第1回
韓・日シンポジウム(大邱)―― <韓日友好と強制連行の問題を考える>
- シンポジウムの趣旨
韓国・日本の研究者を中心に、各分野別の韓日交流について点検し、韓国人強制連行問題および最近話題となっている勤労挺身隊問題について論議する場を設けたいと思います。これを通じて、過去の歴史歪曲の雰囲気を見直し、韓日友好を進展させる土台を構築していきたいと願います。また、韓日間の懸案を打開するため、韓日市民の連帯と接点を模索する場になればと念じます。本シンポジウムに格別のご関心とご参加をお願いいたします。
○ 日時: 2014年 5月3日(土) 午後2時~5時半 (受付は午後1時半より)
○ 主催: 大邱KYC(大邱 韓国青年連合)
○ 後援: 勤労挺身隊ハルモニとともにする市民の会, 圖書出版 學士院
○ 場所: 大邱広域市 国債補償運動記念館 2階・ホール
≪≪≪ プログラム ≫≫≫
□ 受付 13:30 - 14:00
■ 開会 14:00 -14:10
□ 開会辞 –金正勲(全南科学大 教授)
□ 主催者挨拶 キム・ジョンス(大邱KYC代表)
※ 司会(岡田卓己, 啓明文化大 教授)
<シンポジウム>
* 司会 崔鳳泰 弁護士(大韓弁護士協会 日帝被害者人権特別委員会 委員長)
■ 発表
○ 14:10 - 14:30 岡田卓己(啓明文化大 教授)
東アジアの平和と友好を創造するための被害者と加害者の課題。
○ 14:30 - 14:50 朴孟洙 (円光大 教授)
日本の北海道における強制連行の現状と全羅北道の例
○ 14:50 - 15:15 茶谷十六(元日本民族芸術研究所所長)
日本の東北地方における強制連行の実態について
- 特に秋田県花岡鉱山における七つ館事件を例として -
□ 15:15 – 15:20 質疑
□ 休憩(15:20 - 15:30)
□ 音楽演奏・合唱 (15:30 – 15:40)
■ 発表(再開)
○ 15:40 - 16:00 金昌禄(慶北大
教授)
法的側面から見た強制連行
○ 16:00 - 16:20 金正勲(全南科学大
教授)
日本人作家の描いた強制連行と勤労挺身隊の問題
□
16:30 – 16:35 質疑
□
16:35 – 16:45 司会者によるまとめ(被害者に対する賠償をどう進めるかを含む)
16:45 シンポジウム終了
東アジアの平和と友好を創造するための被害者と加害者の課題
啓明文化大学校 教授 岡田 卓己(おかだ たかし)
強制連行問題の研究者ではなく、「平和を求める活動家」である私にとって、このシンポジウムにどうしたら貢献できるのかについてはかなり悩んだ。大学時代から現在に到るまで「被害者と加害者の課題」について考えてきた私の個人史を率直に語ることが、私にできる最大の「貢献」になると思う。ここでは、私に大きな影響を与えた3つの書籍・講演・声明などを時代ごとに紹介することにする。現在、私が何を求めて韓国で生活し行動しているのか、理解してくだされば幸いである。
1.「撫順の奇跡」 -日本軍兵士による侵略の加害証言- (大学生
1973-4年頃)
確か大学の3-4年生頃、一冊の本に出会った。『侵略 -中国における日本戦犯の告白-』(中国帰還者連絡会(中帰連)編、新読書社、初版1958)である。中国への侵略を行った司令官・憲兵・兵士たちによる告白の書であり、そこには日本軍が行った殺戮やレイプが生々しく証言されていた。彼らは、シベリアでの捕虜から中国の撫順へ戦犯として送られ、そこで逆に、人間としての待遇を受け、自ら行った行為を証言するようになる。この本をむさぼるように読み終わったあと、「何故、日本人はこのような残虐な行為ができたのだろうか」と考えこんでしまった。そして当時の、「平和を守れ」とする日本の平和運動や原水爆禁止運動に弱点があると思った。ベトナム侵略戦争に当時強く加担していた日本(韓国も同様であった)において、「平和は守るものではなく、創造するものだ」、「平和を創造するためには、加害の問題と被害の問題を考えなければならない」と強く意識した。つまり、過去の戦争を考える上で「日本はアジアの諸国への加害者であった」ということこそ、第一に強調されなければならない視点である。これが私が、「加害者と被害者問題」を考えるようになった原点である。
【参考】撫順の奇跡とはどのような奇跡か
高校教師5年目にあたる1980年5月、毎日のように報道される新聞記事を読みながら涙を流していた。もちろん、光州5.18民衆抗争の記事である。そして故・金大中先生の死刑判決の頃には、東京の韓国大使館へ向けて抗議行動・示威もしていた。
こうして、日本が侵略戦争を起こし植民地化した国々の中で生活し、市民同士が過去をしっかりと見つめ、未来を語ることによって、信頼と平和の東アジアを共に創りあげたいと考えるようになった。家族を説得し、2006年、定年退職まであと7年を残し辞職して韓国へ来た。
