2012年2月18日土曜日

在韓被爆者2世の証言

私は不明を恥じますが、昨年、この40年在韓被爆者に関わって来られた市場淳子さんのお話を伺うまでは、「在日」の問題を追及してきた私と在韓被爆者の問題の接点が整理できないでいました。お互いの発題を終えた後、彼女は「脱原発」の国際連帯運動を強調する私に歩み寄り、崔さん、その運動は在韓被爆者の運動と関わりますかと尋ねられました。

私は彼女の発題の間中、私が話そうとする、現代(戦後)の植民地主義の問題としての「在日」と「原発体制」の関係を考えていたので、戦前の植民地主義との継続性のことがはっきりと見え始め、はい、必ず取り上げたいと思いますとお応えしました。

従軍「慰安婦」問題に関する韓国の憲法裁判所の判決の内容を知っていた私は、在韓被爆者問題についても同様の判決が出て、韓国政府の「不作為」を憲法違反としていたことは知らなかったのです。そして彼女は後日、私が電話をして、1月の横浜での「脱原発世界会議」で在韓被爆者の資料を配布することを提案したところ、彼女は当日、横浜まで来ると言うのです。私たちが借りたブースの前で人が、市場さんを囲んでの車座での即席講演会が行われました。

【慰霊閣の案内文】(日本語の部分)

案内文
1945年8月6日、日本の広島市に初の原子爆弾が投下され、さらに8月9日長崎市に投下され、一瞬にして数74万の犠牲者が出ました。この74万の中に韓国人が約10万人があったことを知っているでしょうか。この10万の中で日本で死亡した韓国人約5万人、その後4万3千人ぐらいは韓国に帰国し、7千人ぐらいは日本に残ったといわれますが、韓国人の被爆者実態調査が遅れた事と韓国には日本のように被爆者に対する援護への法律が無いため、その実態が明確ではありません。韓国人にとって長いこと、被爆への怒りをぶつけるところがありませんでした。しかし、ようやく被爆から52年後の1997年、韓国の広島、すなわち韓国では被爆者の最も多いこの陝川に、高橋公純(太陽会理事長)が日本人としての懺悔の心を表したいとして、自費でこの慰霊閣を建立しました。慰霊閣の中の位牌も、高橋理事長が毎年毎年直接書き、2002年現在で700位を越しました。私達被爆者は、日本被爆者ほど世界に訴えることも出来ず、又、世界に知られているわけでもなく、援護も受けていませんが、毎年広島原爆投下日の8月6日には、ここに集まって慰霊祭を行っています。

社団法人 韓国原爆被害者協会 陝川支部

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韓国で教鞭をとっている岡田さんから在韓被爆者2世の貴重な証言の記録を送っていただいたので、みなさんにご紹介します。在韓被爆者2世は、医学的には遺伝であったのか証明されていないのですが(日本の多くの被爆者2世は韓国の被爆者2世がカミングアウトをして大きく社会問題化をすることに必ずしも賛成の
立場ではないそうですがー市場さんの説明)、実際、肉体的・精神的に大きな苦痛を受けているという現実があります。しかしこの在韓被爆者問題そのものを、韓国の憲法裁判所は「慰安婦」問題と同じく、韓国政府の「不作為」を違憲としたのですから、選挙の年である今年、これらの問題は必ず可視化され、韓国政府は日本政府に何らかの強いアクションを起こすでしょう。日本の市民、マスコミ、特に「反原発」運動に関わる人たちがどのように受けとめるのか、注目されます。そして何よりも、北朝鮮には一切日本から放置されたままになっている被爆者が生きていると言う事実は忘れられてはなりません。

写真は海印寺(ヘインサ)の、テンプルステイ修行館での交流会で、訴える韓正淳さまと、話しに聞き入るWakl9の皆さん。

韓正淳(HanJeongSun)さん、11月1日Walk9との交流会でのお話(海印寺にて)

こんばんは。
「原爆2世患友会」会長・韓正淳(ハン・ジョンスン)です。
このようにお会いすることができ、嬉しいです。「韓国原爆2世患友会」についてお話いたします。

「原爆2世(被爆2世)」とは!
1945年8月6日広島に、8月9日長崎に原爆が投下され、そこに住んでいた祖父母や父母が被爆し被害者となり、その子供たちに遺伝し、現在苦痛を受けている人たちを「2世患友」といいます。私も原爆について知るようになったのは、私自身が患者だからです。しかし、私たちは、核戦争がいかに多くの人々を殺し、痛み・病気が遺伝され、いまだその戦争の中から抜け出すどころか、いつ終わるとも知れない人生に、嫌悪さえも感じています。

皆さん!
去る2002年、最初に「原爆2世患友」であることを表明された初代会長、故・金亨律(キム・ヒョンニュル)様は先天性免疫グロブリン欠乏症という奇病で、肺が普通の人の30%しかなく、少しでも疲れたり風が吹いただけでも、激しい咳がでるので、夏でも長袖姿をして出かけなければなりませんでした。学校生活と社会生活を、順調に過ごすこともできませんでした。

幼いころから、肺炎で病院を数十回も入・退院を繰り返す生活をしながら、遺伝性の病気であるということを知って、お母様が原爆被害者であることを表明され、明らかに原爆の放射能が原因で遺伝したのだということを世間に知らせました。さらに、自分一人だけではなく、もっと多くの被害者がいることということを予測して、韓国政府と日本政府に、患友たちがかろうじて病魔と闘っているという事実を認定し、厳しくやっと生きている患友を「先に支援、後究明」してくれ、と叫びながら飛び回っていましたが、病気が悪化し、35才の若さでこの世を去りました。

