張がありますが、そのような論は生命権的人格権と並べて論ずることは許されないと述べているのは非常に新鮮である。

この判決では、環境権論については極めて消極的で、原告の方は公害問題とか原発被害によって環境破壊という面もあるが、環境権侵害の主張については取り上げない。そのような権利ははっきりしてないとして退けているので、理論的に言うと少し限界があると思う。


  7 小括


 Ⅲ 生命権的人格権に関する先例
   福井の判決は新聞でも非常にユニークで、良い意味でのショッキングな判決であると報じられた。この判決の先例にどのような判決があったのかという事を調べた。


  1 大坂国際空港訴訟控訴審判決(昭和50.11.27)
    大阪国際空港訴訟審判決では、人格権を根拠に深夜から早朝の航空機の離着陸を差止めている。ここでは、「個人の生命、身体、精神および生活に関する利益の総体」を人格権と称している。この点は、福井判決と似ている。この判決では、生命、身体、精神、生活などは全て並列に並んでおり、これ全部が人格権だといういいかたをしています。一方、福井の判決はこの中の特に生命権を、人権の根底にある、人間の存在そのもの中核に位置付けている。


2 女川原発仙台地裁判決(平成6.1.3)

3 志賀原発2号訴訟金沢地裁判決(平成18.3.24)
  福井判決は、裁判官の独自性は出ていますが、全てがそうではなく既に前例があり、直接には金沢地裁判決(福島事故以前に差止め請求を許容した民事裁判では唯一のもの)である。金沢判決以前になると原発判決ではないが、大阪国際空港訴訟控訴審判決を踏まえている。これは騒音公害を差止める根拠として人格権論が展開されている。それが原発関連では金沢地裁の方に繋がっていて、さらに福井判決ではより憲法論な人権、人格権、生存権に展開されている。
  4 小括


 Ⅳ 生命権的人格権の検討課題(その1)
   -生命権論および平和的生存権論との関連でー
  1 原発問題における生命権的人格権の問題
  福井地裁判決は人格権を根拠にし、特に生命権を重視する人権論の観点から原発の差止めを認めた。所が、人格権の概念はどのようなものかという、根本的な問題が別個にあります。この概念は多様に使われており、この概念を全面に押し出すよりも、環境権とか生命権とか、そちらの方を突き詰めた方が良いのではないかという意見が、数は少ないのですが、重視している学者がいる。基本的人権というのは歴史的にどのように発展してきたかというと経緯があります。

 近代憲法が現代憲法に発展する中で人権の概念が変わってきた。もともとは非常に狭い自由権、権力から自由、精神的に自由、経済的に自由であるとかが中心で、民主主義になると社会権というように次から次へと広がっている。さらに、今日おいてはより根本的な平和に生きる権利、平和的生存とか、あるいは生命そのものに着目して、基本的人権の全体系をどのように再構成したらよいかという大きな課題がある。そういう中で今回の福井地裁判決が折角言ってくれた生命的なものを、どうやって裁判的に説得力を持たせることを課題にする方がいいのではと思う。
  
環境権という概念は、福井地裁判決でも使おうとしない。何故なんだろうかという問題があるのですが、公害とか原発に関する被害を考える場合には、今生きている国民の権利だけでなく、将来の国民の権利を考える必要があり、日本国憲法97条には「現在及び将来の国民」の権利保障という言葉がある。将来世代にも及ぶ権利保護という条文を使う事は、原発被害というのは長期の将来にも影響を及ぼすからである。これまでの環境権とは現在か近い未来の公害を差止めるという使い方をしているが、原発被害は何万年先まで及ぶというものに人権の根拠として97条は使える。世界にある憲法の中で、「現在及び将来性大の国民の権利保障」という言い方をしているのは珍しい。このことを根拠にして全面に押し出して考えるべきではないか。


  2 生命権的人格権論と生命権論

  3 生命権的人格権と平和的生存権論
    福井地裁判決は興味深いことを言っている。原発事故と並んで、戦争も人権侵害になるということをかなり根本的に言及している。これをさらに突き詰めると、人格権の根本に平和に生きる権利というものも想定出来ます。このことに言及しているは名古屋高裁のイラク派兵差止め請求事件で、名古屋高裁の判決は人権の根本に、まともに生きる権利を人格権と合わせて論じています。原発と戦争の被害というものを両方福井地裁判決は一応言っている訳です。ここの所をもう少し理論的に深めていくことは意義がある。


 Ⅴ 生命権的人格権の検討課題(その2)
   憲法論的には、福井地裁判決には、原発について、「その存在自体が憲法上容認できないというのが極論にすぎないとしても」の表現が入っている。この表現に注目して分析した学者はいない。この裁判官は原発違憲論ではない。その証拠としては別の仮処分判決で4つの条件を満たせば原発の安全性を認めていいと言っている。

澤野先生の場合は原発違憲論なので、条件などは要らない。福井地裁判決は人権論的を根拠にしている。平和的生存権論的な所まで言っているのだから、それを発展させれば憲法9条論との関わりの所まで展開した方が良いのではないか。それから原発と核兵器の問題、戦争の問題まで議論を発展させてはどうかということです。

以上

文責 井上

              

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