2013年11月19日火曜日

神奈川県在住被爆者の現状について学ぶー被爆者の証言

韓国の被爆二世で患友会の会長である韓正淳(ハン・ジョンスン)会長と事務局長のチン・ギョンスクさんから去る7月に心打つ、未来に向けたメッセージを聞きました。
  2013年7月23日火曜日
  韓国の被爆2世からの心打つ、未来に向けたメッセージ
  http://oklos-che.blogspot.jp/2013/07/blog-post_23.html
民衆法廷の証人として来日された韓正淳さんは、法廷では伝えられなかったこととして、日本の被爆二世との連帯ということを川崎集会で強く訴えられました。その話を受けて川崎の有志で被爆二世のことを考え具体的な行動を模索しはじめました。私はその末席にいます。

この度、古野さんが第一回目の集会記録を作ってくださいました。まずはその大いなる労力を称えながら、日本の被爆者の証言に耳を傾け、これからの課題について議論を深めていきたいと願い、私のブログに公開させていただきます。   崔 勝久

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神奈川県在住被爆者の現状について学ぶ

第一回学習会    2013119日、1730分~20
講師:中村雄子さん 神奈川県原爆被害者の会事務局長

中村さんは今年81歳になられるとのことですが、大変お元気そうで、広島の地図を持参され、被爆当時の事から初めて、これまでのご生活、そして被団協に入られてからのこと、今なさっている運動について話をされました。
講演
194586日のこと
被ばくしたのは13歳、(広島県立第一高女)2年生のときだった。その年3月父親が戦死し、牛田の家から祖父母の住む宮島口に引っ越して電車で通学していた。軍事工場の多い市内に働き盛りの成人はおらず、女学生までが工場へ駆り出されていた。しばらく煙草製造工場で働いていたが、717日から市の中心から少し離れた航空機工場で飛行機の部品と思われるジェラルミンの破片を磨く仕事をしていた。

その時まで広島市は空襲らしい空襲に遭っていなかった。86日は配電を休む「電休日」で工場は休みだった。それで5日、先生が「今年は泳いでおらんけ、明日は泳ぎに行くか、水着持ってこい」と言われた。翌日はよく晴れ、高須駅から工場に歩いて向かうときも嬉しい気持ちだった。ところが、先生が敵の飛行機が来て様子がおかしいから、それぞれの場所で待機しておけ、と言われたので、自分は工場の中で本を読んでいた。そのうち、「飛行機が一機来た」という声がした。しかし一機なら空襲じゃないと思っていた。

ところが「落下傘みたいなもの落とした」という声がしたので、珍しいと思って腰を浮かした瞬間、ガラス窓の向こうがピカッと光り、そちらを向いた途端、爆風がガラス窓や土壁を破って吹き込み、私は沢山のガラスの破片に突き刺され、部屋の端まで吹き飛ばされた。(そのときのことを中村さんが絵に描かれたものが神奈川の被爆者の画集に載っており、それをみせながら話をされた)今もその傷が残っている。

飛行機は又戻ってくると思い、工場を逃げ出して近くの防空壕に逃げた。体中が血だらけだったので、前にある井戸の水で拭いていた。先生がさっと薬を塗り包帯を巻いてくださった。そのとき、空の上から黒いものがポタポタ落ちてきた。黒い雨だったが、その時は何なのかわからなかった。皆は飛行機が戻ってきてガソリンを撒いたと思った。こうして皆殺しにするつもりなんだと皆で話しながら防空壕へまた逃げた。その日は青空だったが、逃げるとき、水色の雲がウヮ-ッと広がってきたので怖かった。それは遠くからきのこ雲に見えたものが西へ流れてくる途中の姿で、そのとき黒い雨も降ったようだ。私たちがいた己斐(こい)・高須古江(ふるえ)地区は特に黒い雨が降ったところだ。私は怪我をしていたので先生は家に帰るよう言われたその日、宮島線は古江の次の草津から動いていた。これはすごいことだった。それで血だらけの姿で家に帰った。

