2013年5月25日土曜日

反原発運動で使われる「国民」は日本人を意味するのでしょうか?-朴鐘碩

以下のURLを読みました。

イラストに柔道着(?)を着て、国旗・日の丸を持つ人物が描かれています。

原発を世界に売り込む日本、国策で利益を計上した日立、東芝、三菱などの原発メ-カを批判しながら、国旗が描かれたイラストを見て「あれっ?」と思いました。

勿論、原発を世界に売り込む日本を批判していることは、理解します。

植民地主義である原発体制を批判し、国際連帯で原発を世界からなくそうとする平和人権運動体が、アジアへの侵略戦争で利用し国民国家を支える日本の国旗を登場させる必要があるのか、疑問に思います。

反原発集会でも、国民の権利を守る憲法、国民の命を守る、と「国民」が登場します。選挙で選ばれた議員さんたちは、「国益」「国民の権利」を主張します。

「国民」は、日本()人を意味するのか、日本に居住する外国籍住民も「国民」に入るのでしょうか。

国旗・国歌を批判させない、できないように(教育・官公・企業)労働者を沈黙させる植民地主義を克服することは、当事者個人の家庭生活が脅かされ、生き方が問われます。日立、東芝、三菱など原発関連メ-カで生活し、あらゆるエンジニア、労働者は沈黙し、組織に従順になることで「長生き」できます。

これこそ自(分)民族が抑圧・差別されるということは、他(人)民族を抑圧・差別することではないでしょうか。ものが言えない日立製作所(企業社会)(民族)差別を訴えると(日本人)労働者から冷たく反発を受けたことがあります。

反原発運動だけでなく、戦後あらゆる人権・反戦・平和運動に関わる当事者の生き方が問われ、今後も問われ続ける課題でしょう。

原発を世界に売り込む日本の植民地主義との闘いは、日立、東芝、三菱に原発事業から撤退させ、原発輸出を止めることです。戦後、戦争責任を問わなかった人権・平和運動を批判的に見て、止揚することも必要です。

人間らしく生きるためには、その反省を含めて地域住民一人ひとりの当事者主権を求め、国籍を超えて多くの人たちと連帯する以外に道はないでしょう。長い闘いになります。

これは自ら潜む植民地・排外主義を克服する近道のような気がします。
反原発運動に関わって「国民という言葉に疑問を感じる」人も出てきています。
具体的な実践・活動する中で真摯な対話を続け、国籍を超えて植民地主義、排外主義を克服し、課題を止揚しましょう。

「外国人への差別を許すな・川崎連絡会議 
朴鐘碩

9 件のコメント:

  1. 朴さん、
    正にその通りですね。私は「国民」という言葉が嫌いです。現憲法でも、もともと”People”と書かれていたものを「国民」としてしまった。今の言葉で言えば「市民」くらいが適当なのではないかと思います。

    国民=国、を連想するなら、世界は破綻に向かって進むだけでしょう。 一般市民のレベルで国境を越えないといけないと思います。
     大久保徹夫

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  4. 追加参考資料:

    「在日」の生き方と地域問題への関わり方ー病んでいるのは日本人社会
    http://www.oklos-che.com/2012/04/blog-post_08.html

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  5. 「国民」という語をどうつかうか,CNFE として,用語を整理し,定義する作業
    が必要になるかもしれません。
    「市民」,あるいは「ひとびと」への置きかえもひとつの選択だろうとおもいます。

    「国民」という語は,つかわれる場面によって多少意味がちがうとおもいます。
    これはどの言語でもありうることでしょう。法律用語としてつかわれる場合や,
    国籍に関係なく「居住,滞在するひとびと」をさす場合もあります。

    たとえば,紹介されたサイトでも使用例がみられます。
    DiaNuke.org
    Stop India-Japan Nuclear Agreement: An International Appeal
    http://www.dianuke.org/stop-india-japan-nuclear-agreement-an-international-appeal/

    このなかで,「両国政府は、自国民の健康と安全、・・・」というときの「自国
    民」とは,おそらく国籍を限定せず,自国に居住,滞在しているひとびと」とい
    う程度の意味だろうと理解できます。

    「国民」の用法ではありませんが,用語法がゆれうごいている例がみられます。
    声明本文のなかで「原子力技術」,「原子力事故」,「原子力産業」と訳する一
    方で,「多くの国民が核(原子力)のない世界を求めて・・・」というように「核
    (原子力)」と,まず正確な語(核)をおき,そのあとにカッコでくくって権力
    が用意した用語をつけたしています。本当は後者のように統一すべきです。すな
    わち「核(原子力)技術」「核(原子力)事故」「核(原子力)産業」とすべき
    です。

