原発メーカーの責任を追求した在日の、原発メーカー訴訟を日立闘争の経験を経て「第二の日立闘争」とする背景を考察しました。
金鐘哲先生のコラムはオクロスで3回、紹介させていただきました。最初のコラムは今日現在、1334名もの方が読まれています。韓国の識者の問題意識が明確です。ご一読ください。
2012年3月15日
「原子力事故、次は韓国の番だ」-3・11韓国における講演の紹介
http://oklos-che.blogspot.jp/2012/03/3.html
原発メーカーの責任を問うた在日の考察
NPO法人NNAA/原発メーカー訴訟の会/事務局長
崔 勝久
(1)はじめに
福島原発事故を起こした原発メーカーの責任を明らかにするための、39ヶ国4128名の原告による原発メーカー訴訟がようやくはじまります。3月10日に東京地裁にて訴状が受理されました。韓国は909名でした。(注:外国人が2000名を超える例は日本の裁判史上初めてのことであり、委任状の成否をめぐって東京地裁と協議中で、最終原告数は6月に決定されます)
原発事故に対してメーカーの責任を免責する原子力損害賠償法(原賠法)は実は、日本だけでなく、韓国や台湾においても存在します。と言うより、むしろ全世界において、すべて事業者だけに責任を取らせメーカーの輸出による「原子力事業の健全な発達」を謀る体制が構築されているのです。
しかし原発メーカーの責任を問うことは世界でも例がなく、原発事故当事者国日本においてもなされてきませんでした。その責任を問うたのは在日でした。この小論は原発メーカーの責任を問うた在日の背景を考察します。
(2)原発メーカー訴訟とは何か?
福島第一事故を起こした原発メーカーはその第1号がアメリカのGeneral Electric社で、その他はGEから技術を学んだ後で日立、東芝が独自に製造したものです。彼らは3・11事故の後も何の批判を受けることなく、また事故に対する一切のコメント、謝罪の言葉もなく、まるで何事もなかったかのように原発輸出を続けており、それを政府が日本の新経済政策として全面的にバックアップしています。
原発メーカーの責任が問われないのは、事業者(東京電力)以外の責任は問わないで事業者に責任集中する原子力損害賠償法(原賠法)という法律があるからです。そこでは「被害者の保護」とともに、「原子力事業の健全な発達に資することを目的とする」(原子力損害賠償法第1条)とあります。「当該原子炉の運転等に係る原子力事業者がその損害を賠償する責めに任ずる」と記した後に念には念を入れ、「製造物責任法の規定は適応しない」(3条3項)と記されています(韓国の原賠法は日本のコピーで、ほぼ一字一句同じ)。
つまり、東電に全部責任を取らせ被災者への賠償金を払わせ、足りない分は政府が援助する仕組みになっているのですが、その賠償金なるものは市民から取った電気料金と税金というパブリック・マネーです。そうして原発メーカーには責任を負わせず、「原子力事業の健全な発展」のために自由に世界に輸出させるという構図になっているわけです。
この背景には、核による世界の支配のために列強5ヶ国だけが核兵器を保有し、他の国には核兵器を作らないという誓約をさせて「原子力の平和利用」という名の下で原子力発電所建設を認めるNPT(核不拡散条約)体制があります。アメリカを中心とする列強は「軍縮」「核不拡散」を謳いますが、同時に原発を世界中に、特に経済成長を求めるアジアを中心に売り込もうとしているのです。それを法的に支えるのが原賠法であり、原発を製造するのが、アジアではアメリカの核の傘の下でビジネスとして原発輸出を国家戦略とする日本と韓国なのです(ちなみに、アメリカは原発製造の技術、ライセンスだけを持ち自分では製造しない国になっています)。日本、韓国は「準列強」で、潜在的核保有国であり将来の核保有を狙う国でもあります(武藤一羊『潜在的核保有と戦後国家-フクシマ地点からの総括』(社会評論社 2011)。
日本の安倍首相は核不拡散を強調しながら原発の輸出には自らセールスマンよろしく熱心です。どうして核不拡散を謳うNPT体制と、アメリカが中心になって作り上げた、原発を世界中に拡げようとする原発体制が並存するのでしょうか。このなぞは、核兵器と核発電(原発)は一体であり、列強は核による世界支配のために核兵器及びウラン燃料の製造のコアー技術を独占しているというところにありそうです。即ち、原発は核兵器(小出裕章)であり、列強は本気で核兵器をなくすことを考えていないということなのです。安全保障にとって核兵器はなくてならないものという基本的な考え方、政策を捨てていません。
