2017年6月27日火曜日

その後のママに乾杯!

先日、私はブログで自分のおふくろのことを書きました。多くの感嘆の声がありました。
90歳のママに乾杯! http://oklos-che.blogspot.jp/2017/05/90.html
その後日談になります。

大阪に住むお袋と昨夜、むかしばなしをしました。忘れているのか、話したくない話題もあったのでしょうが、私の知らないことも多くありました。
昭和20年の12月に私を産んだとき、お袋はまだ20歳でした。長堀で靴職人を雇い親父はそれを売り歩いていたそうです。それから数年後(そこから私の記憶が蘇ります)、難波で親父のコネでインドネシア人を雇い、インドカレーを小さなカウンターで始め、店は当たったらしく、すぐに戎橋通りに近い数軒先で3階建ての家を買い、1、2階をインドカレー専門店としたそうです。


私は精華幼稚園、精華小学校に通っていたのですが、確か、小学校の4、5年生の時に急に、心斎橋の角地に移りました。150坪以上ある大きな2階建てを買ったらしく、一階でインドカレーの店を洋食店にして、2階はジャズライブの店(サイトハウスー私たちの日本名は斎藤でした)にしたのですが、それらを取り仕切ったのは自分だとお袋は話してました。
しかし5年後、地主であった吉本興業と裁判沙汰になり心斎橋を出ることになります。高い値段で吉本興業に売り、お袋は家を出ること(前から考えていた離婚をすること)を決意し、実行しました。その時、33歳だったそうです。そうすると、20代後半から、大阪の超一等地で、店をやっていたということになります。ウム。
本人は人に恵まれたと言いながら、ようやってきたわ、と言ってました。美人で小柄の20代の在日の女性がそのようなことをやってきたとは、今更ながら、驚きです。そうして晩年、帰化して日本人と再婚したお袋は、「自分が捨てた」二人の息子から慕われているのです。
息子がこんなにしてくれへんかったら、ようやってきたけど、寂しかったやろなと、ポツンと一言。私はいたたまれず、9時でしたが、もう寝るわ、と言って別の部屋に行きました。

今回もいろんな人から反応がありました。ご紹介します。
KC:いい話ですね。納得が行くほど親孝行してください。私も親孝行頑張るぞ!
SS: 人に歴史あり ですね。
SI:勝久さんを育てられたお母様はそれなりの生活されてたようですが、お母様は何故離婚され帰化され再婚されたのでしょうか?(言いづらければ無視していいです。気になったものですから・・・・)
Seungkoo Choi:ごめんなさい 、その質問は無視します。横浜国大で私のライフヒストリーを10回にわたって話す機会があり、その時には話します。
IH:有意義な話しですね。
UK:お母さんhご苦労をされたのでしょうね。想像できます。それにしても捨てられた息子たちも立派です。
TM:まるで梁石日の小説みたいな話があちこちにあったのですね。
HH:時代の推移、心に染みます
Seungkoo Choi:HHさん、おかわりありませんか。大阪に来ています。HHさんであれば、あの時代、何百席も入るライブハウスを20代の在日女性が経営していたというのはいかにおどろくべきことか、ご理解されるとおもいます。今更ながら、すごいなと思っています。
HM:Seungkoo Choiの人生の少しを見せて戴きました。今後も真剣に前向きに生きて下さい!
MS: 読みながら、自分の話を聞てるよな気がする。私も20代で日本に来てから34年たちます。色々な事を人生におきます。商売知らない、私がインド料理の店やてから30年。学生だった夫を支えるために出来たこの店は今日本人、外国人の交流の場所になってるのは嬉しですが、夫がうんを仇で返して、他の女性と。。。でもその夫の親は自分の親になり、子供二人もさずけ、おおくの人に恵まれ、夫の裏切りに感謝。

次の朝、私は精華小学校の同窓会に出るために早めに母の家をでました。自分が住んでいた、戎橋筋の家や、心斎橋の家があったところをもう一度自分の目で見たかったからです。
             元の場所から難波方面に向けて取った写真です
                  この戎橋を渡ったすぐ角のビル(薄い青色)が私たちが住んでいたところです
難波の高島屋がすぐ目の前にありました。精華小学校の正門は閉じられ、反対外に回ってみると、校舎は完全に更地になっていました。私の出た南中学も心斎橋のアメリカ村のところですが、校舎の面影はまったくありません。

難波に着きました。写真は、戎橋筋に面した精華小学校の正門(校庭は取り壊されていました)、それと私たちが住んでいた心斎橋の角地です。戎橋を渡った角地で、写真では薄いブルーのビルに見えます。
まもなく、精華小学校の同窓会です。「大大阪の中心地、商店街に店しめて・・・」、だれも校歌は歌わないでしょうね。商売人の子弟が多く、朝飯がありました。こんな狭いところに、高島屋がすぐ目の前にあるところにあったんですね。小学校を卒業して60年、名前と顔が一致するでしょうか。ああ、楽しみです。

大阪の精華小学校の同窓会
卒業して60年になります。私は大学から関東に来てみんなと会う機会がなかったのですが、楽しい再会でした。

来年はホテルではなく、千日前の「はつせ」でやります。昔は大きなうどんのどんぶりで有名でした。今は、若い人向けのお好み焼きとか手広くやっているそうです。もちろん、二次会は、「たみちゃん」のお店(小さなカンターのバー)でやります。すだれの国宝級の名人や、医者、質屋さん(元レスリングのオリンピック選手・相撲では私のライバルでした!)、床屋さん、エンジニアー(小学校のときからまったく変わらず)、ああ、楽しいな!みんなそれぞれ病気をしたり、会社員であったり、経営者であったりで、人生、家庭の浮き沈みを乗り越えてきたのでしょう。病気で死んだ友人もいますが、とにもかくにも、みんな元気であえてよかった!

酒が入るにつれ、もう60年前に戻っていました。たわいもない、相撲をした話や、卓球をした話しがでてきました。昔付き合っていた女性の話になると、少し、胸キュンですね。今でも。

どうしてそんな話になったのかわかりませんが、「斎藤くん(私の日本名)のおかあさん、きれいな人やったな」と友達が言い出しました。そうやったな、という声が流れ、私は笑いをこらえていました。

90歳になったおふくろに私はどんな親孝行ができるのか、本人は何もいいませんが、私がそこにいるだけでいいわと言ってます。


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