2012年10月11日木曜日

私たちの子どもの「教育」は失敗でした

先週、保育園の運動会を見た感想を記しました。
http://www.oklos-che.com/2012/10/blog-post.html
私自身は在日朝鮮人として生きることに悩み、どう生きればいいのかを求めるのに必至でした。日立闘争、地域活動、国籍条項撤廃に取り組み、その間、なりふり構わず生活の糧を求めてと、振り返ってみるとあっという間に67歳になっていました。

私自身は大学に入るまでは日本名を名のり、朝鮮の歴史も、自分がどうして日本にいるのか、そういうこともわからずに生きてきました。そして逆にそれらの過去を払拭し、自分を取り戻そうと、人間らしく生きようと、目いっぱい、民族差別と闘うことに全精力を使ってきました。その点では何の後悔もありません。その間、3人の子どもを授かり、夫婦で文字通り、生きるために体を張って生きてきました。連れ合いは今になって、もっと自分を主張する生き方をすればよかったと言ってます(うむ、もっとも!)。

私たちは子ども3人を韓国読みそのままで、日本の公立学校に通わせました。何と言われようとそれが「正しい」と確信をもったうえでのことです。しかしそんな肩を張った生き方をしなければいけなかったのか、私は悔います。それこそ連れ合いが言うように、もっと自由な、自然な生き方はできなかったのか・・・。

私の長男は中学のときからアメリカに行き、高校中退で韓国、中国で工場生活をして、今は香港で国際的な仕事で生計を立てているようです。娘は中学の時に登校拒否をしながらようやく高校を卒業しアメリカの大学を出て、市民権を取って生活しています。次男は大学に行かず好きな途を進みたいということで俳優の道を苦労しながら歩んでいます。

学歴ということでは私たちは完全に子どもの「教育」に失敗しました。彼らは自分の生きる道を追い求めただけで、私たちがしてやれたことはその可能性を手助けし、ただただ見守ることしかできない親でした。

連れ合いは、私が提唱し始めた地域の中で民族差別と闘う砦づくりをするという運動の中で保母さんをしていました。留学中に授かった3歳の長男と手をつなぎ、長女をおぶって、次男は乳母車に乗せ保育園で働いたのです。乳がんの手術をしても辞めることなく、すぐに職場復帰していました。

そんな家族を私は当たり前のことのように見て、自分がやるべき「使命」に燃え、地域活動に没頭していました。何と罰当たりな、手前勝手な奴なんでしょう!それでも連れ合いは、あのとき子供にもっとこうしてあればよかった、ああしてやればよかったとつぶやきます。64歳になっても保育園で現役で働く彼女は、現場で新しい発見をし、「民族保育」を始めたということを同僚に話すことなく、ひたすら子どもの保育に没頭しているようです。

私たちは子どもの「教育」に失敗しました。しかし彼らは自立し、自分の生きる道をひたすら歩んでいます。ただ感謝の一言です。私たちがしてやれたことは少なく、彼らは自分の生きる道を歩み続けるでしょう。

私の父親は11歳のとき、一人で北朝鮮から渡ってきました。私は今、二人の子供が海外生活をし、次男も好きな道を歩んでいるのを見て、家族の歴史というものをひしひしと感じるのです。それはどう考えても、歴史に翻弄されてきた朝鮮人の生き方です。香港の孫は13歳で5ヶ国語を話す快濶なスポーツマンに育っています。この子は私のような民族の生き方に悩み、「在日」の生き方に固執してきたのとは全く違う生き方をするのでしょう。

この孫は、私の長男から私の父(孫の曾おじいさん)のことを聞かされ会ったこともないのに身近な存在と感じているようです。私は歴史というものの流れを実感します。3・11以降、私が原発体制を問い、反原発の国際連帯を掲げその運動に没頭するようになってきたのも、その歴史の一環なのでしょうか。

5 件のコメント:

  1. BMさんよりメールで
    子どもの扱い(教育も含めて)については貴兄と全く同感の思いと環境にあります。働きバチと批判しながら家庭を顧みない己の姿は同じ体質です。併しニ年先は結婚50年、子供たち4人は自立して(末子はフリ―カメラマンとして、リーマンショックの仕事がなくなった今も、アルバイトしながら自らの理想を追い求めておりますが、生活が不安定なのが親として心配です)頑固おやじにみられているようですが、自分のやること(信念?)をやるだけだと割り切り、他は余計なこととして考えないことにしてます。人間として全てに限界あり、己をいかに生かして生きるか、後は主のご判断に委ねたくおもいます。

    SY さんより
    崔勝久さま

     何が失敗で何が成功ですか?
    反面記事のような今朝のオクロスを読んで、
    結局、お子達は親の真剣な生きざまというもの
    をきちんと見据えていたため、今、自立した生き方を
    立派にいしてると読者は思い知らされます。
    書いてくださってカムサハムニダ。



