2012年2月17日金曜日

「自らを問う」・「これは始まりにすぎない、闘いを続けよう」-西川長夫さんの出版記念シンポジュームに参加してー朴鐘碩

「外国人への差別を許すな・川崎連絡会議」の代表で、もうかれこれ20年近く私たちと一緒に川崎で運動をやってきた、私たちの心から敬愛する、「労働牧師」の望月文雄さんの『SYNDROME 通信』で、朴鐘碩が「連絡会議」の掲示板で書いたものを紹介しています。
朴鐘碩は、2月5日京都で開かれた、西川長夫さんの『パリ五月革命 私論』出版記念のシンポジュームに参加した感想文を記しています。そうそうたるメンバーからの著作に関するコメント、批判を記し、その中で発言した自分の意見から、その時のシンポジュームがどのようなものであったのか彷彿されます。
「自らを問う」という厳しい自己に対する視点、「これは始まりにすぎない、闘いを続けよう」というフランス5月革命のときの壁新聞でのことば、大変印象的です。 崔 勝久


京都大学人文科学研究所 人文研アカデミ-・シンポジウム:西川長夫著『パリ五月革命 私論』をてがかりにして、「日本からみた68年5月」に参加してー朴鐘碩
於京都大学百周年時計台記念館2F国際交流ホ-ル2012年2月5日
 
会場に着いた時、300人分の資料は、既になくなっていた。広い会場は400名を超えた。空席はない。会場正面両脇に置かれたスクリ-ンに、1968年パリに留学されていた立命館大学西川長夫名誉教授が撮影された『パリ五月革命』の映像が映し出されていた。後方は、当時の貴重な資料、ダンボ-ル10箱分が整理され、パネルとして展示されていた。西川祐子先生の力作である。

第1部 対論「私」の叛乱 長崎浩×西川長夫
感想を上手く書けるか自信ない。全てをきちんと報告できないもどかしさがある。私の記憶と連れ合いのメモを辿りながら報告する。

長崎氏は、「文章を書く、自分を語る場合、「私たち」ではなく「私」を語ることが大切である。自己否定という言葉、否定しようとしても「私」はない。全共闘運動は自分探しとして括られることが多い。戦後の私は、階層の一員としての「私」を形成「私」としての我々という、我々としての「私」を規定する。全ては神秘的に始まり、政治的に終わる。(パリ五月革命は)労働者の運動と平行した為に、政治的に終わった。」

西川教授は、医者と患者の関係を比喩的に話され、「長崎さんは、アジテ-タであり医者、アジられる側から、患者の側から私が感じている、私とはかなり違う。68年は「私」がなくて、その後「私」が形づくられる。語り始めることによって、様々な「私」が形成される。現象として皆がしゃべり始める。署名のない落書き、既成の団体・政治から自由になり、何かわからないがしゃべる。そこから形成されてくるものがある。私は、(パリ五月革命を見て)あっけにとられなかった。これは始まりに過ぎない。闘争を続けよう。闘争を続けよう。」と語る。また「独裁体制は民衆によって支えられ、繰り返す。それが繰り返される中で全く新しい運動形態が生まれる。」「戦争体験の捉え方の違いがある。敗戦の時の廃虚。敵は何か。戦争を起こすもの、国家と資本。植民地主義。」西川先生は、評論家・長崎浩氏との思想の違いを、「植民地朝鮮から引き揚げた体験にある」と最後に語っていた。

学問的な対談を聞きながら、私でも理解できる部分があった。「1968」に生きた「私」というものがなかった学生、若者たちは、「私」を求め、「私自身」を見つけることの闘いであったのではないか。「自分が一体何者か」を求めたのではないか。

1970年に始まった日立就職差別裁判闘争、19歳で訴訟(「叛乱」)を起こし、「私は一体何者なのか」悩んだ。「私を求める」闘い、「私は何者か」という哲学的・人間的課題は、日立闘争に関わった同時代に生きた日本人青年、同化した私、パリ五月革命の学生、青年も同じだったのではないだろうか。
日立闘争が始まった頃、学生運動は翳り始めた。しかし、多くの新左翼の学生・(朝鮮人)青年が「自分は一体何者か」「私・自分」を求め日立闘争に関わったと思う。

