2015年5月17日日曜日

河合弁護士の批判(「週刊 金曜日」)に応えるー(1)拝啓、河合弁護士殿

日本の司法は本当に独立しているのか?

「週刊 金曜日」(5/15 1039号)に河合弁護士が「日米原子力協定を破棄しなくても 原発メーカーの責任は問える」という論文を書いています。訴訟の会のメンバーからのML投稿でわかりました。その中で、確かに、「メーカー訴訟の原告のごく一部の人々(サム・カンノ氏ー米国在住の運動家ーなど。前事務局長・崔勝久氏も同旨か)が「日米原子力協定を破棄しないと原発メーカーの責任は追求はできない」という主張をし、波紋を呼んでいる。」とあり、光栄なことです。

しかし河合さん、私は一度も、「日米原子力協定を破棄しないと原発メーカーの責任は追求はできない」という主張をしたことがありません。どこで私のそのような意見をよまれたのでしょうか?そもそも矢部さん、Samさんと私をひと束にして捉えて批判することに無理があります。3人に共通するのは、河合さんの唱える、司法は司法として独立しているかのような主張に対する批判でしょう。

私の考えでは、「日米原子力協定を破棄しなくても 原発メーカーの責任は問える」というのはあまりに当たり前のことだと思います。日米原子力協定の内容は裁判の中身に関係することは間違いないのですが、そもそも協定を破棄しないと原発メーカーの責任を問えないと極端なことを言っている人はいるんでしょうか?それは位相の違う問題を一緒にからめた、おかしな問題設定ですね。だから河合さんの論文のタイトルの付け方も随分と挑戦的で、私は違和感を感じます。

そもそも「世界」5月号においても河合さんは、矢部さんの司法界において統治行為論説を是認する人がいるとの指摘にたいして、それは「ひとつの手法」(行政の裁量を尊重し、それが明らかに裁量の幅を逸脱する場合に違法とする)にすぎない(ただし、この手法こそは原発差止め訴訟での原告敗訴の元凶であり、容認できないのだが)」と統治行為論を否定しているのか肯定しているのかわからない説明をしています。その混乱と弁解的な説明はポイントを小さくした文字の使用(挿入)でわかります(157ページ)。

砂川判決を持ち出すまでもなく日本の裁判は、「行政判断尊重論」に傾きすぎるくらいに傾いていることは、常識です。また河合さんが「世界」で矢部批判として展開している日米原子力協定の説明にも、今回の週刊金曜日においても、68年度に改定された日米原子力協定の第5条には触れていません。河合さんは吉井さんの国会質問とその答弁を正確に読んでいらっしゃいますか。
6月13日(土)にその吉井さんを及びして大阪で学習会をもちます。弁護団からどなたか出席されませんか。http://oklos-che.blogspot.jp/2015/05/blog-post_15.html


日米原子力協定(1968)は第5条と「合意された議事録」が重要

第5条
この協定又は旧協定に基づいて両当事国政府の間で交換され又は移転された情報(設計図及び仕様書を含む)並びに資材、設置及び装置の使用又は応用は、これらを受領する当事国政府の責任においてされるものとし、他方の当事国政府は、その情報が正確であること又は完全であることを保証せず、その情報、資材、設備及び装置がいずれか特定の使用又は応用に適合することは保障しない。

参考資料
2015年2月16日月曜日
GEの原子炉に、製造物責任があることを日本の外務省が認めていた?!
http://oklos-che.blogspot.jp/2015/02/ge.html

河合さんの日米原子力協定の解説は88年に改訂されたものを対象にしていますが、68年の条約からは、「(日米原子力協定は)民間会社である東芝等の原子力発電メーカーの免責に関するものでもない。メーカーの責任とは無関係」と言えないことは明らかです。問題にすべきはここでは、東芝でなく、アメリカのGEです。88年に改定された条約の「核物質などの移転に関する」第4条をとりあげてそれが原子力協定のすべてであるかのような表現は問題があります。むしろ、88年度の改訂以前は、アメリカの「免責」を謳っていたが、88年度以降はその「免責」条項がなくっているというところに注目するべきだと考えます。

2011年5月27日、衆院経済産業委員会において外務省の武藤義哉官房審議官は「現在の日米原子力協定では旧協定の免責規定は継続されていない」との答弁を行い、協定上は責任を問う事が可能であると受け取れる大変重要な見解を示していますその答弁の骨子と考えられる内容が1988年の日米原子力協定で締結された本文ではない、「合意された議事録」の末尾に記載されています。河合さんの日米原子力協定の解説にはこの「合意された議事録」には触れておられません。


