2012年6月23日土曜日

「3・11」を踏まえて韓国の民主化闘争とは何であったのかを考える ー反原発運動の国際連帯を求めて


ブログで紹介した韓国の機関誌『녹색평론』(緑の評論)発行人の金鐘哲氏から原稿依頼がありました。民主化闘争を経た韓国が原発大国になっているのはどうしてなのか、これを国民国家批判の立場から考えてみました。韓国語に翻訳されて7月初旬に発行されるとのことですが、先駆けて日本で公開することの許可を得ましたので、ブログに掲載いたします。

「在日」としての主体性模索は、「在日」としてのアイデンティティを求めるということだったのですが、私にとって日本人でもない、と言っても本国の韓国人とも違うという認識から脱却するのに随分と時間がかかりました。それは結局、国家とか民族という既成の概念にアイデンティティをもてなかったということです。しかしそれは私個人の問題でなく、21世紀の今日、アイデンティティの不安はそれに先立つナショナル・アイデンティティとは何であったのか、国民国家そのものの存在の揺らぎがあり、相対化されてきているということの反映であり、国民国家そのものを乗り越えていくものとして捉えるということであったのでしょう。そういう意味では、私は「在日」という大変いい立場に生まれていたのかもしれません。

この拙論は、原発大国韓国の批判になっていますが、それは日本にも当てはまります。戦後日本の原発体制を批判するには、やはり、戦後の国民国家というものは何であったのかということの考察抜きにはありえません。「在日」の立場でもがいてきた私のこの拙論を、「在日」の人にも読んでほしいですね。

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日本の「3・11」を踏まえて韓国の民主化闘争とは何であったのかを考えるー反原発運動の国際連帯を求めて

崔 勝久  

朴炯圭牧師著『路上の信仰 韓国民主化闘争を闘った一牧師の回想』(新教出版社 2012)を読み、私はしばし絶句しました。「激動の韓国現代史を生きたキリスト者の証言」という帯の言葉がそのまま納得のいく、強烈な感動と刺激を与えてくれる本です。それほど朴牧師の実存(現存)というか、その生き方に圧倒されました。朴牧師の本の中に多くのお世話になった方、知人の名前が出てきますし、彼の歩みは知っていたとは言え、その生き様はすさまじく、胸に迫ってくると同時に大きな挑戦でもありました。

私は1945年生の「在日」2世です。長年「在日」の運動に関わり、在日の人権の実現は日本の地域社会の変革のなかで求められるべきだと考えてきたのですが(1)、「3・11」を経験して、「原発体制」を生み出した戦後の歴史を新たな国民国家の形成という視点からトータルに捉えるべきだと強く意識するようになりました。原発をなくしていくためには日本国内問題としてではなく、世界の原発の半分が集中する東北アジアにおいて、特に原発大国の道を歩みはじめている韓国を含めて、国際連帯の運動にしなければならないと考えています。

人権と民主主義の実現を求めた民主化闘争を経た韓国が、どうして原発密集度世界一の国になり、「3・11」以降も積極的に原発を輸出しようとするのか、私なりの断片的な考えですが、金鐘哲先生からの原稿依頼があり、韓国のみなさんとの対話を通して原発をなくす国際連帯の運動を進めたいと願い『緑の評論』に寄稿させていただくことにしました。私の問題意識の一端を披露させていただきます。率直なご批判を賜れば幸いです。

1 韓国での私の個人的なエピソード
私は戦後日本において初めて日本社会の民族差別を法廷の場で明らかにし、世界的な大企業である日立製作所を相手にして勝利した、日立就職差別裁判闘争(以下、日立闘争)(2)の運動の真っただ中にいながら韓国に語学留学に行き、そのままソウル大学の歴史学科の修士課程に入りました。70年代前半、まだ朴独裁政権の頃の話です。当時は教会、マスコミ、学生運動も完全に沈黙を与儀なくされていました。

