2015年2月11日水曜日

『日米原子力協定』を不問に付す河合弁護士の発言に対する批判ーSam Kanno                                 

2月4日に第2回訴状学習会が行われました。

内容は「原発メーカー訴訟原告団・弁護団公式サイト」によると以下のようです。
 講演 「人格権とノーニュークス権」 (笠原一浩弁護士)
 笠原一浩弁護士により準備されたプレゼンテーション用ファイル(PDF)
 http://nonukesrights.holy.jp/pdf/nonukesrights_kasahara_02042015.pdf

 パネルディスカッション「脱原発訴訟について」 (河合弘之弁護士、笠原一浩弁護士、木村結さ ん(東電株主代表訴訟))+ 籠橋隆明弁護士(環境法律家連盟代表)
 http://nonukesrights.holy.jp/sojo_gakushukai.html

1.Sam Kannoさんについて
学習会に参加した米国在住のSam Kannoさんの意見がML上で公開されています。本人の承諾を得て私のブログで公開させていただきます。ML上ではアメリカから発信される彼の鋭い分析を読み、多くの人が「そうだったのか、よくわかった」と言う人が増えています。原告でもサポーターでもない外部の人がSam Kannoさんと吾郷健二さんの論文を読み訴訟の会に「混乱」に対する意見を書かれています。
 ブログ「みずき」、http://mizukith.blog91.fc2.com/

福岡では2月1日にイ・ジンソプさんの講演の後、Sam Kannoさんを囲んでの話し合いの場が設定されました。東京では23日の月曜日6時半からたんぽぽ舎で学習会と今後の訴訟の会のあり方をめぐってのSamさんの問題提起を受け、参加者で話し合いをする場がもたれます。

2.訴状学習会の背景について
2月4日の訴状学習会とはどのようなものなのか、再度、確認したうえでSam Kannoさんの論文をお読みください。4000名の原告を内外から集め、サポーター会員を含めた形で訴訟の会は運営されていましたが、島弁護士による訴訟の会事務局長解任の話しが出て訴訟の会の内部での「混乱」が生じて以来、島弁護士を支持する一部の原告は、訴訟の会の使命は原告を集めることで終わり、原告が確定してからは、訴訟の会を「止揚」した新たに原告団の結成が提唱されるようになりました(makersosho:4295] 「訴訟の会」を退会し、原告団を作りましょう)。仙台のグループも当初そのような主張をしていましたが、現在、その島弁護士事務所を拠点とする原告団に参加しているのかどうかは不明です。

原告団の規約を作らないで、サポーターを対象にせず(海外の原告に対してはどのように対応するのかは言及がありません)、自分たちが訴訟の会を「止揚」して原告団を作るという構想は、島弁護団長の唱える訴訟の会の位置づけとは異なります(河合弁護団共同代表の見解は不明です)。島弁護士によると弁護団は4000人の原告の訴訟代理人であって、その原告の中でいくつものグループがあることを認めるようになっています。そのため、島弁護士は訴訟の会の総会時に原発メーカー訴訟弁護団共同代表の島昭宏の名前で以下のメッセージを送ってくれました。

その中でも、国際連帯、差別撤廃を強く訴える「訴訟の会」のみなさんは、原告団の重要な一翼を担いうるグループだと信じています。弁護団を代表して、みなさんのご活動、そして弁護団との信頼関係の強化に、改めて強く期待致します。 

従って現在約内外4000名の原告及びサポーターのうち、内外600名を超える人たちが1月31日のネット選挙(一部郵送あり)に参加し、圧倒的多数で新たなマニフェストを掲げる新役員が選出されました。副会長の岡田さん、新事務局長の朴さんと総務の八木沼さんを中心としたメンバーが総会後、島弁護士の事務所を訪れ、今後、しっかりと話しあいを進めることに合意したという報告が朴事務局長からからなされています。それは4000名の原告のうち、圧倒的な多数は「原発メーカー訴訟の会」に属しているということを意味します。それらの原告の存在とそのメンバーの意志を無視しては、もはや弁護団と原告との対話は非常に限られたものになるという現実的な判断を島弁護団共同代表はしたものと思われます。ましてや訴訟の会の「止揚」(=実質的な解体)はありえず、新たに作られた数十名の原告団も訴訟の会との話し合いは不可避だと思われます。