 われわれは爆心地から少し離れた工場に行っていたが、一年生は、火除け地を作るため家屋をこわす作業を市の中心部で手伝っていた。壊した家屋の廃材を仕分けする仕事だ。丁度作業前で朝礼を終わった頃、落下傘が落ちたと思う間もなくピカッと来て、同窓の一年生223人全員が亡くなった。数人大やけどをしながら生き延びた人もいたが結局亡くなった。広島では動員されて建物疎開をしていた学徒8000人のうち6000人が亡くなったといわれる。(本を見せながら)これは、広島の資料館が毎年出している資料のうち「学徒動員」を特集したものだ。学校別の死亡者が出ている。若い人たちが亡くなった話をするのはいつもつらい。  

原爆投下後の広島
 原爆が落ちた後9月に入ると、ニューヨーク・タイムズやロンドン・デイリー・ニュースの記者が広島の報道をしにやってきた。そして「これほどの惨状はあちこちの戦場を回ってきたがはじめてだ」という記事を書いた。すると、アメリカのファーレル准将が翌日広島に来て、「広島では死ぬべき人は皆死んだ、9月初旬に苦しんでいる人は一人もいない」と言った。これは大嘘だ。救護所の中でどれだけ苦しんでいたか。しかし、それ以降プレスコードが布かれた。一切の原爆に関する報道は指し止められた。研究も、報道も、しゃべることさえいけないとなった。私たちは、自分たち自身で机を運んだりして女学校を再興したが、アメリカ兵を見ると皆シーッと言い合った。約8年間隠ぺい状態が続いた。原爆投下後、東大の都築(正男)博士がすぐ原爆症の調査をされたが、それも一切取り上げられなかった。

8年が過ぎた後、今度は日本政府が報道差し止めを2年やったので、結局10年間隠ぺいが続いた。 その間に沢山の人たちが、何の手当もなく苦しみながら死んでいった。被爆で大やけどをすると、皮膚が赤剥けになるが、普通の場合皮膚は再生する。しかし、放射線だと皮膚は再生しない。再生しない皮膚にウジがわく、救護所はそんな人であふれていた。手当をする人もいないまま、排泄物や胃から吐く血があふれた中、亡くなっていった。その年の暮までに、死者は広島14万人、長崎7万人、合計21万人と言われる。隠ぺいの10年間に、癌、とくに白血病で亡くなる人が多かった。それでもそれは原爆が原因だとは言われず、伝染病と言われたりした。 

被団協結成と被爆者集会への参加 
 その後、1954年(昭和29年)のビキニ水爆実験で被爆者が出たことから、抑えられていた感情が一気に爆発し、杉並から始まった署名運動が2000万を越え、1965年(昭和30年)8月には、第一回原水爆禁止世界大会が広島で開催された。そして1966年(昭和31年)8月、長崎で第二回世界大会があったとき、日本被団協(日本原水爆被害者団体協議会)が結成された。

 ビキニの水爆実験のころ、私は結婚していた。その年、マグロはガイガーカウンターで放射線量を測定され、全部破棄されていた。それにつられてブリがものすごく安くなった。貧しい家計のなか、安いブリを沢山買って食べた。しかし安かったのは1年間だけ。生活に追われ、子供のミルク代を工面するのに懸命だったので、私の意識はその程度だった。

 被爆者手帳は、1957年(昭和32年)から発給されたが、夫がもらった方がいいと言ってくれたので、34年に取った。その時は2キロ以内だと特別手帳だったが、2.8kの私は特別手帳ではなく医療費は出なかった。その後、特別手帳は3キロ以内となり、私にも国民健康保険から出る費用を除いた残りの自己負担分の医療費が出るようになった。様々な病気に対し、手当は始め2000円程度で、しかも所得制限・年齢制限があった。被爆者は、昼間勤めながら、国会や厚生省への働きかけをした。自分は夫の転勤に伴いあちこち転居していたが、それぞれの場で被爆者の会を覗きに行った。兵庫に住んでいた時は兵庫の会に参加し、大阪、山口でも参加した。ただ、転勤期間が短いので集中して何かすることはできなった。