第2部 シンポジウム 転換点としての68年
安丸良夫 一橋大学名誉教授
上野千鶴子 前東京大学名誉教授
伊藤公男 京都大学教授
中島一夫 近畿大学文芸学部准教授
総合司会 市田良彦 神戸大学教授

「1968年」をどのように見るか、一人ひとりに「1968」があった。全共闘、ウ-マンリブ、ベトナム反戦運動、華青闘の告発と糾弾、入管闘争、連合赤軍事件、多くの事件があった。

はじめに西川長夫教授と学生時代から親交がある、民衆運動史・思想史の第一人者である安丸教授が話す。肺がん手術を受け。声がかれていたにもかかわらず、参加者に必死に話しかける姿が印象的だった。「当時、難しいサルトルの弁証法的理性批判を研究・勉強していたが、難しくて意味がわからなかった。でも自分はこういう難しいことを勉強、学んでいるんだなあ、と納得しそれを楽しむ」というユ-モアのあるユニ-クな発言に会場から大きな笑いが起こった。「学生運動の中にあるユ-トピア的なものは、挫折する。形を変えて継承したり、形を作り治したりいける。その為には努力と工夫が必要」

「ここに集まった私たちは何者か。浅間山荘事件から40年。何故、私はここにいるのか。68年世代の女がおらん、と呼ばれてここに来た」と切り出す上野教授。「運動は高揚期が短く、退潮、退廃期が長い。もし、(西川教授が)全く同時期に日本にいたら、管理者側に回るか、追放者側に回るか、どちらの状況になるか。その後の自分の変化を付け加えていただきたかった。68年がどう自分を変えたか聞きたい。女から見てこの時代はどうだったのか、という点が触れられていない。68年は、何の転換点だったのか。1968年世代は、世界史的に何を成し遂げ、何を成し遂げなかったのか」と西川教授を批判。

伊藤公男教授は、「1968は、殆ど思想が残らなかった。党派や組織が置き去りにされていく。権力奪取を目指す武装集団とアナ-キ-なもの。権力奪取を目指さない運動もあるが、政治をやるかぎり、形を持ってやるべきではないか。「私」から出発する語り方が必要」と語った。

「1968年」を経験しなかった1968年生まれの近畿大学文芸学部中島一夫教授は、津村喬氏について研究し、中国人、朝鮮人へのアプロ-チを語る、奥深い話だった。華青闘事件、告発と糾弾(私も日本人を告発し糾弾した一人だった)、入管闘争に関わり自殺した中国人青年のことに触れた。
「津村は言います。教育や労務管理の再編もが日帝のアジア侵出と直結している、日本人全体をアジアの管理層にしていくという形で結び付いている」「作家村上春樹は、原発事故の悲劇や核の恐怖を次のように訴えました。「ご存知のように、我々日本人は歴史上唯一、核爆弾を投下された経験をもつ国民です」、したがって「我々日本人は核に対する「ノ-」を叫び続けるべきでした」「歴史上唯一、核爆弾を投下された」「国民」。これが、原爆死没者慰霊碑の言葉「安らかに眠ってください。過ちは繰り返しませんから」とセットで述べられていることからも明らかですが、このスピ-チは、基本的に一国平和主義的でナショナルな認識に基づいています。」(全文http://d.hatena.ne.jp/knakajii/)。小松川事件、1968年のキム・ヒロ事件、日立就職差別裁判が始まる頃、自殺した早稲田の学生・山村政明氏のことは触れなかった。

司会の市田良彦教授は、会場からの質問・意見を求めた。3名が発言した。
その中の一人として、私は以下のように述べた。
「私は、このシンポジウムに参加して改めて自分は一体何者か。朝鮮人である私は、何故ここにいるか、考えさせられました。悩み、生き方を求めることに国籍は関係ない。朝鮮人も日本人も同じです。

京都で思い出すのは、井筒和幸監督の映画「パッチギ」です。廃品回収の貧困家庭を支える朝鮮人青年が中古のポンコツトラックに屑鉄を積み込んで、ヘルメットを被った新左翼の学生たちに鉄パイプを売り込むシ-ンが出ています。私は、まさにこのシ-ンが「1968」、当時の新左翼運動と朝鮮人の関係を示していると思います。井筒監督は、(新)左翼運動を強烈に批判・風刺していると私は理解します。

今日、ここに来る途中、京都市長選投票日であることを知りました。やはり京都も川崎と同じように同じように「当然の法理」で外国籍公務員に職務制限し、決裁権ある管理職への道を閉ざしています。「当然の法理」という言葉を皆さん聞いたことがあるでしょうか?