大学の学部の後輩からある日私に話があり、「兄さん、しばらく会えないかも知れない」とそれほど親しくなかったのになぜか私に呟かれた言葉に何のことかわからず当惑をしていたのですが、数日後、キリスト教放送の朝のニュースで一回だけ、ただ今ソウル大学でデモが発生しましたという情報が流れ、私はすぐに当時鐘路にあったソウル大のキャンパスに駆けつけました。

2百名くらいの学生が正門前に並び愛国歌を歌いながら独裁政権を批判するシュプレヒコールを繰り返していました。そこに機動隊が突入し恐らく全員逮捕されたのでしょう。その隊列の後方に私は後輩の姿を見ました。その学生たちの立ち上がりがきっかけで、学者やマスコミや教会、そして一般市民の中から独裁政権を批判する声が徐々に上がるようになってきたことを昨日のように思いだします。民主化闘争はまさに無名の学生たちの蜂起から始まったのです。私は日本から韓国に渡りその歴史的な出来事を目撃した数少ない証人の一人だと思います。

2 エピソードその2、日立闘争との関わり
その後、朴牧師の本の中に出てくる韓国の教会関係者の強い誘いがあり私は大学院を中退し、RAIK(在日韓国人問題研究所)を立ち上げるときの初代主事になりました。研究より具体的な活動を望む私が出した条件は、主事として日立闘争を続けることと、川崎での地域活動を全面的に認めてほしいということでした。就職が決定した後、私はこの間公私にわたって支えてくださった故李仁夏牧師にも黙って韓国に飛び、学生運動のリーダたちと接触しました。逮捕されたら迷惑がかかると思ったのです。名指しで政権を批判する集会はできない彼らに対して、日本の企業の韓国進出にターゲットを絞ってそのことと関連させ「在日」を差別する日立を糾弾する集会を持つことを協議し、日程、場所まで決めてすぐに帰国しました。

数日後、民青学連事件で逮捕された学生たちの中に、日本企業を批判する集会を準備したということで、私と話し合ったあの学生の名前が日本の新聞に出ていました。その学生の名前は朴牧師の著作の中にもあり、今さらのように彼らの顔を思いうかべました。「在日」のあらゆる民族組織が、日本名を名乗り本籍地を偽って日本の現住所にしてまで日立に入ろうとした原告の朴鐘碩は民族の主体性がなく、日立闘争は「同化」を進め、祖国の統一や民主化闘争という民族の大義からこぼれ落ちる「些細な闘い」として批判していたときに、韓国の学生は日韓の歴史の問題として日立闘争を取り上げ支援すると発表したのです。そのことがきっかけで日本国内でも日立闘争を支援する運動は大きくなっていきました。在日の足元での闘いを通して韓国の民主化を求める人たちと共闘できることを私はその時実感しました。

3 民主化政権下の原発建設
世界の教会の中でも韓国の民主化闘争はもっとも注目された「出来事」でした。日本の教会も大きな関心をもち、彼らの支援に関わりました。日本においてその中心にいらしたのは先日来日された池明観先生ですが、民主化闘争のまさにその中心に朴炯圭牧師がいらしたことは間違いありません。しかし彼は回想録の制作にあたってもあくまでも謙虚で、「懺悔録」しか出す資格はないと長く拒んでいらしたようです。解放後の韓国の2度にわたる市民革命。そこで市民たちが命をかけて求めたのは韓国の民主化でした。その歴史的意義、そこに関わった朴牧師をはじめとした教会関係者、そして無名の学生たち、市民の働きを最大限、評価することに私自身、何の躊躇もありません。むしろ誇りに思います。

しかし朴牧師の著作にあるように、60年代の後半にはすでに韓国で原発建設が始まっているのです。そして何よりも拉致され殺されかけた、韓国民主化闘争の象徴であった金大中氏が大統領に就任するのですが、その前の金泳三大統領、その後の盧武鉉大統領の民主陣営が勝利したその時期、民主政権下においても、原発は作り続けられていました。勿論、保守派の現李明博大統領が現代建設の社長の時にその半分を手掛け、大統領になってさらに積極的に国策として推進し、「3・11」以降もさらに積極的に展開しようとしてきたことは間違いありません。アラブ首長国連邦への原発輸出に成功した日を祝日にしたのも彼です。

