2013年7月21日日曜日

原発を問う民衆法廷ー第10回東京最終法廷

原発を問う民衆法廷ー第10回東京最終法廷は7月21日の参院選の選挙日に持たれました。TV速報では自民党の完勝です。原発反対の声がそれでも50%を超えると言われながら、実際の選挙ではアベノミクスという得体の知れない、景気の回復がすぐ目の前に来て150万円年収が増えるというような「まやかし」の声、「ねじれ解消」などという憲法改悪にまっしぐらに進むような公約が日本人大衆には受けたようです。これからはやるべきことを足元でしっかりとやるしかないですね。

さて、原発を問う民衆法廷は1年半をかけての巡回法廷で、今日が最後ということでした。本当に裏方の努力は大変なものであったと思います。皆さん、お疲れさまでした!

原発や原爆被害者から直接証言をしてもらい、そこから学ぶという方針であったようですが、最後に自分自身が問われる、裁かれるという姿勢を主催者側がもっていたことには驚きました。みなさん立派ですね。

法廷で学ぶべきことは多々ありましたが、もっとも印象的であったのは、広島平和研究所の田中利幸教授の法廷判事としての最後の意見でした。田中さんは、日本政府は広島・長崎への核爆弾投下は敗戦後まもなく、非人道的なものであるとしてアメリカを批判する内容の声明をだしたというのです。

しかしその後、核兵器を科学の発達の象徴とみなす論調になり、被害者として多くの民間人を殺戮したアメリカの非人道的な行為の責任を問うことは一切なくなり、同時に植民地支配の加害者であったことの責任を問うことも忘却していったと捉えます。即ち、自らの戦争責任を問うことなく、発達した科学兵器によって戦争に負けたという位置付けになりそれを追いかけることに集中し、自らの戦争を進めた責任と、非人道的なアメリカの核爆弾投下の責任を問うこともなくなったという理解です。その通りだと思います。その責任を問わない体制が戦後一貫して続き、福島事故においても誰も責任を問われないということになっているというのです。

一方、韓国の被爆二世の韓正淳(ハン・ジョンスン)のすさまじい痛みと、物心両面での苦しさにあってそこから立ち上がった姿には感動を覚えます。同時に彼女に見えてきた地平は明解です。朝鮮支配をした日本帝国主義と非人道的な核爆弾を投下したアメリカの責任を指摘します。同じ、被爆し苦しんできた多くの日本人被爆者になかなか見えないことも彼女はすっきりと、世界の支配構造の仕組みとして見抜いたようです。
自分の苦しみから出発し、仲間の被爆者の苦しみをも担い合う闘いを進める中で社会の構造が見え出したのだと思います。彼女の証言内容を紹介します。


韓国原爆2世患友会会長・韓正淳(ハン・ジョンスン)

こんにちは!
 私は韓国原爆2世患友会会長の韓正淳(ハン・ジョンスン)と申します。

1945年8月6日、私の父と母、姉と兄、祖父と祖母、そして7人の叔父、合わせて14人の私の家族が広島で暮らしていました。当時、母は妊娠中でした。

米国が広島に原子爆弾を落としたあの日、私の家族は爆心地から少し離れたところに住んでいたそうです。1945年8月6日当日、祖母は火傷を負い、二人の叔父も脚と顔に火傷を負いました。母は崩れてきた壁の下敷きになったといいます。母はかろうじて命は助かりましたが、脊椎が損傷しました。母は曲がった脊椎が原因で、苦痛に満ちた人生を生きています(現在は陜川の原爆被害者福祉会館で暮らしている)。

母は妊娠していたため、解放後すぐには故郷へ帰れませんでした。子どもを産んだ後、母は1946年に故郷の陜川(ハプチョン)に帰りつきました。母はケガをした身体で子どもを抱えて故郷に帰ってきましたが、厳しい現実が待ちうけていました。結局、赤ん坊だった兄は原因不明の病気で亡くなりました。