3.河合弁護士の発言について
2013年7月12日の記者会見の場で河合弁護士はこのようなことを話されています。
この裁判は国際的な連帯が可能です。福島の住民だけが原告になるような訴訟ではどうしても国内的な運動にならざるをえない。東京電力だけの責任を問う闘いはどうしても、世界的な反原発運動として展開するのに限界があります。この裁判闘争を続けながら、メーカーの免責をなしにしていく有力な手段になりえます。原発輸出を止めさせるには、大変、有効な方法だと思います。
2013年7月12日金曜日
「原発モンスター訴訟」はメーカーの責任を問う最も有効な方法ー河合弁護士
http://oklos-che.blogspot.jp/2013/07/blog-post_12.html

しかし河合弁護士は具体的な理由を一切あげず、崔勝久の原告代理人を辞任し本人訴訟に追い込むことを公言しています。上記記者会見の中味からすれば、少なくとも世界40ヶ国から4000名の原告を集めるのに貢献した元事務局長の私との対話を一切しないところで、何ら具体的な理由なしに訴訟の会の分裂をさせようとす発言は、朴事務局長が指摘しているように、「小異を捨てて大同につく」と言う河合弁護士の発言とは矛盾しています。

4.原告の受けた精神的ショックの中味は何か?
Sam Kannoさんはしかしながら、弁護士の理不尽な主張と要求への批判に留まらず、河合弁護士が訴状学習会で発言した内容は、メーカー訴訟の根幹にかかわるという鋭い指摘をしています。その問題は、原告に何の報告、協議なく裁判所に訴状を提出するという、集団訴訟においてはありえないことやり方から出発した本訴訟の、訴状の内容はこれでいいのかという問題提起に至るものと思われます。即ち、精神的なショックを受けたのは原発事故という一点なのか(それであれば、事故を起こしたGEのマーク1型を改良した、より安全な原子炉であれば問題はないという結論に導かれます)、原発の存在そのものに根本的な問題があるのではないか、即ち、メーカー責任は地域住民に多大な危害を与え続けていること、自然を汚染し続けている問題などが事故から1年経った時点では可視化されていました。

さらに河合弁護士と島弁護士の間では原賠法の位置づけが異なるようですが、原発事故の免責を明記した原賠法は日本だけでなく、世界各地で制定され、さらにそれをいいことに原発輸出を謀るということにも私たちは驚き、精神的ショックを受けました。政府が外交努力で下ならしをしたとは言え、日本のメーカーは3・11以降も積極的に原発輸出をしてきたのです。私たちは精神的ショックということでは、裁判でその点にも触れる必要があり、さらにそれは日米原子力協定と関係するという原告主張を法廷代理人である弁護士は受け入れるべきです。すくなくとも訴状の内容を訴訟の会の原告と話し合うべきです。

原告の主張を受け入れたくなくとも、弁護団は原告としっかりと話し合うべきです。自分達と意見の違いがあるからと言って原告の代理人を辞任し、弁護団のやりたいようにするということは許されません。以前弁護団が4000人の原告の内、私一人を「はずす」理由としたことはすべからず真実でなかったということは明らかにされています。従って私を4000人の原告から外すというのは、訴訟のあり方に関して私の主張を弁護団は受け入れられないと判断したからだと思われます。

 弁護団がメーカー訴訟の提起者を原告団から「追放」する真の理由は何か(その2)
 http://oklos-che.blogspot.jp/2014/12/blog-post_19.html

 弁護団回答のうそと二枚舌[makersosho:4079]
 みなさんに訴えます。弁護団の嘘とでっち上げでぬりかためた文書に騙されないでください
  [makersosho: 4066] http://oklos-che.blogspot.jp/2014/12/blog-post_12.html

しかるに弁護団が訴訟の会との話し合いに応じず、100名を超える原告の「弁護士の代理人辞任の撤廃要求」を完全に無視するのは何故でしょうか。Sam Kannoさんの論文はその背景を明らかにしてくれています。


2・4「原発メーカー訴訟」の第2回「訴状」学習会(弁護団主催)に参加して
                                                                                Sam Kanno


 私、米国在住原告のSam Kannoは第1回「訴状」学習会はネット上で拝見させてもらい、今回は会場の「たんぽぽ舎」で生参加させてもらいました。「お前はしゃべりすぎだ」との「非難」を浴びましたが、「訴状」学習会にふさわしい有意義な問題提起が出来たと思っています。相手をして頂いた皆さん、ありがとうございました。