教会は韓国社会の大きな勢力となり現政権と深く関わりをもつようになりました。新旧キリスト教徒を合わせて1000万人の信者数を誇り、歴代大統領、そして国会議員の中にも多くのクリスチャンがいるとのことです。しかしながら民主化闘争の歴史をもつ韓国教会が原発推進の致命的な問題点を黙過し批判してこなかったのは、残念ながら事実です。

4 韓国内での反原発運動は民主化闘争の過程でどうして問題にされなかったのか?
私自身、「3・11」を目撃するまでは原発について曖昧な理解しかしていなかったのですから、他人を批判する資格はまったくありません。韓国の教会も同じでしょう。日本の教会において東北地方の被災者支援には熱心だが東電で働く教会員がいるからということで原発問題を取り上げず、政治問題に関わることだからというので原発反対の意思を明確にしないキリスト者が多いように、韓国でも対北朝鮮との関係や、資源の問題、安全性や費用などを理由にした原発推進派のキリスト者が多いであろうこともまた想像できます。何よりも「霊魂の救い」と「弟子づくり」を最優先する多くの教会の姿勢からは、社会の問題を直視するという視点を欠けざるをえないのでしょうか。しかしそのような中で、「3・11」によって原発の問題をはっきりと認識し、「信仰と核は両立しない」と信仰宣言をして反対運動を始める新しい芽が出始めたことに注目したいと思います(3)。新しい動きはいつでも少数者から始まります。

今年の3月に世界の大多数の指導者たちがソウルに集まった時にカトリックとプロテスタント、仏教と元仏教の4者が共同で宣言文をだしました(4)。しかし原発そのものに危機意識を持ち始めた宗教者が声をだしても、原発体制を国是とした韓国内で多くの市民が簡単に脱原発に舵を切る考え方に同意し、政府に脱原発社会構築を求めるようになるとは思えません。政府の安全神話を信じてきた自分自身のこれまで価値観、生活のあり方を根底から問い質さなければならなくなるからです。

私見ではそのようになるには韓国で第三の革命が必要です。一部の問題意識のある人だけで実現できるものではなく、地殻変動のように、怒涛のような民衆の動きがなければ実現されないでしょう。これまでの韓国のふたつの革命は発展途上国の独裁政権による、市民の人権を押し殺す政府の暴挙に対して民主化を求めた闘いでした。そこで民主主義を求める人たちはまさに旧約聖書の預言者やイエスに自己を同一化しようとし、最終的には教会を挙げての闘いになっていったのです。それを体現したのが朴炯圭牧師であり、彼を支えた良心的、進歩的キリスト者が「民主革命」を担ったと私は理解しています。

日本では、これほどまでに悲惨な経験をしながら日本政府は54基すべて中止していた原発の再稼働に踏み切りました。今のところ大飯(おおい)原発だけの限定されたものですが、それに合わせるかのように、日本の原発体制の心臓部分である六ヶ所村の核燃料再処理工場の試運転も始められました。人々はこれをきっかけにしてさらに他の原発の再稼働も認めるのではないかと戦々恐々としています。多くの若者やお母さんたちが反対の声を上げ街頭に出かけますが、政府はそのような市民の声を完全に無視して、「国民の生活のため」という説明で形式的な手続きを経て大飯の再稼働を強行しました。経済界、そしておそらくはアメリカの意向を受けて再稼働に踏み切ったと私たちは見ています(5)。