しかしそれでも時代は少しずつ変わってきています。核兵器を抑止力とするこれまでの国家安全保障の在り方が大きく問われる時代になるでしょう。国家の安全保障がすべてに優先する時代から、人の自由、安全を重んじる「人間の安全保障」という概念がヨーロッパを中心に急速に拡がっています。人間の「恐怖からの自由」は国家の安全保障に全的に規制されることはないという思想的、実践的な流れが着実に拡がっているのです(古関彰一『安全保障とは何かー国家から人間へ』岩波書店 2013)。
しかしながら国民国家を絶対的なものに祭り上げる限り、国民は命をかけて国境を守り、自国の安全・発展の為には他国の人間を殺してもいいということになるのでしょう。国民とはそのように作り上げられた存在です。
私たちの原発メーカー訴訟は、世界のこのような国家主体の安全保障から人間の自由、安全を重んじる「人間の安全保障」概念の移行に沿うものであり、人間の「原子力の恐怖から逃れて生きる権利」(No Nukes Rights)を正面から唱えます。
私たちの原発メーカー訴訟は、世界のこのような国家主体の安全保障から人間の自由、安全を重んじる「人間の安全保障」概念の移行に沿うものであり、人間の「原子力の恐怖から逃れて生きる権利」(No Nukes Rights)を正面から唱えます。
(3)原発メーカーの責任を問うたのは日立闘争を経験した在日
①日立就職差別裁判闘争
福島の原発事故を経験した日本において脱原発を唱える弁護士や活動家がこれまで原発メーカーの責任に言及しなかったのは何故でしょうか。圧倒的に多くの人は原発に反対しても福島第一原発のメーカーはどこか知りません。知らされなかったし、知ろうともしませんでした。東電に全ての責任があるかのように宣伝されてきたからです。またある人は原賠法が何たるかを知るが故に、逆にメーカー責任を問えなかったのでしょう。
私たち在日は歴史に翻弄され、「解放」後も祖国の分断状況を反映し「日本籍」を持たされながら選挙権を剥奪されました。女性参政権の受け入れと外国人の排除は表裏一体のものだったのです。
日本の講和独立後は日本人ではないということで日本社会から排除・差別されてきました。在日は日本国民に憲法で保障される基本的人権の適用を受けず、疎外され、国民年金も児童手当などを受けることはなく、就職差別や銀行からの融資を受けられないことは当たり前のことであったのです。それは復興を目指す日本の新たな国民国家の強化の中で必然的に起こってきたことです。かつて法務省参事官が「日本にいる外国人を煮て喰おうと焼いて喰おうと勝手」(池上努『法的地位200の質問』京文社、1965年 167ページ)と書いたことがありました。この体質は大きく未だに変わっていないように思えます。
1970年、日本名と日本の住所で日立製作所の試験を受け採用された朴鐘碩は、「嘘」をついた、そのような「嘘つき」は信用できないということで解雇されました。日立の差別を、在日への差別を当然視してきた日本社会の象徴と捉えた日立就職差別裁判闘争は大きな運動になり、1974年朴鐘碩の完全勝利に終わりました。判決は、日本社会の差別・抑圧の実態を認め、日立の解雇は差別であることを認定しました。WCC(世界教会協議会)も、韓国の教会もその闘争を支持しました。何よりも韓国の民主化闘争を担った学生たちはいち早く私たちの日立民族差別闘争を支持しました(「「反日救国宣言」を宣言 韓国キリスト教学生連盟」(『毎日新聞』 1月5日1974年)。
日立闘争の勝利は自らの朝鮮人であることを隠し、差別を仕方がないものとしてきた在日の生き方・価値観を変えるものとなりました。日本人ではない、しかし本国の韓国人とも違うということで自分の生き方(アイデンティテイ)を模索してきた在日にとっては、民族的な自覚は人間としての覚醒でありました。ナショナル・アイデンティテイへの自己同一化を求め民主化闘争や南北の統一運動に関わる在日が多くいたことは、みなさんご存知の通りです。