 『日米原子力協定』を不問に付す、河合弁護士の驚くべき発言!
 しかし「原発メーカー訴訟弁護団」共同代表として挨拶もされた河合弁護士による、私の質問に対する答えとして話された「原発の責任集中制=原発メーカーの免責は「日米原子力協定」に書かれていないし、それは本訴訟に関係がない」との発言内容には正直がっかりしました。この方は本当に原発関係の訴訟に関わってきた方なのだろうかとの疑問さえ持たざるを得ない回答です。さらにはその発言に対して拍手を持って迎えた方が少なからずいたことにも驚きました。サポーターの菅谷さんに呼びかけられた「もの言う原告になろう」とするなら、有名弁護士の映画を通した(?)上からの「天の声」を待ち望むのではなく、ご自分が問題意識を持って調べ、培ったご意見を持って参加することが必須だと思います。

 ここで「島弁護士の名誉」の為に確認しておきますが、島弁護士は河合弁護士と違って、『日米原子力協定』によって『原賠法』の制定が促されたという関係を認識しております。『訴状、第7章、第2、立法経緯の1項で、「英米からの免責要求」、2項で「責任集中制が求められた理由」』として『日本は米国と日米原子力協定に基づく細目規定を締結する際に、米国から濃縮ウラン引渡し後に生ずる一切の責任を免除する条項を要求され、それを承諾しなければ、ウランを貸与しないといわれ、免責条項を含んだ細目を締結した(証拠甲4号証、原子力委員会月報 1956年12月)』(P66~67)とはっきり証拠申請までしているのです。問題なのはその日米の2国間協定の破棄にまで論議を進めなくては原発を止めることができないという真っ当な指摘を、なぜか「訴状」つまり訴訟において島弁護士は主張しないということなのです。もちろん河合弁護士による「真実の隠蔽」、もしくは『日米原子力協定の容認』よりよっぽどまともです。

 このことに私が拘るのは、『原賠法』とまったく同じ法律がまず『プライス・アンダーセン法』として米国で作られ、日本そして韓国という原発を受け入れていった国々でも作られていっているからです。これはフクシマ核災害で明らかになったように、膨大なリスクを負った、核(兵器)技術という軍事に関わる(未完成な)技術を民間企業の資金と人的資源を動員して「拡散」と「統制」をするという「Atoms fou Peace」(1953年アイゼンハワー34代米国大統領による国連演説)以来の米国の核戦略と、それに基づく「NPT体制」が世界的に構築されてしまった結果だからなのです。

私たちの対峙している「巨大な相手」というのは単に原発メーカー3社や日本の原発ムラだけではなく、それを有力な一部とする国際的な原発・軍事のシンジケートであることを知っていなくてはならないと思います。単に日本の原発メーカー3社の製造物責任の追及で終わってしまっては決して訴訟の勝利すら勝ち取ることが出来ない闘いです。米国や韓国、台湾、モンゴル、インドネシア、インドなどのアジアはもちろん、ドイツ、フランスなどのヨーロッパの反原発の闘いとも結びつき、また核兵器を背後にした軍事的政策を押し進めようとしている米国や国連安保理事5か国(!)を中心とする強大国に反対して反戦の闘いを作り出している人たちとも結びつき合って壮大な「反原発・反戦」の闘いを作り出さなくては、「原発メーカー訴訟」の勝利を決して勝ち取ることは出来ないと思っているからのです。NNAAのメンバーはそうした闘いに邁進しようとしているのです。

 私以外の質問として記憶に残っているのは、「東電も味方につけるべきだ」という方が居られました。東電は自分の責任を押し隠すことに必死で、(実質的に原発稼動の現場を仕切っていたはずの)メーカーなどの責任追及をしたら、必ず自分の方の責任問題に跳ね返ってくると思うので「他の責任追及」の話には乗らないと思います(2012年に廃炉に追い込まれたサン・オノフレ原発の事業者である南カリフォルニア・エジソン社は廃炉に追い込まれたのは欠陥スティーム・ジェネレーターを納入した三菱重工に責任があるとして莫大な賠償請求を現在しています)。 