しかしながら残念なことに日本では駅前でのビラ配り、署名活動をしても市民はあまり関心を示しません。100人に1人くらいの印象です。(しかし6月22日には自然発生的に官邸前に4万5千人集まったと言います。これが新たしい潮目になればいいのですが)。反原発の運動はエネルギー問題に限定されて議論されているようですが、政府は6月15日に可決した「原子力規制委員会設置法案」で、「安全保障に資する」という項目を入れ、原子力の軍事利用を示唆しています。原発体制を問題にしていくにもそれが日本の「戦争責任」が曖昧なままであることに起因すると主張する論者はなく、キリスト教会においては「戦争責任」の明確な自覚が日本の社会の再生にとって最も重要なことであるという意識は全くと言っていいほど希薄です。

一方韓国においてもマスメディア、一般市民、宗教界、政治・教育などの分野で原発問題への関心が薄いということを聞いています。韓国は経済的にも世界の大国の仲間入り直前まで行き、北とは圧倒的な経済力の差をつけ、民主主義制度が定着しだしたときに、原発体制が国是となり広く国民の間で浸透していったことはどのように考えればいいのでしょうか。更なる工業化を進め、日本に追いつき追い越す経済力をつけるには石油に依存しない原発に行くしかない、韓国民はこぞってそのような考え方に陥ったのでしょうか。

韓国を脱原発を求める社会にするには、原発体制の拠って立つ、国内の個人間の経済格差、地方間の格差の問題を直視するしかなく、日本と同じように、いやそれ以上にアメリカに隷属する韓国社会を根底から変えるということを意味します。それはこれまでと同じ意味での民主化闘争ではもはやありえないでしょう。

さらに韓国は日本の植民地下にあったとき、広島・長崎の原爆投下によって日本が全面降伏したのであり、その「悲劇」は仕方がなかった、むしろわが民族の解放のために必要であったと考える人が多いようです。しかしそのような立場に立つ限り、原発も核兵器も同じであり、それらすべてをなくしていかなければならないという考えは理想主義として、現実主義の立場から葬り去られることでしょう。福島の被害、苦しみを自分たちの問題として受け留めたと発言する韓国人が多くいらっしゃることは知っていますが、国家や民族の枠を超えて人の痛み、苦しみに同一化しようとしない限り、世界にまき散らされた放射性物質の内部被曝によってこれからの子孫が苦しめられることになる事態の深刻さを理解することはできないでしょう。

5 「独裁とデモクラシーは表裏一体」
この恐ろしい言葉は、私の尊敬する立命館大学名誉教授の西川長夫さんが『国民国家論の射程 あるいは<国民>という怪物について』(増補版 柏書房 2012)の最後に書かれたものです。西川さんの著作は数冊、韓国で翻訳されていると聞きました。経済発展と国民統合を近代の国民国家の原理とみる西川さんは、「国民国家は植民地主義を再生産する装置」と見なし、学者としての理論ではなく、社会科学さえ批判の対象にする、自己批判からはじまる国民国家批判を展開しています。「これまでの私の全生涯とその全生涯を左右したものに対する反省と憤りから発」する「痛恨の言説」だというのです。

教会内でかつては日本の植民地支配に抵抗し解放の喜びを表すシンボルであった大極旗を掲げることに誇りさえ感じる韓国の教会は、つまるところ、よりよい豊かで資本主義社会の自由を謳歌する国民国家建設という国民国家イデオロギーに吸収されてしまったのでしょうか。民主化闘争の崇高な理念は、国民国家イデオロギーの枠に埋没してしまったのでしょうか。教会が韓国の経済的発展を誇りさらに韓国を原発大国にするということはそういうことです。1000万人もの信者数を誇り、東洋のイスラエル、日本の天皇をクリスチャンにする、日本をキリスト教国にして日本人を「救う」と宣言して日本宣教に力を入れる韓国教会はもはや、社会正義を求めて弱者の為に命をかける教会ではなく、教会の勢力拡大を求めて国民国家を支える大勢力になってしまったということなのでしょうか?