2.和解について -ドイツ ASF、Christian Staffa博士の講演
(2009年1月)
ソウルで韓国語を学び、2007年9月に大邱での現在の仕事に勤務した後、2008年より京都の方々と共に、「『韓国強制併合』100年市民ネットワーク」を組織して、過去の侵略と植民地化をした日本での「反省と和解」の運動を呼びかけ、共同代表の一人に選出された。
その直後、東京の上智大学教授・光延一郎神父のお誘いを受け、Christian Staffa博士の講演を聞いた。当時(そして今も)、「反省と和解」の問題は最大の関心事であり、「はたして加害の側から『和解』をいうことができるだろうか」と考えていた私にとって、必死でメモをとり聞き入った。そのメモは、今読み返しても新鮮である。一部を紹介する。
ドイツでの謝罪と和解・賠償については、「記憶、責任および未来 基金」が有名であるが、その裾野にはASF(Aktion
Su:hnezeichen Friedensdienste) 「行動:償いの証し」のような市民的な広がりを持ち、思想的にも深い運動があった。
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ASFの創始者ロタール・クライシッヒ(Lothar kreyssig)は、ワイマール体制・民主主義に反対し、ナチスに好意的なプロテスタントの体制的な人物であり、ベルリン近郊の裁判所の判事だった。1930年代、地域の障がい者の死亡が急増していることに気付き疑問を持ち、それを引き起こしている者(被告)が誰であるか分からないまま、裁判を提訴した。すると司法省から、呼び出しがかかる。「障がい者を殺す命令を出しているのは、ヒットラーではないが、ナチス上層の人物だ。生きている価値がない者を殺すのは当然とのことだ」と告げられる。彼は、直接ヒットラーを訴える行動ではなかったが、殺している人たちを訴えるという勇気ある行動に出た。
戦後、ニュルンベルク裁判では、彼こそ「真の判事」との評価を受けた。しかし、彼は罪の意識を持ち続けた。「自分はしっかりと抵抗したのだろうか」と。その後、彼は「自分には罪がある」と表明。その当時、多くのドイツ人は加害者ではなく、被害者の意識を持っていた。(1960年代まではその意識が強かった)。
こうしてASFは、ドイツの若者たちを巻き込んで、ナチス・ドイツによる被害国である、オランダ、ポーランド、ノルウエー、イスラエルなどで、謝罪と奉仕活動を展開する。ナチスの虐殺にあった村では石を投げられたりもするが、アウシュビッツでは手作りで「国際ミーティングルーム」を作ったり、加害国と被害国の若者の共同行動などを行っている。
これまでの長期プロジェクト(12~15ヶ月)参加者は7000名、短期プロジェクト(3~6ヶ月)参加者は12000名にものぼる。(2009年1月現在)
Christian Staffa博士の和解に関する発言要旨は以下の通りである。
●「和解」ということについて
私は「和解」という言葉に批判的見解を持っている。
○「和解」についてASF内部で、激しい議論を闘わせた。
○「和解」とは、償いの行動の過程を経て、その結果として成し得ることである。
○「和解」とは、加害者側から言える言葉なのだろうか。行動を始める最初から、「和解」が
成し得るかどうか分からない。被害者が認めてくれるかどうかも分からない。
よって「償いの証し」とした。
※ 「償い」とは、単なる「補償」ではなく、「許し」と「平和」を求めること。
●「和解」のプロセスとどう向き合うか
○歴史への興味・関心は 未来を変えたいから(真実・真相究明という過程が必要)
○宗教的な文脈での「和解」とは
・平和が訪れることを意味するが、しかしそれは、矛盾と葛藤という側面がある。
・我々は「和解」よりも「償い」という言葉が適切と考える。
・「和解」を他者(被害者)へ、押しつけることもしない。(実際、拒否にもあった)
・「償い」の行為を通して、「和解」へ到ることはあり得る。
○「許す」「許される」という関係は、具体的にはどういうことか?
過去の行為とその結果がなくなる訳ではない。よって「和解」で、すべてを回復・解決でき
るとは思わない。【岡田:ではどうすれば‥ 我々の未来が重要】
○心・人間的な面での「償い」「和解」だけでは不十分である
・「償いの証し」は、被害者への政治的・法的補償へと向かわなければならない。
・「償い」は、被害者に受け入れてもらうことだが、その後、「償い」の社会的な実現が必
要。法的・政治的な次元でうまくいくためには、社会的な基盤の形成が必要。
(社会の支持・信頼。社会の意識を変える。)
○人間的(心)にも、法的(制度)にも和解・償いを!
被害者の中には、「補償はいらない」という人もいる。しかし、「補償」は悪いことではな
く、必要であり行うべきことである。一面的な見方を越え、広い総合的な考えを!
