2014年7月11日金曜日

与謝野晶子の未発表の短歌、日中戦争を憂う

日露戦争の時に1904年(明治37年)9月、『君死にたまふことなかれ』を『明星』に発表した与謝野晶子は、未発表短歌、1937年の拡大する日中戦争を憂う歌、「秋風やいくさ初まり港なるただの船さへ見て悲しけれ」を詠む( 朝日新聞7月11日 )。

「1937年の盧溝橋事件の翌月に詠まれ、拡大する日中戦争の行方を憂えている」と朝日新聞はこの歌の背景を説明しています。

憲法解釈で集団自衛権の行使を閣議決定した安倍政権の動向を見ながら、先人の偉大さに心打たれます。 

明治の日清戦争の勝利の後、日露戦争に反対するというのは大変なことであっただろうと想像します。与謝野晶子は「君死にたまふことなかれ」
の発表後、30年経って、横浜港でたまたま会った人から「一筆を乞われ」持っていた扇子にこの歌を即興で詠み、記したそうです。

与謝野晶子の研究家はこの歌を、「軍艦以外の民間の商船さえも、いずれ兵員輸送のために徴用されるだろうと予言的に詠んでいる。立秋後のもの悲しさを基調に、冷静に戦争をみていたことがわかる」と読み解いたそうです。

日本の若い人たちの多くが中国、韓国の動向に関して日本政府の発表だけを信じて反発していることが心配です。




君死にたまふことなかれ   
            旅順口包圍軍の中に在る弟を歎きて
          
                               與 謝 野 晶 子
あゝおとうとよ、君を泣く
君死にたまふことなかれ
末に生まれし君なれば
親のなさけはまさりしも
親は刃をにぎらせて
人を殺せとをしへしや
人を殺して死ねよとて
二十四までをそだてしや

堺の街のあきびとの
旧家をほこるあるじにて
親の名を継ぐ君なれば
君死にたまふことなかれ
旅順の城はほろぶとも
ほろびずとても何事ぞ
君は知らじな、あきびとの
家のおきてに無かりけり

君死にたまふことなかれ
すめらみことは戦ひに
おほみずから出でまさね
かたみに人の血を流し
獣の道で死ねよとは
死ぬるを人のほまれとは
おほみこころのふかければ
もとよりいかで思されむ

あゝおとうとよ戦ひに
君死にたまふことなかれ
すぎにし秋を父ぎみに
おくれたまへる母ぎみは
なげきの中にいたましく
わが子を召され、家を守り
安しときける大御代も
母のしら髪はまさりぬる

暖簾のかげに伏して泣く
あえかにわかき新妻を
君わするるや、思へるや
十月も添はで 別れたる
少女ごころを思ひみよ
この世ひとりの君ならで
ああまた誰をたのむべき
君死にたまふことなかれ
あゝおとうとよ、君を泣く
君死にたまふことなかれ
末に生まれし君なれば
親のなさけはまさりしも
親は刃をにぎらせて
人を殺せとをしへしや
人を殺して死ねよとて
二十四までをそだてしや

堺の街のあきびとの
旧家をほこるあるじにて
親の名を継ぐ君なれば
君死にたまふことなかれ
旅順の城はほろぶとも
ほろびずとても何事ぞ
君は知らじな、あきびとの
家のおきてに無かりけり

君死にたまふことなかれ
すめらみことは戦ひに
おほみずから出でまさね
かたみに人の血を流し
獣の道で死ねよとは
死ぬるを人のほまれとは
おほみこころのふかければ
もとよりいかで思されむ

あゝおとうとよ戦ひに
君死にたまふことなかれ
すぎにし秋を父ぎみに
おくれたまへる母ぎみは
なげきの中にいたましく
わが子を召され、家を守り
安しときける大御代も
母のしら髪はまさりぬる

暖簾のかげに伏して泣く
あえかにわかき新妻を
君わするるや、思へるや
十月も添はで 別れたる
少女ごころを思ひみよ
この世ひとりの君ならで
ああまた誰をたのむべき
君死にたまふことなかれ

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