戦争責任と関係しますが「当然の法理」、就職差別は、戦後続いています。そのことと今「私」がここにいることの関係、繫がりを考えます。この問題についてどのように考えますか。外国人も日本人と共に開かれた地域社会を作る必要があります。私自身、無知、未知ですが、学術的な集まりであるこのシンポジウムに参加できて良かったと思います」という趣旨の意見と質問を提起した。

「1968年」大学紛争に参加した学生数のデータを示した上野教授は、「こんな社会に誰がしたと若者から問われる今、昨年3・11原発問題は胸に突き刺さる」と自問した。「当然の法理」について「従軍慰安婦問題」への取り組みと絡めてコメントいただいた。

パネラ-の方々は、「1968」について多くを語ったが、ものが言えない今を生きる、就職できない学生・青年・後輩たちは、どこに怒りをぶつければいいのか。やはり、「1968」は何を残したかと私は疑問を感じた。「1968」の意味は、現在に繫がっているか。西川長夫教授は、「戦後とは植民地」であり、「現在の植民地主義に対して闘わなければならない」と書いている。

連れ合いの大学時代の友人の同世代の御主人は、「確かに何で自分がここにいるか問われる」と一言感想を述べた。

会場で加藤千香子横浜国立大学教授御夫妻にお会いした。シンポジウムが終わって「川崎市民の会」のFさんに偶然出会った。彼女は、安丸良夫教授の教え子だった。

記憶とメモを頼って感想文を書いているうちに、私は理解できなかった部分もあったが、先端の社会・歴史学者である先生方の対談とシンポジウムの素晴らしい内容を直接聞けたことに感動し、学ぶことが多かった。

私にとって、1970年に始まった日立闘争、37年間の続「日立闘争」は、何だったのか、何を残したのか、何を変えたのか、自らを問う集まりであった。

【刊行記念パ-ティとお祝いスピ-チ】
      朴鐘碩2012年2月5日

3時間に亘る対論、シンポジウムが終わり、京都大学時計台前のレストランで記念パ-ティが開かれた。西川長夫教授御夫妻と親交ある教授、学生、知人の方々など50名近い関係者が集まり、『パリ五月革命 私論 転換点としての68年』の出版を祝った。

大学教授が学問的なお祝いを語る中、僭越ながら私も祝賀スピ-チをさせていただいた。「日本における多文化共生とは何か」紹介した。パネラ-であった中島教授、伊藤教授、中部大学社会学教授に購入していただいた。上野教授は、わざわざタブレット端末で私の定年退職の記事(朝日新聞2011年12月28日)を検索し、中島教授に紹介していた。

西川祐子先生は、当時の貴重な資料、ダンボ-ル10箱を大切に保管し預かっていただいた御夫妻を紹介し、胸がいっぱいのご様子で長夫先生と共にパリで経験された68年当時のこと、ご自分の思いを話された。
最後に西川長夫教授の挨拶は、「シンポジウムで出された上野さんの批判に応えるためにもさらに本を書きたい」と抱負を述べ、パ-ティ会場から大きな拍手が起こり閉会となった。

西川先生との出会いをきっかけに、集会準備された方々の二次会で、私は、伊藤教授、学生はじめ京都大学人文科学研究所の多くの方々と交流できた。私と同年の伊藤教授は、日立闘争に関わった一人でした。

「国境を乗り越えるにはどうすればいいか?」と伊藤教授から問われ、酔って直ぐ応えられなかった。今思えば日立闘争にその回答があった。足元の問題を具体的に外国人・日本人の協働の作業でやり続けるしかない。それは、国際連帯となって1974年「世界の日立」に勝利した。頭の回転が鈍い私は、帰りの新幹線の中で考え、自宅に戻ってそのことに気付いた。