88年の日米原子力協定の改訂までは米企業はこの規定に守られていた、あるいはこの規定に影響された国内法の原賠法によってPL法は適応されないと明記されたのではないのでしょうか。

また河合さんは、「週刊金曜日」で「原賠法の無効を主張すれば足りる」という小見出しで(45ページ)、原発メーカーの免責制度は「国家間の条約という形式においてではなく、各国に・・・国内法を作らせるという形式においてであった」と書かれていますが、そうではないでしょう。

上記の日米原子力協定第5条と、「合意された議事録」(この協定は、昭和43年に署名された米国との原子力の非軍事的利用協力協定(昭和43年2国間条約及び・条約第1780号参照)を終了させ、日米間の原子力協力のために新しい枠組みを提供し、我が国にとり必要不可欠な長期的に安定した米国との協力を確保するため新たに作成されたのである)をよく読まれていますか。88年の改訂まではこの条約によってアメリカ企業の「免責」が条約上、保証されていたのではないのですか。

原賠法の集中原則は機構法で骨抜き

また河合さんは続いて、「それ(英米から日本に押し付けられたメーカーの免責)と戦うには国内法である原賠法の無効を主張すれば足りる。もちろん立法経緯や米国の国際原子力政策を背景として批判的に論する必要はある。現にメーカー訴訟の訴状はそのような一貫として日米原子力協定に言及している」と記しています。それは訴状の第7章 第2のところをおっしゃているのでしょうが、「訴状に言及している」というには訴状の内容はあまりに貧弱です。NPT体制にも一切ふれらていません。

そもそもこの訴状をまとめた責任者である共同代表の島弁護士は、NPT体制や植民地主義のような左翼用語を使うと若い人は運動から離れて行くと話していた人です。彼はこれらの用語を使って日本の戦後史の実態を在日の立場から話していた私を、「裁判を利用して民族運動をやろうとしている」という理由で事務局長の辞任を求めて混乱の発端をつくったのです。河合さんはいかがなのでしょうか、その点は。NPT体制や植民地主義の問題を語らず、国際連帯運動はできませんし、それはアジアでは普通名詞ですよ。

参考資料:崔勝久「原発体制と多文化共生について」(『戦後史再考』平凡社 2014)

「原賠法の無効を主張すれば足りる(崔:原子力事業者の責任集中原則を無効にしメーカーにも責任を負わせる、という意味か)」とありますが、これは私たちの学習会で明らかになってきたように、原賠法の責任集中原則は、東電が破産せず国に支援を求めた時に作られた2011年の機構法(原子力損害賠償支援機構法)によってすでに崩壊しています。私たちは訴状でどうしてそのことが触れられていないのかわかりません。

原発問題の本質を衝く熊本さんとの学習会で学んだこと
http://oklos-che.blogspot.jp/2015/05/ymca-httpoklos-che.html

原告と弁護団は協力し合うべき

ここで触れたことだけでも原告と弁護団はお互の得た知識と情報から、メーカー訴訟をどのように進めていくのかを話し合いながら進めるべきであるということに河合弁護士も同意されると思います。裁判は法定代理人の専門的な立場から弁護団が主導し、裁判を始めた当事者である原告は自分たちの「主導」に従うべきで、それに従わない原告は排除する(委任契約を解除する)と弁護団が公言されることは、「美しい倫理観」を強調する河合弁護士の立場と異なると思わざるをえません。

私は5月14日のFBでこのように記しています。
昨年の3月10日に福島事故をおこした原発メーカーを被告とする訴訟のユニークな点を3点,あげます。
1.原発メーカーの責任を問う裁判は世界で初めて。
2.原告4000名のうち、世界39ヶ国、2000名を超す外国人が原告になったのは日本の裁判史上初めて。
3.法定代理人として原告から選定された弁護士が、逆に原告を「排除」する代理人辞任(委任契約の解除)をすると公言しているのは、これまた日本の裁判史上初めて。

弁護団はその日本初の暴挙を敢行するのか、理性的な判断に基づき、原告団と弁護団が裁判の進め方について協議しながら歩もうとするのか、その最終決定する時期が近づいています。

河合弁護士への具体的な提案

単刀直入に河合さんに申し上げます。「脱原発の戦いは正確な法的知識と正しい科学的認識と美しい倫理観に基づいて行わなければ勝利することができないのである。」おっしゃる通りです。また。2月4日の弁護団主催の「訴状学習会」の席で河合さんは、大声で、「小異を捨てて大同に就く」べきだとおっしゃていますね。意味深長な言葉だと思います。当初誤解しましたが、河合さんの
その言葉は、単純に弁護団を批判する訴訟の会のメンバーに向けられたものでなく、弁護団や弁護団を支持する原告にも向けられた言葉ではないかと思うようになりました。

