「抑えきれない怒りの行方」
9日の長崎市の原爆犠牲者異例平和記念式典で被爆者代表が安倍首相に集団的自衛権の行使のことで詰め寄ったという記事は読んだ記憶がありましたが、大久保さんがここで書かれている、事前に準備されていた原稿とその場で読み上げた「平和への誓い」が違っていたということは初めてしりました。
「今、進められている集団的自衛権の行使容認は、武力で国民の平和を作ると言っていませんか」という元の原稿を被爆者代表の城臺みやこさんは、このようにその場で即興で読み替えました。「今、進められている集団自衛権の行使容認は、日本国憲法を踏みにじった暴挙です」。またまた文面にない怒りの言葉がこのように発せられたそうです。
「日本が戦争ができる国になり、日本の平和を武力で守ろうというのですか。武器製造、武器輸出は戦争への道です。いったん戦争が始まると、戦争は戦争を呼びます。歴史が証明しているではありませんか」。拍手ですね!
この事実を明らかにした大久保さんにも拍手です。しかし大久保さんの偉いのはその事実の報道だけでなく、直接、城臺さんの自宅を訪れインタビューをしてこのコラムに自分の心情をこめて記事にしたことでしょう。そして会場で安倍の顔を見て、「ムラムラと怒りがわきあってきたんです」という本人の気持ちを聞きだしています。
最後の箇所では詩を引用しながら大久保さん自身の気持ちを書いています。詩の作者の気持ちを汲みながら、「この怒りを、理解できますか」。それは大久保さんご自身の怒りでもあるのでしょう。
「非核 原爆も原発も」、「忘れてはならない原発と戦争」
今日の朝日新聞の1面には「非核 原爆も原発も」という記事があります。今年の広島の松井市長の平和宣言の中には過去3回触れられていた、福島原発事故に対する言及がなかったそうです。
その理由は、安倍政権が既に「原発の依存度を減らし、安全性を確保できれば再稼働するいう方向性が出ている」からだということです。これには驚きます。政府の再稼働方針に対して本当にそれでいいのかということをどうして被爆地広島の市長は言わないのでしょうか?
原発と原爆とは同じではないのですか?
再稼働をして事故は起こらないという保証はどこにあるのでしょうか?
原子炉の安全基準のみならず、万が一、事故が発生した場合の住民の避難は大丈夫なのか、障がい者、高齢者も避難できる体制になっているのか、広島の市長が声高らかにこの点を問題にしないでどうするのでしょうか、残念です。
ドイツでは反核と反原発の運動はひとつだと朝日では報じています。この記事の最後はこのように終わっています。「核兵器も原発も根は一つ。そう考えていかなければ」。
もうひとつ、編集委員の前田直人さんのコラムも注目すべきです。「忘れてはならない原発と戦争」。安倍政権が打ち出した、原発再稼働と、戦後日本の歩みを転換させる安全保障政策、です。これは大久保記者の視点と重なります。
成長戦略9 石炭火力の輸出CO2削減になる?
最後に 「成長戦略9 石炭火力の輸出CO2削減になる?」にも考えさせられました。経済産業省審議会によると、「米、中、印のすべての石炭火力を日本の最新鋭のものに替えれば、日本全体の排出量にあたる年間15億トンを削減できる」そうです。日本はこの日本の最新技術をもって産業界、政界をあげて世界に世界に火力発電のインフラを売り込みたいようです。
しかし世界の流れは違います。日本の石炭火力の効率がよいと言っても、「CO2排出量は・・液体天然ガス(LNG)の倍以上ある」そうで、世界のCO2排出量の44%を石炭が占めるとのことです。「日本と異なり、石炭火力の利用を抑えようというのが、世界のながれ」だそうです。
世界銀行や欧州復興時開発銀行などの世界的な金融機関も、石炭火力への融資基準をきびしくし、オバマ大統領が昨年の6月に発表した「気候変動行動計画」では、「CO2を回収して貯蓄する技術(CCS)が実現しなければ、事実上石炭火力の新設ができなくなる」らしいのです。
この考えは反原発運動に大きなヒントを与えてくれます。原発は経済的に割りにあわない、投資としてはこのましくないというキャンペーンを世界に張り、投資の面から原発建設を抑えつける運動の必要性を感じさせます。
しかし最大の問題は、核兵器は経済的に割に合わないという主張は、安全保障の必要性を説く立場からは問題にされることはないということです。ここでは政治と軍部、産業の一体化によって経済性を超えた論理が優先しているからです。ここを突破するにはどうすればいいのか、この点の英知を集める必要があると痛感します。
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