    実は用語の問題は文字の問題だけではすまないのです。
    「原発体制を問うキリスト者ネットワーク」という名称について考えても,「原
    発体制」とはなになのか,それは自分をふくまない他者なのか,それとも自分を
    ふくむのか。「問う」とはなにか。だれが,だれに,なにを問うのか。を考える
    必要があります。
    自分自身が,個人として原発問題とどう向きあってきたのか,自問自答しなけれ
    ばならないでしょうし,教派,教会として,原発とどうかかわってきたのか,歴
    史的事実の検証を求めることも「問う」ことであろうと考えられます。

    「国民」をふくめて,わたしたちは,あたりまえのように使ってきた(使わされ
    てきた)用語体系を批判的に見直す必要があります。CNFE にもその役割がある
    のではないでしょうか?

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  6. 「原発体制を問うキリスト者ネットワーク」ML上でのメール
    <編集者の判断による転載>

    寺本さん、この問題は在日の主体性とは何か、国家、民族という既成の概念と韓国人(朝鮮人)として日本で生まれ民族的な素養がまったくない自分自身はどう生ければいいのかという問いから40年間、模索してきた問題です。
       「捨てられた石」ー在日として生きて来て見い出したこと
       http://www.oklos-che.com/2012/07/blog-post_24.html

    その過程で日立就職差別闘争を闘い抜き、地域活動をし、そして3・11以降は「原発体制」なるものと向き合う中で、わたしは「原発体制を問うキリスト者ネットワーク」をつくることを提案し、現在にいたっています。

    寺本さんの問題提起について私なりの意見を記します。

    1.国民について
    私は住民投票、国民投票が盛んに議論されるようになって外国人はそこに含まれるのかということに対して(東京都は外国人を排除、川崎は含めるなど地方自治体によって異なっている)、「国民」とは、日本「国」に居住する「民」ということであり、国籍を問うべきではないという主張をしていきました。

    これは憲法では「住民」をどのように捉えているのか、「市民」とは何かなど、また憲法における「国民」では外国人の基本的人権はどのように捉えられるようになってきたのか、議論をするのであれば、以上のことを学問的に検証する必要があると思います。日本では「市民権」というのは法的に確立された概念ではありません、念のために。

    寺本さんのおっしゃる、<「核(原子力)技術」「核(原子力)事故」「核(原子力)産業」とすべき
    です>ではすこし煩わしいですね。

    2.「原発体制を問うキリスト者ネットワーク」について
    ①「原発体制」については、当初から概念を明確にしてきませんでした。それはある意味、今回の原発事故を生みだした社会というように漠然としたものでした。統一見解はありません。しかし私の中では、戦後原発をもつにいたった日本社会、その原発は植民地を持たない植民地主義という、西川長夫さんの定義を念頭においていました。
       2010年12月1日水曜日
       「植民地主義の再発見」(西川長夫著)を読んでー朴鐘碩
       http://www.oklos-che.com/2010/12/blog-post_01.html

    ②核兵器によるアメリカを中心にした戦後の植民地支配を問題にするのは(=「問う」)、他者や制度を指すだけでなく、それを支える自分自身のなかに巣食った価値観、国民国家を絶対視し、相対化しきれない自分の考え方、生き方を批判的に捉えることを意味します。自分自身を批判的に捉えないで、「原発体制」を批判するということは、誤りだと認識しています。

    ③<「国民」をふくめて,わたしたちは,あたりまえのように使ってきた(使わされてきた)用語体系を批判的に見直す>ということは、倫理的な問題にとどまらず、それは国民として教育され、また教会においても明治以降、キリスト教が宣教のために国民国家と「調和」を取ろうとしてきた信仰理解そのものをしっかりと捉え直すことを意味します。
       書評 鄭玹汀著 『天皇制国家と女性ー日本キリスト教史   における木下尚江』 
       「福音と世界」7月号で発表

    自分自身の個人的な「救い」と「教会勢力の拡大」(=宣教)を中心に捉え、社会の不義と正面から対決しない、イエスに従って生きることの意味を社会の弱者を生みだす実態の中で問わない信仰理解を批判的に乗り超え、今ある原発問題と正面から取り組むことが今私たちキリスト者に求められていると私は理解しています。福島原発事故を起こし世界に原発輸出を展開しようとする原発メーカーを相手にした裁判闘争はそのような信仰理解に基づいています。