 印象に残っているのは大阪の総会で、分裂の時期だった。怒号のなか、米ソのどっちの核が悪いのか、抑止の核なら良いなど主張をする人もいて、殆ど男性たちが議論を戦わせていた。自分は被爆者として、原水爆、核兵器は悪い、と思っていたので、この議論には腹が立ち、しばらく被ばく者の会に参加するのをやめてしまった。核兵器廃絶に対してこのような思想的分裂は許されない、と今も思っている。

山口では20年間過ごし、被爆者の会にも入った。温泉で有名な湯田に、募金や寄付、おそらく県の補助で湯田園という被爆者保養施設が作られた。しかし、行ってみると、補助金などは施設存続のために使われていて、被爆者は打ち捨てられているという感じを持ち反発してしまった。その後、28年前夫が東京転勤となり、今度は神奈川に住むようになった。しかし、このように、長く集中して被爆者のために活動することはできないままで来てしまった。平塚に住んだが、そこの被爆者の会にとても熱心な方がおられ、勧められて加わった。
アニメ『夏服の少女たち』とその後
 そのころ、86日に、『夏服の少女たち』という実写混じりのアニメをNHKが放映した。これは、223人全員が亡くなった同窓の1年生の話で、彼女らが残した日記をもとに作られていた。最初に画面に登場したのは、一緒に宮島から通っていた森脇瑶子さんの、目のぱっちりした可愛い写真だった。日記は彼女のものを主に使ったそうだ。宮島からの船でお母さんがせっかく買ってくれた帽子を風に飛ばされる場面もアニメに出てきた。

この番組を見て、彼女たちが戦争中、したいこともできず、勉強したくてもできず、遊ぶという気持も当時はなく、必死で生きていたところを原爆で死んでいったことを改めて思いだした。このことを忘れてしまってはいけないのだ、特に今の子供たちに分かってもらいたい、小学校6年生や中学校12年生を前に、亡くなった子供たちのことを話すのが自分の務めだと思うようになった。

 自分の子どもが小学生と幼稚園生になったころ、31歳のとき大病になり、2回手術を受け卵巣を二つ取った。女性としてこれをいうことができるようになったのは70歳を過ぎてからだ。あのころ夏になると新聞に原爆による死没者の病名がよく出ていた。その中で卵巣がんは結構多かった。医師は言わなかったが、自分も卵巣癌だったのではないかと思った。夏はだるくて起きていられず、冬はすぐ風邪をひいて寝込む、いわゆる「原爆ぶらぶら病」のような状態だった。しかしそのような中で、運動に入っていった。

 その後、長く神奈川の運動を支え、すべてを分かっておられる被団協事務局長が、脳溢血の発作で68歳で倒れられた。左半身が不随となられ、辞職の意思が固いので、私が何も分からないながら、65歳で仕事を引き継ぐことになった。
被団協の闘い
 被爆者運動はこの60年間、多くの人が頑張っていろいろ勝ち取ってきたが、運動の中心を担った人たちの殆どが亡くなってしまった。

今、「現行法の改正」を求めて運動している。改正点は、原爆で亡くなった人、戦争で亡くなった人すべてに対し、国は償いをするべきだということだ。国家補償、これは国が一番やりたくないことだが、孫振斗さんが在外被爆者にも日本人同様の援護を求めた裁判で、最高裁判所は次のような判決を下した。「(被爆は)遡れば戦争という国の行為によってもたらされたもの、原爆医療法は、特洙の戦争被害について戦争遂行主体であった国が自らの責任によりその救済をはかるという一面をも有するものであり、その一点では実質的に国家補償的配慮が制度の根底にあることは、これを否定することができないのである。」