日立闘争以後、自分の生活する地域社会の中で教会がはじめた保育園を中心に自らを卑下しない教育と差別と闘う実践を川崎において重ねてきた私たちは、国民年金や児童手当など日本人に限られるという法律があるのは差別なのかと地域集会で地域住民から尋ねられ、はっと気づき、それはそのような差別をする法律がおかしいということから差別を正当化する国籍条項を撤廃させる、いわゆる「川崎方式」の運動を始めました。そして行政交渉によって児童手当や市営住宅入居などの権利を獲得した経験をもちます。
②「多文化共生」について
私たちは川崎の教会を離れたのですが、地域の運動はその後、外国人労働者を必要とする90年代の日本社会のニーズにこたえるかのように日本人と在日朝鮮人をはじめとする外国人との「共生」を強調するものとなっていきます。「多文化共生」は食べものや文化の違い、本名使用を尊重し多様性を強調するのですが、外国人の政治参加は決して認めません。
川崎市は1996年に選挙権のない外国人の為に「外国人市民代表者会議」を作って、それが参政権実現までの過渡的な政治参加としたのですが、そこでは「外国人市民代表者会議」のメンバーに市から選ばれる選考基準も定かでなく、何よりも会議で決定したことが実現される法的な根拠はなく、あくまでも市長の諮問機関でしかなかったのです。外国人の日常生活に関することだけが討議され、自分達の生命に関する、例えば、川崎市民全体にとって必要な津波対策や3・11によって汚染されるようになったゴミの焼却灰の処置については議論されない(してはならない)ことになっています。それは選挙権をもたされない外国人に与えた「偽りの政治参加」であり「ガス抜き」(上野千鶴子)でした。
この外国人市民代表者会の設立によって、それまで国籍にかかわらず「市民」であったのが、新たに「外国人市民」という概念が設定されるようになったことは注目すべきです(加藤千香子・崔共編『日本における多文化共生とは何かー在日の経験から』新曜社 2008)。
これは2001年に当選した阿部孝夫前市長が、いざというときに戦争に行かない外国人は「準会員」であって「準会員」と「会員」に差別があっても当然と言い切ったことと関連しています。また昨年当選した、市民派を標榜する福田紀彦市長は、「差別はいけないが、区別はあっていい」と言うことで同じ川崎市民間の差別を正当化します。
80年代から外国人労働者を必用とするようになった日本社会のニーズに合わせて日本政府、地方自治体は「多文化共生」を謳いはじめます。日本社会は左右のイデオロギーを問わず、経営者から政治家、組合、市民運動に至るまで一部の排外主義者を除いて全てと言っていいほど、「多文化共生」を唱えるようになります。それは決して外国人の人権を尊重する、基本的人権を保障するということではなく、為政者にとっては増大する外国人の管理を目的とした、「共生」という名の下での統治政策なのです。
一方その働きに呼応するかのように、民族団体も南北を問わず、日本社会との「共生」を訴えます。「多文化共生」は大流行なのです。韓国でも同じだと思います。為政者と日本社会での安定を望む被統治者との切ない思いが不幸にも一致したのです。
しかし「共生」政策はあくまでも数多く流入する外国人対策から発したもので、それは戦後の植民地支配からの解放によって独立国家になっていった多くの国を含めて、国民国家というものが全世界的に確固たるシステムになった後、その体制を維持・補強するために採られたものです(西川長夫)。
脱線しますが、私は国会を占拠した台湾の青年たちの問題意識は、まさに近代化を目指して国全体を豊かにするためにGDPを最優先するという政府のあり方そのものを批判する内容をもち、60年代の「パリ5月革命」に匹敵するものだと考えます。GDPを最優先することで国民国家幻想をもたせ、国内の格差、大企業優先の実態を隠蔽するのです。
政党政治を拒否した台湾学生 立法院占拠からみえる新地平
岡田 充
http://www.21ccs.jp/ryougan_okada/ryougan_47.html
私たちは、後で紹介する「当然の法理」を掲げて外国籍公務員の差別を制度化した川崎市との10年以上にわたる交渉から、「多文化共生」の本質は多様性を大義名分にした、世界的なグローバル化が進む中での、外国人対策を目的にした植民地主義イデオロギーだと考えるようになりました。外国人との「共生」は国家にとって、自治体にとって、外国人の「統治」と同意語であったのです。