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  2. 池谷です。
     「子供の教育は失敗でした」と言うメールを共感を持って読みました。小生は子供だけでなく、自分の人生が失敗ではなかったかと、78歳(来年の2月で79歳!!)思うときがあり、このあり地獄に落ちると這い上がるのに相当時間がかかります。今日も、砂を噛むような、今までの人間関係を思い返していたところでした。きっと、死の瞬間には、やれやれと思うに違いありません。そして、死の向こうには天国があるだろうと堅く信じています。キリスト者として。ところで、一体、「俺の人生は成功だった」と思える人はいるのでしょうか? いれば、会いたいです。
     かといって、退嬰的な思いだけにとらわれているのではなく、添付書類にはりつけた、ヒルティのことばとか、もう一つは小生の教会の会報にかいたような気持ちになる時もあり、晴れのち曇りの繰り返しです。今の小生の生きがいは9条を守ることです。これによって、日本が他国を侵略する意図は無い事を示せるとおもうからです。「パパ・ママバイバイ」に書きましたように、なんとしても、安保が悪の根源です。    一言。

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  3. 池谷さんのメールに添付されていました。

    愛読するヒルティの「幸福論』の中にこうあります。「最後の息をひきとるまで精神的に溌剌つぃて活動を続け、ついには神の完成された器となって「仕事のさなかに」倒れること、これこそ正常な老年の正しい経過であり、またおよそ人生の最も望ましい終結である。 このような老境をむかえると、以前には実にむずかしく見えた多くのことが、極めて容易になってくる。精神そのものはさらに自由になり、肉体には左右されず、透き通った明るさを増し(ちょうど夕映えの中で全てのものの姿があざやかに浮かび出るように)、経験をつんで一層円熟する。他方、肉体は次第に、その力と影響力とを失ってゆく。」
    「神様に出会った日」-過去形でなく現在形で   池谷 彰
      私はこの年になっても未だ祈りの助走者が必要です。つまり、私に代わって祈ってくれる人です。それは身の回りにいつも携帯している祈りの小さな本です。ベイリー「朝の祈り夜の祈り」、アーノルド・バングラツィ「病床からの祈り」、マザーテレサ「日々のことば」、カトリック祈祷書「祈りの友」、ウィリアム・バークレー「慰めの祈り」(病むときに)等などです。そして例外は「祈りの花束」(聖書から現代までのキリスト者の祈り)と言う大冊の祈祷書です。
    病院での待ち時間、バス・電車の中でこれらの書物をひまさえあれば紐解きます。
     『人生の中の今日のこの新しい日のために感謝します。過ぎれば二度と戻らない日は、私が、自分から持たせただけの意味を持つ日。成功や失敗によって意味が計られるのではなく、起こってくることに対してどういう態度をとるかによってきますのでしょう。』(アーノルド・バングラツィ「病床からの祈り」。)
    『お金持ち、若い方、年輩の方々の御願いします。どうか貧しい人のうちにおられるキリストに、貴方のその手で奉仕してください。そして心で、彼らの中におられる主を愛してください』(マザーテレサ「日々のことば」)
     『主よ、たといこの世の目に、又全ての人の前に、人生の敗残者と見えようとも、私は少しも気にしません。あなたが、“よくやった”と仰せ下さるならば。』「祈りの花束」
     私はこのような「助走者」によって、どこにいようとも祈りの世界に沈潜し、そこで神様と日々出会うことが出来るのです。したがって私にとっては「神様に出会った日」と言う過去形ではなく日々、神様に出会うことができます。私は数年前に癌という大病を経験しました。今でも死を背負って生きているというような日々です。したがって、朝目が覚めると、『今日も健やかに生きられますように』と祈り、『今日も健やかな一日を与えてくださって感謝いたします』と言う夕べの祈りで終わります。したがって私にとっては「神様に出会った時」と言う過去形ではなく、日々が神様に出あう時なのです。近いうちに神様の御許に召されれば、私より先に召されて逝った親しい人々との再会が楽しみに、待たれる日々です。『この身はおとろえ、世を去るとき、よろこびあふるる み国に生きん』Amazing Grace(賛美歌451番)この賛美歌は私の気持ちをよく表しています。