こうして、すべての被爆者への国家責任を明確にした。この判決はわれわれの力になっている。軍人・軍属は国との契約があるので恩給などが受けられる。しかし一般市民にそれはない。だが、被爆し、支援もないまま亡くなった人に対して、国は何らかの補償をすべきだ。勿論被爆者の遺族も高齢化しているだろうから、今更金銭を手にできる人も少ないだろうが、今後のため、「戦争で亡くなった人には一般市民であっても補償する」という確約がほしい。これは戦争をしないという約束でもある。
原発反対
原発には原爆とは違う恐ろしさがある。被爆者は始め、あんなに恐ろしい原爆が平和に使われるのならと思って反対しなかった。しかし、次第に同じものではないか、ということで原発にも反対するようになった。私は3年前、国連に行ったとき、ニューヨーク市立大で話をする機会があった。話のあと、大学生が「被ばく者は原子力の平和利用についてどう思うか」と質問した。そこで、「アメリカも日本も原発の恩恵には浴している。しかし、被爆者は、核、原子力の恐ろしさを身を以て体験しているから、「安心」は絶対にないと確信している、だから原子力利用には賛成できない」と答えた。「自分はあと何年生きるかわからないけれど、みなさんは若いのだから、クリーンなエネルギーの開発を一生懸命やってください、原子力はこわいです」と言った。

その翌年、福島の事故があった。原爆は熱線、放射線、爆風を受ける大きな災害だが、一回きりだ。広島ではその後大型大風が来てかなり水に流してくれた。そのため75年間草木も生えないと言われたが、今そうはなっていない。しかし、福島はいまだに放射線を垂れ流し続けている。小泉元総理が使い済燃料の捨て場もないということを言われている。

最近福島の子供たちがどのくらい放射線を浴びているか測るため胸に(ガラス)バッジをつけている。そのバッジを下げた可愛い女の子の写真をいつも鞄にいれている。こんなものをつけなければいけないのか、こんなものをつけなくて済むように早くなってほしいと思う。事故現場で作業する人も何時間か経つと警戒音が鳴り作業を中止しなければならないという。福島をなんとかできないのか。阿部さんは言うことは調子がいいが、どうするかという内容がない。阿部ファンの方がおられたら申し訳ないけど、自分は阿部さんがテレビに出てくるとチャンネルを変えてしまう。許せないと思っている。あの家系は山口では毛利藩のころから家老をしていたということで、山口にいたころ偶々訪ねたことがあるが、家もすごく立派だ。佐藤栄作がノーベル平和賞をもらったのも許せない。
韓国とのつながり 
広島で韓国の方が多く住んでいたのは、(地図を指しながら)この福島町で、爆心地から2キロくらいの所だ。植民地出身ということで日本人は大変な苦労をさせた。その中で原爆に遭って死ななければならなかった人が大勢いた。
今年と一昨年と2回韓国の慰霊祭に出席したが、3年前に行ったときは、韓国が冬のオリンピック開催地に決まったときだった。

19456年ころ、毎日のように韓国へ大勢帰って行く朝鮮の人がいたが、北朝鮮への帰国は少しあとだった。ある日、母親と一緒に駅で列車を待っていた。当時、列車にはなかなか乗れなかった。あきらめていたら、韓国へ帰る朝鮮の人だけを乗せた、アメリカ兵に率いられた列車が駅に止まった。するとアメリカ兵が乗れと言ってくれたので乗った。大勢の朝鮮の人に囲まれるなか、母親が目の前の青年に「大変つらい思いをされましたね、これから国に帰られたら、お国で頑張ってくださいね」と言った。すると、若い青年が握手をもとめて手を差し出し、母と握手した。このことは強く印象に残っている。慰霊祭の挨拶でこの話をした後、原爆で亡くなられた大勢の韓国の人たちに、今発展している韓国、冬のオリンピック招致の決まった国を見せてあげたい、と話した。そのとき、いいお話しをしてくださいましたねと言われた。

講師との質疑応答
神奈川の被爆2
質問:神奈川県の被爆2世について話してほしい。
講師:神奈川では、まず2世の人たちが健康診断を受けられる体制を作った。その後われわれの会が一生懸命運動したのと革新系の長洲知事の力添えもあって、医療補助を伴う被爆者手帳の交付となった。被爆1世には健康管理手当という何種類かの手当があるが、対象になる病気は11種類だ。これに2世の人が罹った場合、自己負担分を補助することにした。東京は入院に補助がでるが、神奈川では通院でも補助が出る。この11種類の病気に癌もふくまれており、最近は癌になったり癌で亡くなられる2世の方も増えているようなので、助かっている。その中には糖尿病もあり、治療が長くなるので、この助成があるのはよい。しかし、国民健康保険、社会保険に加入していることが前提だ。被爆手帳があっても保険証を持たなければ補助対象にならない。