③「第二の日立闘争」へ
日立闘争は民族差別を許さないということで闘ったもっとも重要な人権の闘争でありながら、朴鐘碩の入社によって全て円満解決した過去の「成功物語」になりました。日立闘争は民族問題の範疇で収斂させられ、単に民族差別と闘い勝利した「神話」にされてしまったのです。
しかし朴鐘碩の闘いは日立入社後に新たな展開をします。彼は、企業は労使一体となって労働者にものを言わせない、利益を上げるために労働者を社畜にしているということで退社までの40年間、一人でそれまで慣れあいで行われていた労働組合の委員長選挙にも立候補し(落選したものの30%の支持を受けたこともあったようです)、労働者からピンハネをする組合にもお金の使われ方を公開することを要求するなどの孤独な闘いを続けました。そもそも、日立は朴鐘碩を差別したと認めたものの、労働組合は会社の差別体質に対する見解を出すこともなく、日立闘争を一切無視してきたのです。日立市は日立の城下町のようなものでそこから日立関係者が立候補する時、社員は鉢巻をして全員その候補者を支持することを求められます。個はないのです。
しかし孤独に見えた彼の闘いも退職にあたり、朝日新聞で他の著名人と一緒になって「黙らない生き方を選んだ」新しいサラリーマン像として紹介されました(2012年5月12日)。前年の朝日新聞では、「ある会社員の定年」ということで紹介されています(2011年12月28日)。日立就職差別裁判闘争の当該として入社した彼が社内の風土に「やがて不思議に思うようにな」り、沈黙を強いる社内体制を批判していく生き方を通し続けたことに読者からの大きな共感の反応があったそうです。
労組の職場集会に出ても、ほとんど発言が出ない。不満はあるはずなのに。組合の役員経験者が、なぜか会社幹部になってゆく。おかしいと思ったことを、声にした。
根回しを無視し、職場の代議員に立候補する。・・上司は入社の時から腫れ物に触るようだった。同僚からも組合からも煙たがられる。出世とは無縁、何とも不器用な会社員人生――。そして定年の日。片付けがあるからと、わざと作業着で出勤した。定時のチャイムが鳴ると、部署を超え、大勢の人がフロアに集まってきた。 朴さんは驚いた。多くの目が柔らかに笑っている。花束贈呈。長い長い拍手が続いた。(石橋英昭)
エピソードを一つ紹介します。朝日新聞が東亜日報と提携して日韓で賞金付きの論文を募集したことがありました。その最終審査まで残った朴鐘碩の日立内での経験を記した論文に韓国の著名な文化人は、せっかく日立に入社したんだからおとなしくしていればいいのにという発言をしていたことを、同じ選考委員から私は直接話をきいたことがあります。
日立闘争は日本の教科書でも紹介され「神話化」されながら、民族差別と闘い勝利したという「美談」で終わり、朴鐘碩の入社後のことは決して触れられることなく、古巣である川崎においても朴鐘碩自身は招かれることはありませんでした。それは彼が日立の労使関係を労働者への沈黙を強いる「共生」と見て、私たちが地域で闘う中で培ってきた組織が、「共生」を共通のスローガンにして行政と一つになりものが言えないようになっている、そのことを批判したからでしょう(加藤千香子「戦後日本における公共性とその転回―1970年代を起点とする川崎・在日朝鮮人の問いを中心に―」(高嶋修一・名武なつ紀編『都市の公共と非公共―20世紀の日本と東アジア―』日本経済評論社、2013年) )。
彼は入社後、円満退社するまでの40年間、民族差別の問題ではなく、大企業の中で利益優先主義の下、労使一体となって労働者にものを言わせない日立の体質に対して立ち上がり、開かれた会社であることを求め続けました。朴鐘碩が民族差別との闘いで勝利して入社したことは事実ですが、それで終わらずその後、不義・不正、人を沈黙させるような会社の体制に沈黙せず開かれた社内のあり方を追い求めたのです。社内での孤独な闘いを本人は「第二の日立闘争」としていましたが、実は本当の「第二の日立闘争」を始めるまえの準備期間であったことが後でわかります。