    「パパ・ママ バイバイ」   
      今回はやや語調を変えて書いてみたいと思います。1959年、敗戦後14年たった6月沖縄県現うるま市の宮森小学校の近くの住宅地に米軍F100Dジェット戦闘機が墜落し、漏れた燃料に引火し、住宅18棟と木造校舎が火に包まれました。その衝撃で校舎のガラスは吹き飛び、自動の顔や体にその破片は突き刺さりました。「先生、お母さん、助けて」と泣き叫び、あたりは阿鼻叫喚に包まれました。児童11人が死亡、156人が重軽傷を負う大惨事になったのですが、パイロットは空中で脱出し、無事でした。
     トラックで現場に駆けつけた米兵は子供らの遺体に目もくれず、新聞記者の写真撮影を禁じ、カメラからフィルムを抜き取って去りました。「彼らは助けに来たのではなく、事故を隠すために来たのだ」とその当時の小学校の先生は振り返っています。
      同じ様な事が、2004年に飛行場に隣接する沖縄国際大学に起こっています。大型輸送ヘリが大学に墜落しました。この場合も先の墜落事件と同じく、米軍は先ず墜落した乗員の救出が第一義で、住民被害の事などは、二の次で、沖縄県民のみならず、多くの日本人の憤激を買いました。
      我々が住む神奈川県は基地の数では沖縄の次に多い県ということをご存知でしょうか?沖縄には34基地がありますが、我が県には14あります。横須賀には海軍司令部、キャンプ座間には陸軍司令部があり、有事の際(何をもって有事と言うのかわかりませんが)海軍・陸軍の総司令部になります。
     事件は現在の青葉区で1977年に起こりました。ファントムジェット機がエンジン火災を起こし墜落したのです。丁度その日は小学校で運動会が開かれていました。重量26トンの機体と大量の燃料が、飛散し、民家を火の海にしてしまいました。自衛隊ヘリが飛来し、被災者を一人だに救助することなく無傷で地上に降りた米軍パイロットを乗せて、厚木基地に帰ってしまったのです。
     当時3歳の祐一郎君は『おばあちゃん、パパ、ママ バイバイ』と言う言葉を最後に息を引き取り、弟の康弘君は『ポッポッポ』と鳩ポッポの歌をかすかに歌いながら1歳の命を閉じました。
      これらの一連の惨事に共通していることは日米の軍隊(日本の自衛隊は世界第四位のれっきとした軍隊です)のいずれも、市民の命を全く顧みず、ひたすら事件を隠蔽しようと努力していることです。(東電との恐ろしいまでの類似性!)そしてこの背後にあるものは日米の軍事同盟の根幹を成す安保です。それは言うまでも無く1960年に昭和の妖怪といわれる、岸信介が自民党のお家芸である強行採決で、500万人のデモ隊に囲まれながら、ヤクザ尾津喜之助の手下・2万を動員してデモ隊を蹴散らし、無理やり通した同盟です。 この忌むべき軍事同盟はオスプレーを米軍普天間基地に押し付けようとしています。ハワイにはこの「寡婦製造機」は置こうとしません。住民の反対があるからです。力の無い所に「国益のために」と言う口実で、東北の辺地に設置して犠牲を強いてきた原発と恐ろしいほど似ています。   文責  池谷彰   2012年8月29日

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  4. 崔さん

    ML拝見。

    お子さんを大学に進学させなかった学歴のことで、後悔と自責の告白を述べておられますが、崔さんが深く関わって運動してこられた、日立差別闘争事件の根源でもある、醜悪な外国籍差別の日本社会構造の実態を、お子さんたちは父親の運動通じて、外国籍を持ったままで、幾ら名門大学の優秀な成績を得ても、安定した官庁・一流企業に就職採用されない事を、感じていたのではないでしょうか。だから長男・長女の方はアメリカに学びに行ったと思われます。また次男の方も持てる才能を開花させるべく、不安定な生活を覚悟で、苦労は多いが、自由業の道を選択されたのでは無いでしょうか?

    私は、崔さんの子供教育の失敗とは思いません。ただ何人でも、努力と能力相応に報われる、差別のない社会が、一日も早く実現される事を心から願う者です。
    敗戦時18才、朝鮮半島植民地支配、不条理の実情を知る戦中派として、崔さんの民族アイデンテーの苦悩・葛藤は、私なりに理解いたします。   塚本

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  5. 塚本さんへ

    おはようございます。
    いつも激励のお言葉をいただきありがとうございます。

    塚本さん、少し誤解がありますが、私は子どもを「大学に進学させなか
    った学歴のことで、後悔と自責の告白」をしたのでありません。そう
    いう学歴を求める教育を「教育」として、そのようなレールに乗せる教育
    には「失敗」したが、言外に、自立して社会で生きていく教育には成功
    したかも知れない、しかしそれは私たちの功績だということでなく、私
    たちはただ、彼らの望む、はばたく機会をつくってあげただけだと記し
    ました。

    その決断は今になって思うと大変リスクの高いことでした。しかし私
    たちは子どもを信じ、どのような形になろうとも彼らを受けとめるという
    覚悟をしました。親にできることはそれしかない、学歴や安定した生活
    を求めるのではなく、自立して生きていける力を、そのような生きる
    姿勢をもってくれることを祈りました。

    ご理解いただけるものと思います。
    それでは明日、14日、小出さんの講演会で。

    崔 勝久

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