    また、そのことは教会の戦争責任の告白とは、教会が第二次世界大戦への協力に留まらず、明治以降、現在に至るも、国民国家の拡大のために植民市支配をしてきたこの世の勢力を黙認、ないしは支持してきたことをしっかりと批判的に受けとめることを意味します。従って、CNFEの第二回目の集まりは戦後生まれの若手の教職者二人から戦争責任とは何かという発題からはじめたのです。

    寺本さんの問題提起をきっかけにしてキリスト者の社会責任についての議論と実践が深まることを
    歓迎します。

      7月28日 
      第二回定例会開催。
      主題:原発事故とキリスト者の「戦争責任」・「戦後責任」について 
      発題者:城倉啓(日本バプテスト連盟教師)
      滝澤貢(日本基督教団教師)
      コメンテータ:関田寛雄(日本基督教団教師)

      2011年7月30日土曜日
      反原発闘争に参加するキリスト者の動向
      http://www.oklos-che.com/2011/07/ochlos-httpwww.html


    崔 勝久

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  7. <編集者の判断による転載>

    このことは、大変重要と考えます。大江さん風位言えば、定義と考えます。cnfeでは新しい世界に向かっている訳ですから、既存の世の中のしがらみにとらわれる必要はないと考えます。
     CNFEでは、賛同を呼びかけているのですから、「皆さん」「国民の皆さん」「市民の皆さん」も国籍ではないと考えます。かつて、イエス様は「天国は近づいた」と宣言されました。「天国は来た」のかも知れません。キリスト者の国境はこのことで無意味になったと、私は受け取りました。

     わたくしは、長野県に住んでいます。福一爆発の被害は受けていません。ですから、福一廃炉を叫ぶことは、私の生活には直接関係しません。浜岡原発、廃炉を中部電力長野支店へ申し入れる訳でもありません。中部電力の電気を使わない生活はできません。しかし、さきの冬は、室温15℃としました。まだ、高い。わたくしの友人は、こたつ一つの生活ですから、偽善でしょう。
     多くの賛同依頼がメールで届きます、いくつかには、賛意を返信しています。しかし、わたくしの実生活からは離れたところでの、困難です。私の声が賛同者同様の力として、届く訳ではありません。その程度でも、呼びかけが希望なのでしょう。実生活のすぐそばでの生活転換、訴えですと、声を上げることはすぐ生活に現れます。今の教会集団との関係がそうです。

     全体としての変革(連帯)と身の周り(自分の課題)とは荷車の車輪と考えます。遠くの困難と身のそばの課題とも、支え合っていかないことには、声を出せないと考えています。
     CNFEのメンバーには、牧師がおいでです。信仰の声を期待しております。

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  8. <編集者の判断による転載>

    「教会が原子力の平和利用とどうかかわってきたか」の問題は,「教会は侵略戦
    争協力とどうかかわってきたか」に匹敵する歴史的重みのある問題になると確信
    します。「教会は原子力の平和利用に反対します」という現在形と未来形だけの
    声明で,ことは済まないはずです。
    沈黙と傍観でやりすごそうと計算しているキリスト者も多いかもしれませんが,
    チェルノブイリの例を見ても,政府とメディアのごまかしが通用しなくなるのは
    時間の問題でしょう。歴史的事実の検証は,いずれ社会から問われることになり
    ます。それは「原発体制を問う」者の仕事でもあります。歴史的事実の検証と懺
    悔を回避するかぎり,ゆるしはあたえられないでしょう。

    以下はこれらに関連して。

    「国民」というコトバを不注意に使ってきたことには,わたしたち自身の反省が
    必要なのは明白です。
    どんな犯罪もそうですが,加害者よりも被害者が真実に気づきやすいのです。

    また,「病んでいるのは日本人社会」というご指摘もそのとおりだとおもいま
    す。発言する在日外国人のおかげで問題がよく見えるようになった日本人も多い
    はずだとおもいます。しかし,日本人が最初から病んでいたわけではなく,権力
    に批判的な個人や団体を,権力が差別し,排除しながら社会を維持してきた結果
    として病んだ社会になったのでしょう。

    「核(原子力)産業」という表現では,「核」がわたしたちのコトバ,(原子
    力)が原発体制からあたえられたコトバです。政府や原発メーカーとの対話では
    「核産業」というだけでは対話が成立しないでしょうし,一般市民むけのメッ
    セージでもわかりにくいでしょうから,(原子力)というコトバを付記するわけ
    です。コミュニケーションとしての配慮です。