円満退職後、非正規の嘱託社員として日立に残った彼にとって、そして朴鐘碩を支援し共に闘って来た私にとっても、「第二の日立闘争」、それは原発メーカー訴訟です。日本の大企業の日立、東芝、それに世界最大級企業であるGEの、原発メーカーとしての福島事故に対する責任を追求するものです。「第一の日立闘争」は民族問題でしたが、この「第二の日立闘争」は国民国家を超える人類の存亡をかけたものになります。彼は日立経営者に原発事業からの撤退を訴えます。
④在日の状況―国民国家の桎梏
日本の市民と一緒に闘った国籍条項撤廃の運動は、公務員の門戸開放では一定の成果をえるようになりました。法律には国籍条項がなかったにも拘らず地方国家公務員はこれまで日本人に限られていました。
サンフランシスコ条約の締結時に日本政府は内閣法務局の見解として、独立にあたりそれまで多くいた朝鮮・台湾人の公務員を排除するため、「当然の法理」として「公権力の行使」と「公の意思形成」に携わる職務は日本人に限るという見解をだしました。それ以来、未だにその「当然の法理」は地方自治体においては絶対的な基準になっています。
日本の講和独立とともに日本籍を「正式に」喪失した朝鮮人は外国人として排除と差別の対象になりました。北朝鮮帰国運動も背景に日本政府が朝鮮人を日本から追い出したかったという隠された動機がありました。貧困生活を余儀なくされた朝鮮人は生活保護を受けるケースが多く、そのような朝鮮人を日本政府は北朝鮮に「帰国」(=日本からの排除)させたかったのです(テッサ・モーリス=スズキ『北朝鮮へのエクソダスー「帰国事業」の影をたどる』(『朝日新聞』2007)。
国民国家の枠の中で日本は外国人を差別・排除し、在日もまた新たな祖国に自己同一化しようとしました。ここにも統治者と被統治者の、国民国家を全ての大前提にするという不幸な一致が見られます。今強調される「共生」は、あくまでも国民国家なるものを大前提にしたものです。しかしそもそもひとにとって国民国家とは絶対的なものなのでしょうか。ひとは民族・国籍にかかわらず自分の住む地域において人間として生きる権利があるのではないでしょうか。在日のアイデンティテイの模索はこのような、近代社会における人間存在の根本を問う地平にまで至らざるをえないのです。
在日は「捨てられた石」(マルコ12章10節)だと思い悩んできた私は、しかし国民国家に収斂されない在日であることは国民国家の存在価値を相対化し、人として生きることを何よりも優先する、大変「恵まれた」境遇であると思うようになりました。「私たちの国籍は天国にある」(ピリピ人への手紙3章17節)のです。私はキリスト教の個人の安定や成功を願いドグマに浸る信仰のあり方には批判的ですが、人が生まれ死ぬこと、絶対者の前でこの世の全てを相対化することだけには圧倒的な信頼を置きます。
日本において再稼働反対の運動が低調になってきていますが、それでも原発に反対する人は6割になると言われています。多くの犠牲者をだし、放射能汚染の危険性は増大し、隠されてきた事実が次々と暴露されるのですから当然のことです。しかしそのような原発に反対する運動が拡がり訴訟も多く提起される中で、不思議なことに、福島事故を起こした原発メーカー(日立、東芝そしてGE)に対してその責任を問う者、問う運動はなかったのです。圧倒的な批判の矛先は当然なことに東京電力でした。
しかし3・11以降も日本と韓国は継続して原発輸出をすると公言し実際に積極的に輸出する構えを見せたことに私は我慢できませんでした。このようなことが許されるのか、これだけの被害者を出した原発を、その原因もわからないのにどうして海外に輸出するというのか。ここから私の反原発運動がはじまりました。
日本の独立とともに日本社会から排除、差別されてきた在日はその抑圧の中で生活のために自らを隠してきましたが、そこから新しい歴史を拓き始めました。差別はあってはいけない、それを認めることはできないという人としての強い意志です。日立闘争の勝利を報じた韓国の新聞は朴鐘碩の勝利を称えそこから学ぼうとしています(『東亜日報』社説、1974年6月10日)。
既存の法律さえ不当な差別としてその変更を求める国籍条項撤廃の運動をしてきた私たちにとって、原賠法という法律があるから原発メーカーの責任を問えないということは決して認めることのできないものでした。