保険料を払えない人もいるので、その場合は、12か月有効の保健証もあるから、少しのお金を入れて保険証をもらったらいいと話す。2世の人に被爆手帳を出しているところは、国内でもとても少ない。しかし、神奈川県では、被爆手帳を持つ人は多いのに、検診を受ける人は400人と少ない。それは、2世はまだ現役の人が多く、職場の検診の方が種類が多いのでそちらを受けることと、2世には検診に癌が入っていないためだ。医療機関で癌の疑いをもたれ、精密検査を受けたり治療を受ける段になえると補助の対象になるが。もう一つ大病をしている2世はすでにいろいろ検査を受けているので受診しない、これらが受診者が少ない理由だろう。

 神奈川では十数年前に2世調査を行った。被爆1世に子女のことを調査書1人1枚づつで書いてもらった。800位返信があった。そこには、この提出に2世の了解を得たか、2世は2世被爆者の会に入りたいと思っているか、資料を送ってほしいかなどの項目も入れた。しかし、これが被爆2世が2世の会に入るきっかけとなったかというとおぼつかない。現在、「ニュース」を送っている2世は180人、会費を入れている人は100人ちょっと、役員をしたりして常時参加している人は10人くらいだ。ニュースは『青桐』という名だ。被爆地広島で芽生えた青桐にちなむ。2世はすでに60歳を越えている人もいる。

質問2世の方にご病気の人はあまりおられないか?
講師:おられるが、一般の人と比べてどうかというのは私にもわからない。本当は2世調査が必要なので、厚労省にも23世調査をしてほしいと我々も言っているが、厚労省は23世に関心を示さない。また、2世の人にもひっかかるものがある。2世は原爆に遭っていない、しかし、遺伝的要素があるから検診や医療費助成の対象になっている。「遺伝」が考えられないと2世と言えない部分があり、それが一番ネックになっている。中には「2世」と言われたくないと言う人もいる。

質問2世に限らないが、検診を受ける場所や期間は決まっているか?
講師:被爆手帳は県内の医療機関であれば殆どどこでも使える。ただ、検診は指定医療機関で、1世は5月と11月、2世も前は同じ時期だった。2世はこの他に希望検診を2回受けられた。このように4回受けられたのに受ける人が少なく4回受けた人は1人だった。それで、今は、2世の検診は年1回となった。ただ、期間は5月から3月までならいつでもよいことになっている。指定医療機関により、時期を限定しているところもあるので、あらかじめ問い合わせた方がよい。

質問:受信項目の中に足りないものはないのか?
講師:運動としては項目を増やすことをずっと要請している。特に2世の検診項目に癌を入れてほしいということは10年も言い続けている。去年あたりからは2世も一緒に厚労省に行っている。西日本に2世だけで被団協とは関係をもたずに活動しているグループがある。この人たちも厚労省によく行っていて、勉強もしているが、日本被団協のような都道府県に会のある全国組織と一緒でないと厚労省も一応話は聞いても相手にしてくれないのではないだろうか。

医師の研修
質問:指定医療機関でなければならないのは、被爆者特有の症状があるかを見分ける特別の知識がそこにあるからか?
講師:最近は若いお医者さんが多いからそのようなことはあまりない。この頃は民主医療連合会に属する診療所を皆さんにおすすめしている。私も検診は診療所で受けている。被爆者が沢山行くのでちゃんと対応してくれる。

質問:沢山医療機関があるなかで、被爆者の人が行きやすい病院があるということか?
講師:大きい病院だと患者も多く、「被ばく者です」といっても流れ作業的に扱われてしまう。その点、診療所は親切に扱かってくれる。しかし手術となったら診療所ではできないから大病院に行かなければならない。

質問:医師は被爆者をみるための研修を受けているか
講師:広島・長崎では原爆病院もあるし、医師研修が行われている。しかし、神奈川では戦争も原爆も知らない若い医師が多く、研修はやられていない。