このように考えると、朴牧師のアメリカに対する幻想が透けて見えます。彼の書き方は黒人大統領を生み出すアメリカを賛美し、クリントンを称えるかのようです。しかし植民地であった国家が独立しても旧宗主国から経済的、文化的、政治的影響から抜け出せないのは、アメリカを中心とした世界の資本主義のメカニズムがあるからというのは西川さんの説明です。朴牧師の著作の中ではキリスト教国アメリカを批判し、黒人大統領オバマは国内外の植民地政策によって弱者を生み出し、戦争をしてきたアメリカの歴代大統領のまさに後継者であることに言及する言葉は全く見当たりません。

先月、日本で最後の講演をされた池明観先生は、講演の中で「3・11」に関しては一切触れずアメリカに永住の地を求めて行かれました(6)。民主化闘争を体現した朴炯圭牧師の後の世代の私たちは国民国家のイデオロギーに絡み取られない方向に歩むことができるのでしょうか。それは彼ら尊敬する先輩がそうであったように私たちが命をかけて闘う目標なのでしょう。人間は「時代の制約」から逃れることはできません。

6 最後に
私は「在日」として自らのアイデンティティに悩み、結局、既存の民族や国家の枠に自らを同一化することはできませんでした。私は来るべき、あるべき社会に自らのアイデンティティを求めることを決意した人間です。「私たちの本国は天にあります」(ピリピ人への手紙3章20節)。

国の分断、北との対峙、世界の列強との地政学的な関係というように、「苦難の歴史」を歩む韓国人の歴史・現実認識は日本で住む私たち「在日」とは異なることも多いでしょう。しかし「3・11」を経験した私たちは、もはや、原発をなくす方向に舵を切らないと生きていけないということを知ってしまいました。違いを超えて一緒にやれることは何か、これまでとは違う、民族や国家の枠を突き破り自分の住む地域社会のあり方を模索する、地道な活動を伴う視点を共有する新しいつながりができるのではないか、私はそのように考え始めています。

「原発体制を考えるキリスト者ネットワーク」(CNFE)共同代表
(http://wwwb.dcns.ne.jp/~yaginuma/)


(1) 崔勝久「人権の実現―「在日」の立場から」(斎藤純一『人権の実現』法律文化社 2011)
(2) 朴鐘碩「続日立闘争」―職場組織の中で」(崔勝久・加藤千香子共著編『日本における多文化共生とは何か』(新曜社 2008)
(3) 「核のない世界のための韓国キリスト者信仰宣言」は時に注目されるべきものです。その信仰宣言を基にして新たな全教会的な組織が作られています。来年の世界キリスト教協議会(WCC)が釜山で開かれることが決定され、そこで「信仰と核は両立しない」という信仰告白の下、核のない世界の決議がなされようとしています。私たちも全面的にその動きを支援し連帯していきたいと思います。
http://www.oklos-che.com/2012/06/blog-post_13.html
(4)韓国で安保サミットの最中、宗教者の脱核・脱原発の宣言文が発表されました
http://www.oklos-che.com/2012/03/blog-post_26.html
(5) アメリカの意向を示す直接的な証拠はありません。しかし経済合理性の面からしても原発は採算に合わないと言われてきたのに、1979年のスリーマイルの事故以来34
年ぶりにオバマ政権が原発建設をWestinghouse Electric社に認めたこと、日本の東芝がその会社の98%の株をもっていること、マイクロソフト社のビル・ゲイツは莫大な私財を東芝に投資していること、ビル・ゲイツは中国との原発建設の契約を締結していることなどからして、また原子力政策に関してはアメリカは世界を支配する立場にあることからして、日本の再稼働にアメリカ政府の意向が反映されているとみるのは自然です。http://www.oklos-che.com/2011/04/blog-post_2540.html
(6) 池明観先生は日本のキリスト者の中でもっとも尊敬されていた韓国人で、雑誌『世界』の中で15年にわたって「韓国通信」をTK生という匿名で韓国の状況を全世界に知らしめた貢献者です。しかし池先生は日本での最後の講演で、「3・11」のことにまったく触れられず、日韓中の文化的な共存を強調しながら、いびつな共産主義国家である北朝鮮への批判的な見解を披露されました。そして韓国教会はあまりに政治的になりすぎ分裂をしたので教会の一致を図ることが重要だという自論を述べられました。その時の印象を私はブログに記しました。
ブログ:「東アジア史と日韓関係」池明観先生の講演会に参加してー新たな課題の発見 http://www.oklos-che.com/2012/05/blog-post_06.html