外国人の人権を認めるべきである、差別は許されるべきではないということが日本社会の人権意識として広くいき渡ってきたことは事実です。しかし国民国家という枠に関しては疑うこともなく当然視されてきました。これは日本人だけでなく、在日も同じです。在日の権利の主張や日本社会の問題点を鋭く批判し、あなたはどこに立つのかと日本人の立場性を問い、逆に日本人に沈黙を強いてきた在日文化人も3・11以降明らかになった地域社会の崩壊を目にして、それでは在日もその地域社会を変革していく主体なのかという点になると歯切れが悪くなります。日本の地域社会の問題は日本人のものだという意識から抜けきることができないのでしょう。
「在日」作家、徐京植のNHK番組を観てー
『フクシマを歩いて・・・私にとっての「3・11」』
実際、日本社会の外国人を受け入れようとしない体質は強く、外国人の本名を尊重し権利を認めようと主張する日本人の中でも、在日に対しては本名で帰化するか、帰化しないのであれば外国人であることを弁(わきまえ)よと言います。これは一種の脅迫ですがやはり国民国家の枠を絶対化しているからこそ出てくる発言です。
私は3・11以降、地域に住むひとは民族も国籍も関係なく一緒に災害に遭い死ぬという事実を目撃しました。それから私はネット上で「民族、国籍を超えて協働し地域社会を変革しよう」と主張し出したのですが、ネット右翼は「クソ朝鮮人!日本から出て行け!!」と私を攻撃し、私は3度にわたってグーグルを止められメールも出せない、ブログも書けないという状況に追い込まれました。おそらくこれはグーグル自身の政治的な判断ではなく、ネット右翼が大挙して私に攻撃をかけたので自動的にパスワードを使えなくしたからではないかと思います。しかし私の確信は強まり、国際的な市民による反核の国際連帯運動の拡がりを求めるようになったのです。
⑤当然の法理について
この節の最後で、ナショナリズムを喚起し外国人差別・排除に結び付く国民国家の本質的な問題として、韓国の読者に日本の「当然の法理」について説明しなければならないように思います。日本の「当然の法理」は法律でもなんでもありません、1953年に内閣法制局が出した政府見解です。しかしこのことは言うまでもない、説明するまでもない当たり前のことだということで、「当然の法理」とされてきました。
ご存知の方も多いでしょうが、川崎市は全国の政令都市の中で外国人施策に関してもっとも先頭を行く「共生の街」として知られています。職員(地方公務員)の採用に関してもいち早く門戸を開放しました。
そのために川崎市は市の職員と組合、そして市民運動が協力しあい何としても川崎の門戸開放を実現する方策を検討しました。その結果、国の「当然の法理」には逆らわないで、「公権力の行使」を新たに定義づけ、それに抵触しない形で3000以上の職務をすべて洗い出し、その2割に当たる182職務を除いて門戸を開放するやり方をとりました。それが川崎方式です。
そのために川崎市は市の職員と組合、そして市民運動が協力しあい何としても川崎の門戸開放を実現する方策を検討しました。その結果、国の「当然の法理」には逆らわないで、「公権力の行使」を新たに定義づけ、それに抵触しない形で3000以上の職務をすべて洗い出し、その2割に当たる182職務を除いて門戸を開放するやり方をとりました。それが川崎方式です。
<命令・処分等を通じて、対象となる市民の意志にかかわらず権利・自由を制限する職務>を「公権力の行使」の判断基準にした「外国籍職員の任用に関する運用規程-外国籍職員のいきいき人事をめざして」を作り外国人への門戸を開放したのですが、それは同時に政府見解の「公権力の行使」を前提にして外国籍公務員の昇進を禁じ、市民に命令をする職務に就かせないとする差別を制度化したものとなったのです。
その川崎方式は日本の全ての地方自治体のモデルケースとなり、その川崎方式を踏まえて全ての地方自治体は外国籍公務員を差別することを当然視しています。問題にさえなりません。自治省が川崎方式にお墨付きを与えて自分たちのこれまでのあり方を踏襲したということなります。しかし他の自治体は川崎市のように「運用規定」というかたちの明文化は避けています。外国籍公務員からの提訴を避ける為でしょう。