 河合弁護士には改めて疑問を呈しておきます。なぜ原発の製造に関してだけ(資本主義社会における経済原則の常識に反して)メーカーの製造物責任が「法」によって免責されているのでしょうか? なぜ世界中に同じようなメーカーを免責する仕組みが作られているのでしょうか? 私は米国と日本の軍事に関する国策の故だと思っています。この常識を河合弁護士はお持ちではないのでしょうか? 「裁判の仕組みのご説明」は結構ですから、上の2点の質問について「同義反復にならない(「原賠法があるから」といったような)」ご説明をお願いします。上の2点についての言及の無い(島弁護士が書かれたといわれる「訴状」にもそうした疑問の追及がありません。『あらゆる経済活動にリスクが伴うことは、資本主義社会の大原則である。そして、この大原則に反する構造を生み出す責任集中制度は、我々の様々な人権を侵害している。いまや社会は、この制度を容認することは出来ない』(訴状P8)と責任集中制=『原賠法』の諾否から論議を始めています)原告側からの「訴訟の論点(争点)の提出」はどのようなものになるのでしょうか? 

 「人格権とノーニュークス権」(笠原一浩弁護士)講演で学ばせてもらったこと
 それに比して、何よりもあの原発の稼動差し止めを認める判決の出された福井の地で、真剣に原発訴訟に取り組まれている笠原弁護士による5.21大飯判決(樋口英明裁判長)に踏まえた解明は素晴らしかったですし、聞くに値するものでした。

  大飯判決が「全てが失われる事態に至った」フクシマの悲劇に踏まえた判決だったこと(福島被災住民の声を証言として取り入れている)。
  判決での憲法判断における「人格権」の評価、原発コストについて誤りの指摘などが笠原弁護士の担当された訴状部分と同じ内容であったことも興味深かったですが、
  何よりも「伊方最高裁判決における意義と限界」(スライド原稿のP10)の解明が有意義でした。そこでは一見加害者側の立証責任が要求されているようでいて、実質的には国の定めた基準に副っていることの証明で足りるとされるが故に、実は住民側の立証責任にすり替わっていることが明らかにされています。この間のNNAAが招いて実現した「イ・ジンソプさん講演」で教えられた、韓国の裁判所が明確に被告=加害者側の立証責任を要求した上での「住民の甲状腺がんの発症は原発理由以外に考えられない」との判決であったことが思い浮かびます。
  さらには「行政の僕」的に評価される司法に対して、行政(統治行為)ばかりではなく、『原賠法』を立法化した立法府(国会)に対しても三権分立の意義を述べるという形で「司法が違憲判断をすべきである」との布石を打っていることです。「大飯原発差し止め訴訟上級審」への真剣な取り組みと共に、「原発メーカー訴訟」への真摯な取り組みも伺われて、大いに力づけられるお話でした。

 ただ「ノー・ニュークス」権については、原発による健康被害に限定した憲法判断の追及だけによって実現できるのか?については依然として大きな疑問符が付くと思います。原発は核兵器保持の正当化のために世界に拡散されたものであるが故に、大から小に至る放射性物質の遺漏事故(ひいては「核実験」や「核戦争」)による被曝容認基準がIAEAという国際機関によって政治的に決められます。その基準は決して本来の健康を損なわない為の基準ではないが故に、私たちの全てが健康被害の起こる蓋然性の下に置かれているのです。その蓋然性の認定が韓国における原発立地地域住民における甲状腺がんの多発という事態に対する釜山地裁のイ・ジンソプさん「勝利」判決の内容でした。「ノー・ニュークス権」を島弁護士「訴状」のように「被災地以外は精神的苦痛」とした限定的な追求であってはならないと思います(典型的には許容基準が、実質的に従来の200倍にまで緩められた「汚染食物」の全国流通の問題があります)。

「小異を捨てて大同につく」のは小異(崔前事務局長)を切り捨てることでしょうか?
 河合弁護士(共同代表)をはじめ、来賓の籠橋さん(環境法律家連盟)、木村さん(東電株主代表訴訟)などがその挨拶において一斉に発言されたのが、今まで誰も思いつかなかった「原発メーカー」を訴えた本訴訟の意義を最大限認めつつ、「内部で争っているときではない」「小異を捨てて大同に着け」「信頼関係が構築できないできた」ということでした。もちろんこの間の「原発メーカー訴訟の会事務局」と「弁護団」との間の「激しいやり取り」を指した発言だと思われますが、両者の間に「信頼関係が構築出来ないできた」のはなぜか?の具体的な指摘がまったくありませんでしたので、私を含めて出席者の皆さんに何が食い違っているのかを理解してもらうことが出来なかったのではないかと思います。島弁護士が弁護団内部で言われていること(?)が無条件に(内容的説明抜きに)前提にされているということなのでしょうか? 