そう言えば西川長夫先生は、シンポジウムの最後に「具体的な闘いを続けるしかない」と語った。『パリ五月革命』で壁新聞に残された、「これは始まりにすぎない、闘いを続けよう」という言葉がある。

学問の世界と無縁、無知な私が皆さんと出会い、忌憚なく対話できたこと、心より感謝します。足元の問題に取り組む地道な運動は、西川長夫教授が書いているように学問と深く繫がっています。これを機会に更なる交流・対話を続けたいと思います。京都大学で出会った先生、学生の皆さん、「参加して本当によかった!」です。今回も西川長夫先生、祐子先生はじめ皆さんから多くを学びました。今後ともよろしくお願いします。本当にありがとうございました。


【お祝いスピーチ】
西川長夫先生、祐子先生、「パリ五月革命 私論 転換点としての68年」の出版、心よりお祝い申し上げます。

案内状に同封されたポスタ-は、連れ合いが道行く人が見えるように道路に面した自宅の壁に貼りました。

パリ郊外のパリ大学ナンテ-ル分校の学生たちの闘いは、1968年に始まりましたが、私は、1970年国籍を理由に日立製作所から採用を取り消され、3年半の裁判闘争勝利を経て職場に入り、昨年11月定年退職しました。先月1月6日、川崎で「今、改めて日立闘争の意味を問う」シンポジウムと祝賀会を開き、御支援いただいた方々から労いの言葉をいただきました。寒い中、ご多忙にも関わらず西川先生ご夫妻も来ていただき、本当にありがとうございました。また、一昨年12月先生のご自宅で「植民地主義研究会」にお招きいただきありがとうございました。

3年前の2009年2月2日、横浜国立大学で西川先生の「多文化共生と国内植民地主義」をテ-マに講演された授業を受けました。先生との初対面でした。お会いする前に、「国境の越え方」「新植民地主義論」を自分が日立の職場でやっていることの意味を考え、頷きながら読みました。私はすっかり魅了されました。「企業社会は植民地そのものではないか」と改めて認識し、「企業内植民地」という言葉を使って、西川先生の書かれた論文から、著作権の侵害となることを承知で、いっぱい引用させていただきました。今回も出版された本についてBlogに書かせていただきました。

横浜国大の授業の翌日、「外国人への差別を許すな・川崎連絡会議」との交流会において、西川先生が「小生がこの2,30年間、書いたり、しゃべってきたこと(いわゆる国民国家論)は、一口で言えば、この「当然の法理」に対する闘いであった」と結んだ言葉が印象的で、今も脳裏から離れません。

今日は、京都市長選の投票日でしたが、「当然の法理」というのは、日本人ではない外国籍公務員に職務を制限し、管理職への道を閉ざすことです。現川崎市長は、「いざというとき戦争に行かない外国人は準会員」であると差別発言しています。

西川先生は、「現在の植民地主義に対して闘わなければならない」と論文で書かれていました。私は、「企業社会で、おかしいことはおかしいと自分の生き方を賭けて、足元でものを言うことは、西川先生の理論に合致し、植民地主義に抵抗することだ。私自身が植民地主義と闘わなければならない」と改めて決意しました。

著書『パリ五月革命』に高校生、学生、若者たちが、建物の壁、新聞、バリケードなどに書き残したメッセージがたくさんありますが、「これは始まりにすぎない、闘いを続けよう」「まず孤独。次はまた孤独。おしまいも孤独」「真実のみが革命的だ」「現実に目を開け」は、私の思いを代弁していると感じました。

私自身の37年の「続日立闘争」から学んだこと、つまり自分の置かれている現場で、個別・具体的な活動を通じて、国籍・国境を乗り越えて対話を継続し共に歩むことこそ、人類の永遠なる課題である「植民地主義、国民国家」を克服し、歴史の和解を目指す近道であることを改めて西川先生から学びました。

西川先生の出版記念パ-ティで、この「日本における多文化共生とは何か」を紹介するのは心苦しいですが、関心ある方は購入いただければと思います。

体調に留意されて、これからも私自身の精神的な支えとして、飛躍されることを願っています。お招き、本当にありがとうございました。

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