しかしこの川崎市の「公権力の行使」を判断する基準こそ、超法規的に差別を具体化したものです。そもそも公務員は恣意的に市民の権利・自由を制限できません。それは全て法治国家を建前にする以上、公務員が下す命令・処分は法律や条例に基づかなければならないからです。そうであれば、政府見解の「当然の法理」以外どのような根拠で外国籍公務員を別扱い(差別)するのでしょうか。事実、労働基準法第3条は、「使用者は、労働者の国籍、信条又は社会的身分を理由として、賃金、労働時間その他の労働条件について、差別的取扱をしてはならい」と明記しています。
しかしその差別制度に対して採用された外国籍公務員しか裁判で争うことはできません。現在川崎市には30名近い外国籍公務員がいますが、いずれそのことを問題にする人が出てくるでしょう。それは「当然の法理」に挑戦し、国民国家の枠を超えることになるということです。
(4)最後に
原賠法という原発力メーカーの責任を免責する法律があるにもかかわらず、原発メーカーに事故の責任があるということをどうして在日である私たちが追及するようになったのか、それは、差別が当然視され、国籍を理由に差別を正当化していた児童手当や国民年金制度の問題をそれはその法律がおかしい、国籍を理由に在日を解雇した日立は差別を犯した、それは許せないという、常識や差別を正当化する日本社会の慣習や制度、地域社会の中の不条理に挑戦してきた経験を朴鐘碩や私たちが持つからだと思います。
3・11の事故にもかかわらず日本と韓国が原発輸出を進めている事態を黙認できず、それを正当化する原賠法の問題点を看過せず、原賠法の背景にある、グローバリズムとあわせ戦後の植民地主義である原発体制の問題点を追求するなかで、原発メーカー訴訟が具体化しました。原発問題をエネルギー問題と日本の国内問題の枠に限定せず、原発体制とは何かということを世界の戦後史の中で改めて捉え直す必要があります。それはとりもなおさず、国民国家を大前提にする地域社会のあり方を人を中心にする新たな視点になるのではないでしょうか。
しかし残念ながら、韓国においては原賠法の持つ問題に圧倒的に多くの国民の関心がないように思えます。それは朴槿恵大統領のだしたエネルギー政策によって原発の新規建設は必至でありながら、大きな反対運動になっていないことと関係するのでしょうか。釜山に近い古里原発を見ても、日本の福島第一原発事故を古里原発を止める契機にせず、日本の原発より安全だからという「神話」が浸透している所為でしょうか、廃炉にすべきだという世論はまったく盛り上がらないように見えます。
まったく韓国も、日本、台湾と同じく、住民の安全より国策として原発建設が優先されたため、避難計画や、事故が起こった場合の対策が本気でなされているようにはとても見えません。しかし中国を含めてアジアに世界の原発の半分が建設される計画が立てられています。
国民国家の枠を越えない限り、核兵器・核発電によって世界をコントロールしている国際的な原発体制に抗することはできません。核の恐怖から逃れることを願う市民の国際連帯運動を拡げるしか、現状を打破する可能性はないように思えます。
放射能も資本も国境を越えて自由に行き来するのに、人は国民国家の枠を絶対視し、市民同士が連帯していくことができないでいます。台湾に日本の原発輸出第一号であった第四原発を廃炉にしようと昨年、25万人の人がデモをしました。年内に、ウランを使った臨界実験をはじめるそうです。しかし日本ではほとんどその事実は報道されていません。恐らく韓国においても同じことでしょう。
中国との関係のことで台湾の青年たちが国会を占拠したとは言え、彼らを支援する運動は拡がり50万人が支持のデモに参加したと報じられています。その流れは、台北から30キロ圏内に作られた第一、第二そして第四原発で年内に実施される臨界実験をそのまま黙認するとは思えません。私は台湾の「革命前夜」の動きは、必ず原発の廃炉の運動につながると思います。
私たちは今年の9月にNo Nukes Asia Forum 2014
in Taipeiを計画し、アジアから反核を求める人たちが結集し、台湾の民衆運動を支持・連帯しようと考えています。特に韓国の若い人たちが密陽や霊光、三陟での運動を全アジアの民衆運動の一環として捉え、アジアの人たちとの連帯の必要性を強く意識して行動するようになることを願います
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