以下にこの問題に対する朴新事務局長の見解を紹介しておきます。
弁護団と「訴訟の会」を混乱させたのは誰か、弁護団共同代表の一人である河合弁護士は、混乱をどのように受け止めたのか、解決に向けて何をしたのか、一切明らかにせず傍観者のように「小異を捨てて大同に着け」と発言しています。「混乱」の延長で起きた崔勝久前事務局長への国際連帯活動費支払拒否、S氏の差別発言、R氏のHP乗っ取り、懲戒請求、告訴「事件」が起こりました。
学習会会場は、「事件」を起こした当事者も参加していましたが、当事者の発言・謝罪はなく、誰ひとり「事件」に触れることはありませんでした。一連の「事件」の本質が何一つ解決されず、何事も無かったように「小異を捨てて大同に着く」ことができるのでしょうか。

こうした足下の問題を放置したまま弁護団は巨大な原発メ--・日立・東芝・GEの経営陣(被告代理人)と正面から向き合うことができるのか、さらに疑問です。
「大同に着く」ためには、混乱解決に向けて弁護団・「訴訟の会」事務局と真摯な話し合いが大前提であり、共に歩むことが不可欠です。事務局からの話し会い要請に河合弁護士は沈黙しましたが、これは話し合い拒否を意味するのでしょうか。

本訴訟において、原発事故を起こしたメ--の道徳的・社会的責任を求める被害者(原告申請者)の人権・損害賠償を代弁する弁護団の共同代表が、「訴訟の会」事務局との話し合いに応じないのは、「小異を捨てて大同に着け」発言と矛盾していませんか。事務局は、混乱収拾・解決に向けて最大限努力し、共に歩むことを願っています。(訴訟の会事務局長朴鐘碩)

 この訴訟の最初の呼びかけ人である崔前事務局長(すでに1.31訴訟の会総会で事務局長を辞任していますが、考え方において彼と同じく「訴訟の会内部での意見発表の自由」と「国際連帯」を強調するNNAAメンバーは訴訟原告として本訴訟に多数参加しています)を、「代理人辞任」という形で今なお排除しようとする弁護団の主張は理解されないと思います。

 共同代表として挨拶された河合弁護士は、「フクシマ以前にやられていた原発関係の訴訟は沈滞し、『女川』と『東通り』が残されていただけだったが、フクシマでがらりと変わった筈」と言われ、ご自分の製作された映画を三回見れば、脱原発運動のプロとしての資格が得られる。
と言われたわけですが、ジョークとしても受け入れ難い発言だったです。なぜこれほどの危険を産み出す原発の存在が、反対派を含めて60年近くも立法府で論議し、司法でも論議してきたにもかかわらず、「安全」なものとされ、ついには巨大な核災害の発生に至らせてしまった。その負の歴史の「克服」が弁護士の製作した1本の映画で(元気が出るのはともかく)実現できるわけがないと思うのです。司法界における「日弁連」の皆さんの努力を含めて「なぜ許してきてしまったのか」についての深刻な切開・反省抜きに、あまりにも楽観的な「ジョーク」ではないかと思いました。

 原発推進を国策として進めて来た歴代の自民党(+公明党)が依然として政権の座についていますし、政権交代を目指しているはずのプロ集団たる「政治家」・政党、あるいはその周辺の科学者、マスコミなどが、フクシマ以降の現在においても真実の指摘と「根本的な解決」の見通しを語れず、「融和的」なことを語り、被災者への我慢の強要しかしていない大勢のなかで、本当に追い詰められてしまった「素人」の被災住民の怒りの示しようが「散発的」であり、「沈滞」とみえるのは当然のことではないでしょうか。その現実を突破する具体的な、内容のある提案をすべきなのです。