質問:被爆者検診のための医師研修を行うよう文科省か厚労省に交渉したらどうか
講師:厚労省はそういうことを言っても洟もひっかけない。申し入れはしているが。

質問:福島の事故もあるし、それと合わせて放射線についての研修を医師もやった方がいいとうが。
講師:しかし、原爆とフクシマを一緒にしたくないという考えが厚労省にある。被爆者に何かすると、今度は福島の方も何かしなければならなくなるのではないか、というような。

質問:今は原爆とフクシマだけに限らない。診療の医療被曝も日本は世界一多い。X線を使う胃がん検診をしている国は他にない。医療被曝も含めて医師は放射線のことをもっと知った方がいい。
放射線被害と医師
講師:それはそうだが・・私たちはなかなかそういう話にまで行かない。これからはそういう風にやって行かなければいけない。厚労省がどう考えているかはわからないが、福島の問題はすごく大きい問題だと思う。原爆の時は後から市内に入った人もいたが1か月位の期間で、その時一回きりだった。福島は垂れ流し状態だからそれが問題だ。

東海村の事故で大内さんと篠原さんのお二人が亡くなられた時の記録をNHKが放映し本にもしたが、あれは全世界に発信すべき内容だと思う。お二人は火傷していない。放射線を受けているために、皮膚はきれいだったのに絆創膏をはがすとその皮膚が再生しなくなる。妹さんの皮膚を移植してもダメだった。これと同じ状況が体内全部で起きた。皮膚が再生しないから中の赤身が出てしまう。火傷はしていなくても放射線の影響はそんなに怖い。お二人を東大病院に運んで90日間本当に大変な看護をされた前川先生に、なぜか電話が通じてしまい、先生に一度来ていただいてお話しを伺いたいと申し上げたことがあった。

先生は(お二人の死は)まだ最近のことなので、ご遺族のことや回りのこともあり、(仕事を?)終わることができないと言われた。私はあの内容は全世界に出していただきたいと思う。お読みになるといいと思う。『朽ちていった命』でしたか?(会場から『朽ち果てた命』、文庫本で出てます)前川先生にもっと発表していただきたかったと思っている。最高の医療をもってしても放射線被害を治すことはできなかったということを。

質問:最近、退職なさった先生が被爆後68年たってから発症する病気があることを発表された。いままで見られなかった疾病が出てきた。このような放射線医学の専門医は神奈川県におられるか?
講師:ちょっとわからない。広島にはいらっしゃる。広島の生協病院院長だった斉藤(おさむ)先生は福島のご出身だった事故の2年前に福島市のわたり病院の医師になられた。先生はいろいろ言ってくださっているが、もっと言って下さってもいいと思っている。われわれと考えが違うかもしれないけれど。

2世の実態と残留放射能
質問:中村さんはお子さん2人育てられたと伺ったが、もうかなりの年齢になられたと思うが、健康の方はどうだったか?
講師:二人ともまあふつうの健康状態だ。上の子が今年還暦で60歳になる。下が567.大病はしていない。男の子が高校時代に過激な運動をしていて血尿が出たので、心配したが、突発性腎出血と言われた。それ以後出ていない。

質問:被爆2世の話のなかで、これは遺伝かと思われた例はあったか?
講師:戦後すぐ、昭和21年や22年とかに生まれた人のなかには、障害を持って生まれた人が多かったようだ。知的障害や身体障害などだ。それが原因で亡くなった方もいた。戦後早い時期はそのような隠された事実があったのではないか。広島ではそういう子供が生まれたという話を聞いたことがある。最近はあまり聞かない。自分は放射線被害で遺伝子が害を受けてもそれがずっと残るとは思っていない。

会場 放射線は広島市内にずっと残っていた。だけど、残留放射能を福島のように測っていない。
講師:残留放射能のことで、厚労省と交渉しているが、入市被爆者を厚労省はあまり認めない。新しい基準で2キロ以内に原爆投下後100時間以内に入った場合は認めるというのがあるのに認めない。実際、私は宮島にいたが、漁師の方が、広島が大変だから助けに行くといって出かけて、何人かは帰ってきて亡くなった。彼らは被爆しておらず翌日行ったのに亡くなった。