参考文献
1 斎藤純一『人権の実現』(法律文化社 2011)
2 崔勝久「東日本震災を「在日」としてどのように捉えるのか―地域変革の当事者としてー」(鈴木江里子編『東日本大震災と外国人移住者たち』明石書店 2012)
3 崔勝久「3・11フクシマ原発事故をキリスト者としてどのように受けとめるべきなのか」(新教出版社編集部編『原発とキリスト教』新教出版社 2011)
4 崔勝久・加藤千香子共著編『日本における多文化共生とは何か』(新曜社 2008)
5 崔勝久 ブログ「OCHLOS」: http://www.oklos-che.com/

1 件のコメント:

  1. 貴稿を拝読しました。「反原発運動の国際連帯」を追求する視点から、韓国の民主化闘争を検証するという作業は重要だと思います。それは、けっして闘争の意味そのものを否定するものではなく、むしろより人間らしい社会を作るために過去を省察するという作業だと理解しています。そのような作業を進める上で、私は以下の3点が重要であると思います。

    1.韓国における「3・11」のインパクトの検証

     日本では「3・11」以後、ようやく反原発運動が全国規模で展開されるようになりました。「3・11」以前の日本では、私もそうですけれども、「原子力の平和利用」が「核兵器」と切り離されて理解されてきたのです。現在の日本では、現在の原発を動かそうとする者でも、「将来的には脱原発」を言わざるを得ない状況です(もっとも、その状況を維持できるかどうかは、今後の日本の人々の「記憶力」の如何によります)。
     では、韓国では「3・11」はどのように受け止められたのか、改めて検証する必要があると思います。一方では、朴元淳ソウル市長が誕生したように、「脱原発」を進める主張が誕生することもありました。しかし、多くの韓国の人々は、放射能と地震について、「日本は怖いところ」と恐れる一方で、自国にいかに多くの原発があるのか、まだまだ覚醒していないようです。
     それでも、最近は韓国でも古里原発の問題が度々取り上げられており、じわじわと「3・11」のインパクトが広がっていると思います。韓国の人々が、韓国の「原子力ムラ」の問題を追求する勢いも強くなるのではないかと、希望的観測も含めて、展望しています。

    2.韓国における反原発運動の掘り起こし

     崔勝久さんが日立闘争に取り組まれていた、まさにそのときに原発建設が行なわれ、立地予定地では電力会社と住民との攻防が展開されていました。しかし、日本の住民運動史に反原発運動を位置づける作業は、これからなのではないかと思います。
     韓国における反原発運動の歴史について、不勉強な私はまったく知りません。しかし、立地予定地での原発をめぐる攻防の歴史を掘り起こす作業は、日本以上に必要なのではないかと思います。それは民主化闘争の主流ではなかったかもしれません。それでも、原発建設の歴史とともに、反原発運動の歴史も合わせて続いてきたのだろうと思います。

    3.世界の反原発運動との関連で

     最後に、日本はもちろんですが、韓国の反原発運動が世界史的な反原発運動の中にどのように位置付くのか、興味深いところですし、考えなくてはなりません。とりわけ、ヨーロッパではそのような実践があったからこそ「脱原発」の方向を実現したことを考えると、アジアでも反原発運動を蓄積することによって、核兵器とともに原発も放棄することができると思います。「脱原発」に向けて克服すべき課題を考えるためにも、反原発運動の国際連帯を実現させるためにも、さまざまな地域における運動に学び、それとの関連で韓国や日本の運動を省察するという作業が必要だと思います。

     以上、非常にざっくりとコメントさせていただきました。よろしくお願いします。



    投稿者: 吉澤文寿 、ブログ名: OCHLOS(オクロス)、日付: 2012年6月25日 21:17

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