「『原発メーカー』を訴えるにあたって『日米原子力協定』や(憲法より上位の法としてある)『安保法体制』は無縁である」と発言された河合弁護士!
 私が事前に提出した質問は、①メーカー側は「『原賠法』で免責されているから参入した(だから法的責任は無い、訴訟の門前払いを)」と答えると思うがどう追求するのか? ②「ICRP」の「ALARA原則」を「訴状」では間逆に理解されていると思うがどうか? ③「代位求償」を論点にすることには(米国サン・オノフレ原発を廃炉に追い込んだ理由に通じるものとして)大賛成というものでした。

 その質問に対する河合弁護士の回答は①についてだけで、「日米原子力協定」及び「安保法体制」はこの訴訟には関係ないというものであり、さらには『日本はなぜ、「基地」と「原発」を止められないのか』矢部宏治氏の著作における発掘された公文書などを根拠にした実証的主張を全面的に否定するものだったのです(著者の名前は出さなかったのですが本の題名はわかる形で発言されていました)。2018年に「更新」を迎える『日米原子力協定』という2国間協定によって日本の原発の存在は根拠付けられていますし、その時点で万が一日本政府がやめると決めた(!)としても止められない縛りがその国際協定には書かれています。核の技術と原料を提供して来た米国の承認抜きには決して止められないのが『NPT条約体制』の下にある「核の保有」という問題なのです。その現実に無知なのか、あるいは『日米原子力協定』の存在の容認を意図(!)しているのか判りませんが、これは本訴訟の原告としては容認しがたい発言です。

 そもそも河合弁護士自身が「訴訟の会設立大会」で「当初は勝てないと思っていた」とお話になったのではなかったですか? それがどうして「弁護団共同代表」を務めるまでに翻意されたのでしょうか? 「島弁護士がいろいろ一生懸命に書いた」と言われましたが、「学習会」で具体的に言われたのは「東電が原発メーカーに未必の故意を理由に損害賠償を求めるべきであるが、それをしないなら被害者側が代位求償する」という点についてだけの「評価」だったと思います。それが翻意された理由の全てなのでしょうか。 

 もちろん訴訟の進め方の問題として争点を整理し、相互に相手の主張について反論を積み重ねていく論議の過程を裁判官が主導し、最終的には判定するという形で進められていくものだとは思いますが、原告が論点を作り出すこともアリだと思いますし(それが「訴状」でしょう)、被告が追い詰められて出してくるであろう論点を予測して原告の側で意思一致を図るなどの準備をしておくことも重要なことだと思っています。そのための「訴状学習会」ではなかったのですか? ご自分の製作した映画の宣伝をする場だけではなかったはずだと思います。

 もう一言確認しておきたいことは、「全て『日米原子力協定』を通じて原発が米国によって押し付けられている」などと私は言ってはいません。1969年の佐藤(ノーベル平和賞を貰いました)政権のときの外務省による『わが国の外交政策大綱』を引用しておきます。

<核兵器については、NPTに参加すると否とにかかわらず、当面核兵器は保有しない政策をとるが、核兵器の製造の経済的・技術的ポテンシャルは常に保持する とともにこれに対する掣肘をうけないよう配慮する。又核兵器一般についての政策は国際政治・経済的な利害得失の計算に基づくものであるとの趣旨を国民に啓 発することとし、将来万一の場合における戦術核持ち込みに際し無用の国内的混乱を避けるように配慮する。p.67 p.68

 これが日本の歴代自民党政権における「核政策」の真意が公に明らかにされた最初です。『日米原子力協定』を結ぶことによる原発の導入は、日本政府の要請というか、悲願でもあったのです。日本の統治権力は「戦争放棄」の日本国憲法の下で、潜在的核保有国のステータスを得ることに向けた努力を1955年(『日米原子力研究協定』締結)以来60年に亘って営々と積み重ねてきたのです。それがこの地震最多発国の日本に54基もの原発=放射性物質の拡散を伴う非効率湯沸かし器を作り出した真の理由です。

 そして現在は「日米同盟」強化と「集団的自衛権の閣議容認」によって米軍の下に組み込まれた自衛隊を海外に派遣しようとしているのです。「平和と民主主義」の戦後が終わり、「積極的平和主義」の名の下の戦争の時代に突入しようとしているようです。
 私の住む米国はとっくの昔に戦争当事国となっています。兵役は「志願制」の故に、私の周辺では何事も無いかのような生活が送られています。

以上です。よろしくご検討願います。 2月8日(日本時間) 米国在住原告 SAM KANNO

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