彼の後を引き継いだ、2代目チョン・スクヒ会長も、大腿部無血性壊死症で両脚に人工関節手術を受けました。不自由な体でも、苦痛を受けている患友と一人でも多く共に生きていくために、ひとりひとりの患友の方たちの元へ通い続けました。

3代目の私が会長を受け持って、陳景淑(チン・ギョンスク)事務局長と一つになって最善をつくし努力していますが、体が悪く無力な私たちにはあまりにも重い荷物で、私たちの政府や日本政府まで力が届かず、得たものは疲れだけ、疲れた身体と溜め息だけでした。私たちの両親は、強制徴用で連行され、強制労働者にならなければならなかったし、原爆被害者にならなければならなかったし、財産もなく乞食同然になっただけでも足らず、子供たちにまで病気の苦痛を引き継いで(遺伝して)くれました。これを、黙って見つめるほかない父や母の心は、真っ黒に燃えつくすような苦痛を味わったわけです。それでも認定さえしないとは、話にもなりません。

皆さん!
私の父母は被爆当時、広島に住んでいました。
被爆の被害にあって、持つものは何もなく、原爆被害者だということの他には何もなかったのです。そうして、故郷の陜川(ハプチョン)にまた戻って、2男4女の6人の兄弟姉妹を産みました。私は、6人の兄弟姉妹中5番目に生まれました。幼い時から虚弱で、よく倒れたりしました。少し大きくなれば良くなるだろうと言われたのに、日が経つにつれてひどくなりました。私が15才の年からひどい痛症で苦痛は始まりました。

しかし、育ち盛りだったので成長過程だからだろうと思いましたが、ますますひどくなり、就職してもやめるということを繰り返しました。やがて結婚もして、2人の子供の母となった私は、これ以上歩くことができなくなったのです。病院に行って受けた診断は、大腿部無血性壊死症で両脚に人工関節手術を受けることとなり、その費用も侮れませんでした。30代初めに手術を受けたのですが、一度で終わる手術ではなかったのです。人工関節の寿命は10年、その後また手術を受けなければならなかったので、その苦痛はとうてい話しつくせないものでした。

これだけではありません。長姉は62才ですが、一生目まいで苦痛を受け、二番目の姉は腕関節手術を受け、三番目の姉は私と同様に足の人工関節手術を受け、兄は心筋梗塞狭心症手術を受けて、4姉妹は皆、紅斑という皮膚病を病み、6人の兄弟姉妹は皆、血圧薬を飲むことが不可欠になったのです。私の息子は、ですから3世となりますが、今27才で、先天性脳性麻痺で、いまだに自ら一人でできることは何もなく、横になって生活しています。充分話しつくせませんでしたが、私の家族の話はここまでにします。

今、私たち患友の現状は以下のようです。[会員人員500人余り]
先天性免疫グロブリン欠乏症、大腿部無血性壊死症、精神分裂、ダウン症候群、甲状腺異常、皮膚病、高血圧、糖尿病、筋弛緩症、肝臓癌、視覚・聴覚障害、心筋梗塞狭心症、各種癌など多様に症状が現れています。また、ひどい症状の方々は30~40代でお亡くなりになる方々が増えて、10才未満の人もたくさんこの世を去りました。病気のことさえも、心おきなく「病気だ」と話すことができず死んでいきながらも、病院費を心配しなければならなくなっているのが、現在の「原爆2世患友」たちの実情です。

すべての戦争は、始まりがあれば終わりもあります。勝利した国もあれば敗れた国もあるでしょうが、戦争が終わった果てには被害者だけが残るのです。それより悲惨なものは核戦争です。私たちの意志とは関係なく、核の被害者の子供は、生まれたその日から戦争が始まるのです。

核戦争のトンネルは、終わることがありません。このように長いトンネルでさまよっている私たちの苦痛は、原爆被害者、強制徴用、「慰安婦」ハルモニに比べても、歴史的にそれほど資料が残っていないので、世の中に知られることもなく、丸ごと、私たちの宿命として背負っていかなければならない宿題になっています。

ですが、私どもが背負っていくにはとても荷物が重く、死ぬ程つらくて耐えることができません。それでも、動くことができる人は、自らの人生の話も伝えることができますが、精神発達障害、ダウン症候群、視覚・聴覚障害を抱えている方は保護者なしでは外出も不可能です。私たちはこうした方々のために、激励と関心を惜しまず支持して下さる方々がいるので、「先に支援、後究明」の目的達成のために努力しています。
再び、この世に原子爆弾が、戦争がない世の中を望みます。

痛みはもうご免~~ 

いつかは、私たちの政府や日本政府も認定して下さるだろうと信じること一つで、力が及ぶ限りは行動してみようと思います。

とても長い長いトンネルの中で、満足に光を見ることができないままお亡くなりになった患友たちのためにも、決して挫折しないで、天にいらっしゃる方々は天で、私たちは地上で、叫んではまた叫んで、日本政府と米国政府の責任放棄には補償を、また私たちの政府には特別法制定を要求して、それが成し遂げられるその日まで頑張るつもりです。ありがとうございました。

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