このように残留放射能はあるのに、厚労省や御用学者といわれる人たちは認めない。それで裁判で原告306人、うち神奈川から12人が闘って、一人だけ敗訴したが後は裁判で認められた。その中には爆心地から5.4kのところで被爆して癌になった人も入っていた。裁判所と厚労省の間には隔たりがある。今、認定制度のありかた検討会が作られているが、被団協からは2人しか参加しておらず後は厚労省サイドの人で苦労している。戦後60年ずっとこのように積み重ねをしてきた。

韓国の方は、当時日本国籍を持っていて被ばくしたのだから日本人と同じに扱ったらいいと私は単純に考えていた。いろいろな法律があってできない状況だったが、今は韓国にいても手帳を手に入れられる。医療費も今度少し増えた。上限が増えたようだ。少しずつ良くなってきている 2世については日本でやっていないから、韓国でも殆どされていない。

韓国の被爆者
会場 韓国では今、日本政府がやっていなくても、人権を護る観点から在韓被爆者2世についても医療費補助を立法化しようとする動きがある。
会場 地方では、ハプチョン郡だと被爆2世が健康診断を無料で受けることができたり、慶尚南道では、道が123世の健康実態調査を行い結果の分析をするなどしている。
会場 通常者と比較して異常に罹病率が高いので驚いた(これは2004年に行われた実態調査の結果の話だが、この報告書の概要は中村さんにも送付していた)。十分手当をされてこなかったことにも原因があるのだろう。

質問:韓国の方が多く住んでいた福島町は己斐(こい)の手前か。己斐(こい)は広島の西で黒い雨が多かったと聞く。福島町に黒い雨が多かったことは知られていることか?
講師:風が西に流れたので、己斐(こい)、高須、福島町はそうだった。私も黒い雨にびっしょりになった。

質問 今のホットスポットだ。そこに朝鮮から来た人たちは住み続けたのか?
講師:自分は早く広島を離れたため見ていないがが、韓国の人たちは家が壊れていても住んでいたと思う。だから、放射線の影響は沢山受けている。

黒い雨の再調査
質問:今、広島で、黒い雨の地域を調べなおすということが行われているようだが、韓国の人が住んでいた地域もその対象として調べ直しているのか?
講師:そこはちょっとわからない。手帳を取るとき、被爆場所を書かなければならないが・・・。

質問:黒い雨調査というのを去年NHKでやっていた。アメリカがやった調査のデータがずっと放影研に眠っていて、それが出てきたから、調査をやり直している、と聞いた。広島大学の大谷先生がその結果を解析して黒い雨については違った結果になるかもしれないと聞いた。データをもっているのは放影研だが、そのデータに今韓国籍を持っている人の居住地は一致するのか。
講師:戦争が終わっていきなり日本人から韓国人にしたのではなくて、正式には5年くらいかかっている。居住地は把握できたのではないか。
会場発言 ABCCが来たのも5年後だった。しかし、黒い雨に関する指摘はもっと前からあった。

参加者が韓国に関心を持つ理由
講師質問:皆さんが韓国のことに詳しいのはどうしてなのか?韓国に住んでおられたとか、韓国籍をもっておられるとか?
会場:孫振斗さんが裁判で最高裁までいって勝訴し、韓国・朝鮮人であっても手帳を受け取れるということが決まったのに、その後すぐ厚生省が衛生局長通達402号を出して、一旦日本を出たら手帳は効力を失うとした。裁判所の判決をこんなこせこせしたやり方で覆した。しかもこの条項が廃止になったのは2003年だった。長い間汚いやり方をしてきた日本に腹が立ち、韓国の被爆者のことをもっと知り、できれば償いをしたいと思った。
会場 自分は6年程韓国にいたが、被爆者は終戦当時日本にいたので親日派だと見なされた。だから言えないで苦しんでいた。被爆者のことも慰安婦のこともそうでだが、申し訳ないという気持ちだ。