故郷の陜川で、母は6人の子どもを産みましたが、私たち6人は様々な病気を抱えながら苦痛に満ちた人生を送っています。一番上の姉と二番目の姉は脳梗塞を患い、二番目の姉は両肩の関節手術まで受けました。三番目の姉と五番目の私は大腿部無血性壊死症という病気で、両脚とも人工関節の移植手術を受けました。30代初めに受けた人工関節の寿命は10年です。私は近々、三回目の手術を受けねばなりません。すぐ上の兄は心筋梗塞や狭心症の手術を何回も受けました。6番目の弟は歯が全部抜け落ちてしまいました。さらに原爆の傷痕は、私たち6人の子どもだけにとどまりませんでした。

私の息子は脳性マヒ障害をもって生まれました。今、息子は31才ですが、いつも横になっているため一人では何もできません。食事から排泄まで、すべて私の手を借りなければなりません。この現実をどのように克服していけばいいのでしょうか。人工関節の移植手術をまた受けなければならない私の苦痛より、木のように固くなって動けない息子を見ながら、血の涙を流す母の心情を誰が分かってくださるでしょうか。

私は1959年1月、慶尚南道 陜川で生まれました。他の子より著しく虚弱だった私は、よちよち歩きの頃、転んだそうです。小学校を卒業して中学校に通うようになって私の苦痛は始まりました。15才の時、脚がひどく痛み始めました。学校から帰ってくると、しばらく座って脚をもまなければなりませんでした。時がたてばたつほど、ますます痛みが激しくなりました。痛みは、握りこぶしや棒で叩いて何とか我慢できるほどひどくなりました。こうして、どうにか中学校は卒業しましたが、苦しい家庭の事情で高校への進学をあきらめて就職せざるをえませんでした。

最初の職場は繊維会社でした。昼間と夜間の2交代制でしたが、夜間勤務の時は夜通し立ちっぱなしでした。朝に退勤すると、脚は激痛に襲われていつも泣きました。こらえらきれずに、会社から休暇をもらって病院に行ってみましたが、病名はわかりませんでした。何日か休んだ後、会社に行っても数日しか通えず、また家に戻らなければならない状態でした。何度病院に行っても、病名がわからないので治療もできませんでした。父や母が手に入れてきた薬草(民間療法)を煎じて飲みましたが、効果はありませんでした。こうして苦痛をこらえながら職場生活を続けるしかありませんでした。

やがて結婚し、1年後に最初の子を産みました。しかし、信じたくないことが起こりました。子どもは先天性脳性マヒと告げられました。私の身体はさらに悪化し、赤ん坊までが障害を持って生まれるとは……。

なぜ世の中は私をこのように苦しめるのか。これからどうやって暮らしていけばいいのか。日々時間は過ぎていきますが、私の日常は苦痛と涙の連続でした。家庭生活を送りながら、一人で痛みと貧しさに耐えて生きねばなりませんでした。姑の恐ろしいまでの視線とそっぽを向く夫。障害者の子どもを産んだ私の苦しみは息もつけないほどで、私には耐え難い日々でした。

生きるべきか、死ぬべきか。世間が私を無視するのなら、いっそ息子と一緒に死んでしまいたいと思い、泣いてばかりいました。でも、息子を抱いて顔を見ると、母親の私が何を考えているかも知らず、にっこり笑っているのです。母の涙が顔に落ちても、息子は笑っているのです。しっかりしなくちゃ、しっかりしよう。自分自身を叱責し、「そうだ。力の限りに生きよう」と誓って立ち上がろうとしたのですが、その場にまた座り込んでしまいました。

足が痛くて立ち上がれなかったのです。そのように、生と死の別れ道でうろうろとさまよう間にも時は流れ、二番目の子を産むことになりました。心配事がまた一つ増えました。お腹に二人目の子を宿し、病気の長男を抱えてあちこちの病院に通いましたが、なかなか良くなりませんでした。そうこうするうちに、二番目の子が生まれました。状況はさらに厳しくなり、私の身体は壊れていきました。二番目の子が4才になった頃、私はまったく立つことができなくなり、両手で体を支えてお尻を押し出しながら移動するしかなかったので、手の平は血まみれになっていました。

再び病院に行って診察を受けると、関節はすっかり溶けているので手術しなければならないと言われました。病名は大腿部無血性壊死症、人工関節の移植手術を受けねばならない、という話を聞いて心配になりました。三度の食事だけでも大変なのに、手術だなんて思いもよらないことでした。しかし、手術をすれば一般的な生活が可能になる、ということを聞いた瞬間、希望の灯がかすかに点るようでした。でも、その灯の光は私を照らしてくれるだろうか。困窮した生活の中で手術を受けるには、手術費があまりにも高かったからです。