6月3日に第一回目の原告と被告、裁判所の話し合いがあり、口頭弁論の日にちや裁判の進め方などが話されるそうです。ところが驚くべきことに、原告側の枠6名のうち、全員が弁護士(現在、22名の弁護団の内、訴訟代理人は島弁護士一人で、他の弁護士は河合さんも含めて全員辞任されて、島弁護士の復代理人になっています)、原告の出席要望を断ったそうです。島弁護士、2名の復代理人、訴訟の会事務局2名、弁護団傘下の原告から1名でいいようにおもうのですが、こういうことも一切話し合いがなく、一方的な弁護団からの通告だけです。

小異を捨てて大同に就く」べきと話される河合さんのことです。以下の私の提案は十二分に理解されると思います。1年半にわたった訴訟の会の混乱を解決すべく、私は弁護士職務基本規程第三十条1項 弁護士は、事件を受任するに当たり、弁護士報酬に関する事項を含む委任契約書を作成しなければならない、に基づく島弁護士と私の正式の委任契約を締結すればどうかということを考えて、訴訟の会のMLで会員の意見を聞いているところです。

現在私たちの契約は口頭による契約だけです。裁判所に提出した訴状委任状は、原告がどこどこの弁護士を訴訟代理人と選任し、なになにの権限を授与したという裁判所への報告であり、弁護士会が強く「委任契約書を作成しなければならない」と謳うような、弁護士と原告の間のあらゆる条件を明記した委任契約ではありません。

私が提案する委任契約の内容は以下のようなものです(試案)。
弁護士と私の(弁護団と原告団との意味)委任契約締結について
①訴訟代理人は原告の裁判に対する意向を尊重し、裁判の進行においてその方針をめぐり絶えず原告と協議する。弁護団と原告と定期的な話し合いの場を設定することに合意する。
②訴訟代理人は原告に対して裁判を進めるにあたっての助言をする。但し、原告集団「訴訟の会」の人事や運動方針については介入しない。
③訴訟代理人は原告の原発メーカー訴訟の意義を全世界に広め、世界的な反原発運動のネットワークづくりについては、全面的に協力する。
④報酬に関しては、弁護団から無料であること、謝礼を受け取らないとの申し入れがありそれに従う。ただし弁護士活動に必要な経費や、原告(集団)の要請による活動に参加する費用に関しては支払う。
⑤高裁、最高裁での訴訟代理人の報酬については別途協議する。

弁護団が原告との委任契約を解除したとの報告書を裁判所に出した時点で、多くの原告は、自分たちが選任した弁護士が逆に正当な理由なく原告を排除したということで、原告の当然の権利として、弁護団を解任するでしょう。

河合さんはもっと弁護士をリスペクトせよとおっしゃいました。その通りです。それはまた同時に、もっと裁判を起こした原告をリスペクトせよという言葉として弁護団にも向けられたことばであったように思います。

以下、資料として週刊 金曜日に投稿された河合さんの原稿を掲載いたします。この拙文に関しては訴訟の会の皆さん、及びFBやツィターの読者のご意見を伺い、 週刊金曜日に投稿いたします。


2 件のコメント:

  1. 「河合による『日米原子力協定』の検討は1988年のものについてです。崔さんの第5条の文面は68年版のものです。」という指摘がありました。確認します。5月18日

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  2. そもそも「実力派」弁護士という見出しから記事の趣旨が透けて見えます。この国のジャーナリズムの「もっともリベラル」な媒体が週刊金曜日(そして岩波書店)では、話になりません。はっきり言ってこの弁護士では、勝てないのは明白でしょう。とても難しいことですが、カネや名誉がからんでいない気鋭の法学研究者を探したほうがいいと思います。憲法9条を守る運動とも関係しますし、平和問題と関係させなければ原発の問題は、けっして終わらないでしょう。「実力派弁護士」がいうように「正確な法的知識と正しい科学的認識と美しい倫理観」が通用するなら、今のような日本や世界の不条理に満ちた世界にならないでしょう(ただの文学的センチメンタルと実力派弁護士からは、批判されるでしょうが)。原発を止めるのは一般民衆の心だと思います。原発再稼働を「司法が止めた」などというのは裁判を宣伝の場としかとらえない、「実力派弁護士」の思い上がりにすぎません。(ちなみに島弁護士の「民族運動うんぬん」という発言は、名誉毀損にあたらないとしても、明確な差別主義者であることがわかります。「サヨク用語」がお嫌いな理由も、推察できます)。

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