11種の検査項目と放射線との関係―国家補償の代わり
質問11の病気は放射線と関係があるのか?
講師:それはわからない。私が55位のとき病院に行ったら、腰が痛くないかと先生に聞かれた。最近ちょっと痛い、と答えたら、先生はレントゲンを撮り、その結果、ちょっとおかしいから健康管理手当の申請書を書いてあげる、と言われた。先生は、国は国家補償ができないから、運動機能障害は放射線の影響が直接あるとは思えないが、これが入っているのは、国家補償の代わりなのだ、堂々と腰が痛い、膝が痛いといっていいのだ、といわれた。

質問:国家補償を認めないということは、他の「戦争被害と同列になるからということか?
講師:というか国は、戦争という不測の国難の時に、国民は等しく受忍せねばならないという、受忍論をいう。被爆者に対しても、受忍せよといった。国民は全部受忍しなければいけない。この頃の若い人は、戦争は自分たちに関わりのないことと思っているようだが。

慰霊祭で祭られる新しい柱
質問:毎年8月の原爆犠牲者慰霊式を見ていると、「幾柱」が入ります、と言われている。すごい数だが、あれだけの人が原爆病で亡くなったということか?
講師:原爆に関係する病気ではなくて、手帳を持っている人で亡くなった方の数だ。神奈川でも毎年190人くらい亡くなっている。手帳もったひとでも、慰霊碑(の死者名簿)に入りたくないと言えば入らなくて済む。

質問:手帳を持っている人はどの位いるか?
講師20万位いる。一番多いときは30数万人いた。毎年900人~1万人くらい亡くなっている。あと10年経てば殆どいなくなる。

被ばくの実態とタブー、日韓のこと
質問:占領下、それぞれの被爆症状を被爆者同志で情報交換したり他人に言ってはならないという規制があったか?
講師:自分は13歳の子供だったから全体的な把握はできていなかった。ただ、2122年ころ生まれた子供に障害者が割合い確立的に高い、やはり影響があるのかなとは思う。身近にそういう例を見た。ただ、これを人には言いたくない。今だからこそ話すけれど、この話はあまりしたくない。障害者のことは子供に関しては特に言いたくない。

質問:被爆者の会のなかでもそうなのか?
講師:そうだ。噂で、あの人の子供さんはちょっと、というのは聞くが、それが話題になることはない。ふつうの病気ならいいが、また相談電話はかかってくるが、障害や子供の癌のことはあまり言わない。韓国では23世の人がはっきりものを言っているが、日本では2世は自分自身からはちょっと、と言う感じだ。原因は親からの遺伝しかないから。
知っている人で、原爆投下後比較的早く生まれた人のなかには結構障害のある人がいるようだが、遅く生まれた人ではあまり聞かない。ただ、これは推測だ。調べるのも難しいと思う。韓国では2世に疾病発生率が高く、多すぎるという感じがする。

質問:タブーで隠している人を除いても多い。
講師:多い。
会場 栄養状態とか困窮状態の影響が大きい。
会場 軍需工場で危険物を扱ったりしていたのと被爆が重複していた可能性もある。
講師:直接朝鮮から来た人を目にすることはなかったが、母からは大変だと聞かされていた。

司会日本が原発を外国に売ろうとしている今、被爆者がこれからも世界で増えて行く可能性がある。被爆者からの証言を聞くと、身につまされて繰り返してはいけないと思う。国境を越えて被爆者同志手をつないでゆきたいと思う。

講師:最初は被団協と繋がってやっていくのがいいと思う。国と国の関係の部分があるから。今回神奈川の2世会員の人とのつながりをとも思ったが、やはりきちんと被団協との関係を作るのがいいと思う。これからはわれわれも2世の人を中心にしようと思っている。

1 件のコメント:

  1. 村田  弘 (原発民衆法廷事務局員 福島原発かなが訴訟原告団代表)2013年11月19日 12:28

    貴重な記録を読ませていただきました。労作に心から敬意を表します。
    非道・理不尽を国家に悔い改めさせることが、いかに遠く困難な道であるかを改めて知らされました。同時に、被害者自身が、譲ることのできない「人間の尊厳」を掲げて訴え続けること、それが心ある人々に届き、一歩一歩狭い道が切り拓かれていくのどろうという希望も感じさせていただきました。福島原発の被害者の一人として、できる限りの連帯を、と思っています。    

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