○過去の問題に、今向き合うことの意味
・複雑な問題であり、苦痛を伴う。消極的になることもある(自己と他者の意思疎通)。
我々の過去の経験を振り返っても、人はどうしても間違いを犯す。しかし、何かを変えた
いのならミスを犯さざるを得ない。
・法にのみ依拠することは難しい。まずは行動である。 But,
You can just do it!
○未解決の現在は、未解決の過去に根ざす。
● 最後に、次の言葉を贈りたい。「私たち全員が、社会の現実の一部である」
● 私たち一人ひとりは、過去から培われた社会の現実の一部であるからこそ、過去と未来に責
任がある。
● 社会の現実の一部であるからこそ、社会を変えることができる。
● 社会の現実の一部であるからこそ、私たちの行動は他者よりも優れたものではない。
● 宗教的な言葉で言えば「私たちは皆、罪人である」ということに通じる。
3.朝鮮女子勤労挺身隊問題と名古屋市民、そして光州市民 (2013年5月)
「朝鮮女子勤労挺身隊」とは、1944年当時、小学校を卒業する幼い少女に対して「日本へ行けば、仕事をしてお金を得ながら、学校へも通うことができる」と騙し、名古屋・三菱重工業、富山・不二越、沼津・東京麻糸の3つの軍事工場へ連行して強制労働をさせた事件である。昨年5月、光州地方法院、名古屋三菱初公判前に、「勤労挺身隊ハルモニと共にする市民の会」事務局長(現・共同代表)李國彦氏が発した「真実の門を叩き続けて27年 - 国籍を越えた日本の良心-」と題する声明は、非常に重要である。
この声明では、最初に「韓日の関係において、日本は加害者、私たち韓国は被害者という位置関係だけで等式化することができるだろうか」と問うている。1986年、地域の歴史調査の中で、三菱重工業・勤労挺身隊の事実を知った高橋真教員と同僚の小出裕教員(当時)は、光州中心に被害者を探し日本で裁判を提訴し、名古屋市民と共に「名古屋訴訟支援の会」を立ち上げた。2007年5月、最高裁判決での敗訴後も、彼/彼女らは毎週金曜日に名古屋から片道約360kmの東京・三菱重工前で、抗議の宣伝行動を続けた。こうした日本市民の良心に対して、韓国社会では置き去りにされハルモニたちに何の援助もしていない自分たちを「恥ずかしく」感じ、2009年に光州で「市民の会」を結成し、名古屋市民と光州市民の連帯が始まった。そして、昨年11月1日光州地方法院の勝利判決を勝ち取った。ここにこそ私たちが学ばなければならない、国際連帯のあり方が示されている。それと同時に、在韓日本人であり大邱市民である私にとっては、「では、私は何をしなければならないのか」という課題がつきつけられている。
4.終わりに -私は(私たちは)何をしなければならないのか?
こうして、個人史を顧みると「私はどう生きればいいのか」という、「生き方」を絶えず求め続けて歩んで来たように思える。侵略戦争の中で、鬼と言っても過言ではない殺戮を繰り返し、中国の戦犯教育の中で自らの人間性を取り戻した元・日本兵たちの生き方。ASFを創設したロタール・クライシッヒと、ドイツのそれに続く世代の生き方。勤労挺身隊の被害を受けたハルモニたちを支援し続けている、名古屋市民と光州市民の生き方。その一つひとつの「生き方」が、現在も私の教師でありつづけている。
現在日本は、今も継続している福島原発事故の中で苦しんでいる。15万人にもおよぶ避難民。子どもたちには甲状腺癌が高率で発生。今も続く汚染水の垂れ流しなどなど。しかし安倍政権は、国策として世界各国に原発を輸出しようとしている。他方、事故を起こした原発製造メーカーは、原子力損害賠償法によって一切の責任を免責され輸出を支えている。果たして韓国の現状はどうであろうか。私たちは二度と加害者になってはならない。(ベトナム戦争時のように)
さらに、ハルモニを支援し続けている名古屋市民と光州市民の活動は、私たちに「被害を受け苦しんでいる人々とどう向き合うか」という課題を問うている。
私たちの暮らす大邱・嶺南地域は、日本の広島・長崎で被爆した方々とその子孫(2世・3世)が韓国の中でも多く暮らしている。広島・長崎で被爆した約70万人の内、約10%・7万人が朝鮮半島の出身者だと推定されている(正確な統計はない)。しかし、韓国社会では「広島と長崎に投下された原子爆弾は“神の懲罰”であり、日本軍国主義の犠牲になったアジア人の復讐」という趣旨の論評(中央日報、2013年5月20日付)が掲載されるほど、韓国人被爆者の問題は忘れ去られている。まして、未だ遺伝による病気で苦しんでいる多くの被爆2世・3世の存在について、知っている人は多くない。2003年から毎期国会に提出されている「原爆被害者および子女のための特別法(案)」は、まともな審議さえもされずに毎回廃案になっている。このことは、大邱・嶺南地域の市民である私(私たち)が担わなければならない「課題」なのではないかと考えている。
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