    「イエス・キリストを生涯の模範とすることを誓います」と誓約した堅信の日の
    自分を,しっかりとおぼえていきたいとおもいます。

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  9. 1.寺本さんは以下のような重要な指摘をされています。
    <「教会が原子力の平和利用とどうかかわってきたか」の問題は,「教会は侵略戦争協力とどうかかわってきたか」に匹敵する歴史的重みのある問題になると確信します>

    確かに原発体制を黙認してきた教会、キリスト者は侵略戦争に対して行った戦争責任告白と同じような、自らの信仰が根底から問われるという受けとめかたをすべきなのです。

    しかし、私は、「匹敵」でなく、原発体制と侵略戦争の連続性を問題にしているのです。即ち、侵略戦争と戦後の原発体制はいずれもが、植民地主義だということです。ですから、植民地支配の中でなされた大陸への侵略戦争について戦争責任告白が侵略戦争(第二次世界大戦)への教会の協力だけに限定していることは不十分ではないかと申し上げているのです。この点は、CNFEのメンバーの中には日本キリスト教団だけでなく、同じく戦争責任記告白をしたカトリックやバプテストをはじめとする教団、教派の方はどのように捉えられるでしょうか。ご意見をお願いできますか。

    私が7月号「福音と世界」でを書いた問題意識は、まさに、日本キリスト教団の戦争責任は植民地支配と侵略戦争の後者しか念頭においていないのではないか、むしろ日本の教会は宣教の為に明治のときから国家主義の拡張に「調和的」であったのではないかということを指摘したのです。
      「安倍首相の歴史(戦争)認識と韓国の反応をめぐって」ー姜海守さんの投稿記事
       http://www.oklos-che.com/2013/05/blog-post_5.html

    2.「病んでいるのは日本人社会」について
    この私の書き方は逆説です。これまで多くのキリスト者は、在日朝鮮人の受けている差別の問題を深刻に受けとめ、少数者の人権を守るべきだと語ってきました。これもまた在日からの問題提起に真摯に応えようとしてきたことであることはその通りです。しかし私は、そうでなく、マジョリティが病んでいるからマジョリティの問題が生まれているのはないか、だからマイノリティ問題ではなく、マジョリティ問題だと切り返したのです。
       「在日」の生き方と地域問題への関わり方ー病んでいるの は日本人社会
        http://www.oklos-che.com/2012/04/blog-post_08.html

    これまでの議論はマイノリティとマジョリティの関係性に注視してきたため、植民地主義という国民国家の拡張をはかる(資本主義社会の実態)社会構造を直視できていなかったのではないか、というのが私の意見です。マイノリティ問題の解決によってマジョリティ社会もよくなるのだというテーゼは間違いです。

    川崎を見てください。「多文化共生」を謳い全国で最も外国人施策が進んでいるからと言って、川崎市そのものの何が変わったのでしょうか。むしろ外国人の権利擁護という誰も反対できないことを前に立てて、市の職員及び市民全体を抑え込み住民主権を蔑ろにする政策をしてきたことは既に明らかになっています。

      今回の震災で多くの「神話」の化けの皮がはがれましたー「多文化共生」もそうです
      http://www.oklos-che.com/2011/04/blog-post_1905.html

    ですから寺本さんが言う、「日本人が最初から病んでいたわけではなく,権力に批判的な個人や団体を,権力が差別し,排除しながら社会を維持してきた結果として病んだ社会になったのでしょう。」という指摘は一面あたっていますが、一面、私の主張の主旨を正確に捉えられておられません。

    日本人だけではなく、人はだれも最初から「病んで」生まれません。社会の中で国民教育を受け、だんだんと「病んでくる」のです。在日も同じです。自らの中に巣食った朝鮮人を劣ったものとする価値観を払拭するのに大変な努力が必要なことは同じです。

    3.「核」と「原子力」
    日本語は被曝国として「核」兵器を拒絶しながら、平和利用としての「原子力」を嬉々として受け入れてきました。「コミュニケーションとしての配慮」は大事ですが、どうして「核」と「原子力」という同じものを日本社会は別のものとして受け入れて来たのかという構造をまずしっかりと認識すること、それは戦後の経済発展ともつながり、すなわち、戦後の日本社会の価値観を根底から見直すことになり、ここのところはもっとお互いにしっかりと話し合う必要があると思います。


    崔 勝久

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