この話を聞いた実家の家族が集まり、手術費を工面してくれました。家族というのはこういうものか、と身に沁みました。それで、私は手術の準備をして病院に行き、私がなぜこういう苦しみを味わわねばならないのか、原因を知りたくて担当医の先生に尋ねました。「なぜ私はこういう病気を患わなければならないのですか」。先生は「実は、原因はよくわかりません。こんなになるまでひどい痛みに襲われたでしょうに、ずいぶん我慢してきたんですね。こういう病気は普通5060才の男性、それも酒を多く飲まれる方に起きうるものなのに。30代初めの女性が、それも酒を全く飲まないというのに、どうしてなのか、正確なところはわかりません」と言ったのです。「そうだ、理由はともあれ、歩けるなら一生懸命生きなければならない」という誓いをたてました。

手術後も、すでに背を向けていた夫の心を変えることはできませんでした。「別れよう。避けられない運命ならば受け入れよう。勇気を出そう。今を一生懸命生きれば、多分道が開ける」と決意し、一人立ちしました。「この厳しい世間を生きるには、起き上り小法師になるしかない。これから私は七転び八起きの人生を生きるのだ。必死に努力して生きよう」と何度も誓いました。こうして、生活は少しずつ良くなり始めました。

時が流れて十年後、また人工関節の移植手術を受けることになりました。こうして2004年のある日、KBS「追跡60分」という番組で原爆被害者の子どもへの遺伝に関する話が放送されると聞き、関心があったので見ました。もしかしたら、原爆被害者の子どもだからではないか。放送で遺伝についての説明を聞き、やはり放射能で病気になった子どもがいることを知りました。

2002年3月に原爆被害者2世であり、自分は原爆後遺症による遺伝的疾患に苦しんでいると主張した故・金亨律(キム・ヒョンニュル)氏と、2004年の放送後に知りあいました。そして、陜川原爆被害者福祉会館で原爆被害者の子女たちが集まる、という知らせを聞いて参加しましたが、目前で繰り広げられた光景には驚きを隠せませんでした。やせて小柄な金亨律氏は、蒸し暑い夏なのに長袖のジャンパー姿で首にタオルを巻き、ずっと咳こみながら、準備した資料を配って苦しげに話をしていました。「私は釜山に住む金亨律です。病名は先天性免疫グロブリン欠乏症で、母が広島で被爆しました。私の肺機能は一般人の2030%しかなく、ひっきりなしに起きる肺炎のため家と病院を往復しながら、かろうじて生活しています。原爆後遺症で苦労している2世の方々は私だけでなく大勢いると思い、こうして皆さんの前に立ちました。私たちは一緒になって、私たちの人権問題を解決しなければなりません」。私は金亨律氏が配った資料を一気に読みながら、家に帰りました。その時点まで、自分が原爆後遺症で苦しんでいるとは全く思い至りませんでした。

その後、金亨律氏は「韓国原爆2世患友会」という団体を作り、初代会長になってたくさんの仕事をしました。2005年春に金亨律氏と「韓国原爆2世患友会」は、原爆被害者特別法案を作って国会に提出しました。小さな巨人・金亨律氏は「先ず支援、後に究明を」と声を限りに活動しましたが、2005年5月に突然、患友のために闘いながらも志を達成できないまま、穏やかな声だけを残して亡くなってしまいました。

ああ、原爆被害者2世患友の問題は、世間に知られる前に金亨律氏の死とともにこのまま消えさるのかと思いましたが、市民団体の差し伸べる手が私たちに届いたのです。金亨律氏が果たせなかった夢、希望の種火は消えずに、再び花開くことになりました。

2005年7月、第2代会長の鄭淑喜(チョン・スッキ)氏が原爆2世患友会を率いることになりました。鄭会長も、私と同じ大腿部無血性壊死症で人工関節の移植手術をしました。その苦痛は語らずとも、やはり私が経験してきた苦痛そのままだと感じました。鄭淑喜氏が会長になり、私は総務として協力することにし、原爆後遺症に苦しむ人たちをあちこち探して回りました。

韓国の原爆被害者は、自分が被爆した事実を知られることを望みません。特に子どもが病気の場合には、病気ではない他の子どものために自らの被爆事実を隠すことが多いのです。韓国の原爆被害者は様々な差別の中で生きてきました。被爆者だと知られたら、その子どもは結婚もできません。それでも、私たちは活動を止めることはできませんでした。やがて、鄭淑喜会長も健康状態と家庭の事情が悪化し、これ以上活動を続けることができなくなりました。私は韓国原爆2世患友会の総務の仕事をしながら、原爆2世患友に対する世間の人々の冷たい視線を強く感じました。私は学歴もなく、財産もなく、健康でもない状況で、どうしたらいいか困り果てました。しかし、私以上に健康問題や家庭の事情に苦悩する原爆被害者や、知的障害をもった原爆2世の子どもをもつ親御さんを考えると、放棄することはできませんでした。そこで私は痛む身体を引きずりながら、原爆2世患友会の第3代会長になって活動しています。

私たち「韓国原爆2世患友会」は苦痛に満ちた心をなだめあい、共に泣いたり笑ったりして、互いに疲れきった身体と心を慰めあって活動しています。原爆後遺症による病のために心の扉を閉ざしている人々の話を聞き、自分たちの病気の理由を話したりしながら、あちこち通い続けました。そうするうちに、患友の痛みが私の痛みになったりもします。原因不明の病気で母の乳房をくわえたまま亡くなった幼な子の話もたくさん聞きました。

若い頃に子宮に腫瘍ができて子どもを胸に抱いたことがない患友、流産しつづけて出産経験のない患友、赤ちゃんを胸に抱いても知的障害で童話の本1冊も読んであげられない患友、生まれた時は元気でも成長過程で精神疾患を患って入院している患友、各種の癌によって4050代で死亡する患友も大勢います。

韓国原爆2世患友各々の事情を聞けば、涙なしにはとても聞くことができず、胸が痛むあまり心に深い傷となって残ります。広島と長崎に原子爆弾が投下されて被爆した人々の子どもとして障害をもって生まれたり、様々な疾病で一生涯病魔によって人生を蹂躙されねばならない現実を、個人の問題として背負わされて生きていくのは決して生やさしいことではありません。

韓国原爆2世患友は先天性免疫グロブリン欠乏症、皮膚病、大腿部無血性壊死症、精神障害、知的障害、視覚障害、心臓病や狭心症、甲状腺疾患、うつ病、白血病、筋弛緩症、各種の癌など多様な現れ方をしています。しかし、韓国政府は科学的な因果関係が不明という理由で、日本政府が認定していないという理由で認定してくれません。

韓国原爆2世患友は、日本帝国主義の侵略戦争と、大量殺人兵器である核兵器を投下した米国政府による戦争犯罪の被害者です。

人間として生まれ、人間らしく生きたいというのは、誰もが持っている細やかな希望です。韓国原爆2世患友の問題は、被害者個人の問題ではありません。私たち韓国原爆2世患友は、日本帝国主義による戦争の被害者です。私たち韓国原爆2世患友は、原子爆弾投下という二度と起こしてはならない人類に対する犯罪を証言する証言者です。

広島での原爆投下から68年が過ぎました。数十年の歳月が流れる間、核による被害者は今でも増え続けています。2011年の福島原発事故にあたり、私たちは涙を流しました。韓国では、原発の近くで暮らしてきた家族全員が病気に苦しんでいる、ある家族の記者会見がありました。韓国政府は原発が安全だと言います。ウソです。私たち「韓国原爆2世患友会」がその証拠です。

韓国では、市民団体と宗教団体が力を合わせ、原爆2世患友を支援する慶尚南道地方条例を通過させました。現在、慶尚南道は原爆2世患友に対する実態調査を行っています。また、原爆被害者1世はもちろん、2世や3世を支援する内容を含んだ特別法案を国会に提出しました。

私たち韓国原爆2世患友会の会員の苦しみが終わることを願い、核のない平和な世の中に向けて、私たちは病気の身体を引きずりながら進んでいきます。私たちの歩みは、核のない平和な世の中に向けた歴史の歩みだと信じます。平和と人権、核のない世の中のために、韓国原爆2世患友会の活動への熱い連帯をよろしくお願いします。ご清聴、ありがとうございました。




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