2011年10月11日火曜日

釜ヶ崎の本田さんとの対談ー(その7)隣人を具体的に愛することがすべて

ー(崔)先ほどのイエスの受難によってすべての人にその生命が与えられているということだから、本人がイエスを自覚しようがしまいが、その人は自分の命をどう守るか、生きるのかということになりますよね。それは非常に微妙な言い方で、命を生きると言うのはある意味で、イエスに従って、イエスが生きたようにという意味ですよね。

(本田)イエスが生きたようにということなんですが、それをイエスと言う言葉を使わないでパウロは表現していますよね。(パウロはイエスのことは言及しませんねー崔)あんまりね。具体的にどういうことを言っているかというと、「互いに愛し合うことのほかは、誰に対しても借りがあってはなりません。人を愛する者は、律法を全うしているのです。」(それはイエスの言葉じゃないんですかー崔) いやいや、パウロです。隣人を自分と同じように愛しなさい、大切にするというのは、レビ記のことばです。そう、イエスも引用しています。だけどパウロほど明確な形ではイエスは言っていない、ですね。パウロがはっきりと言ってます。(聖書を朗読して)「あなたたちは互いに愛しあうことのほかは、だれに対しても借りもあってはなりません。人を愛する者は、その人は律法をすべて守ったことになるのです。不倫をするな、人を殺すな、略奪するな、人のものを欲しがるな、その他どんな掟があっても、このひとつに集約されます。即ち、隣人を自分のように大切にしなさい。」(それはどこですか、済みませんー崔)

 ロマ書の13章8-1節ですね。これがキリストのように生きるということですね。それであったら、隣人を、仲間を自分のように大切にしているというのは、どこの世界にもいるわけです。その人はまさにキリストの命を生きているということになります。だから教会にこだわらないのです。イエス自身、当時は教会ではなく、神殿ということしか表現できなかったわけでしょう。サマリヤの神殿が正しいのか、エルサレムの神殿が本物なのか、どっちなんだとサマリヤの婦人に訊かれて、今はどの神殿ということではないんだ、自分の心において霊において神に祈る、まさにその時が今だ、神殿はいらない、それから弟子たちが神殿の素晴らしさを褒め称えるときに、石の上に一つの石も残らない、なくなってしまいますよ、なにも残り物はないって言ってますよね。

ー(崔)そのときに、イエスもパウロがそうであったように、神信仰が強くあったからこそ、隣人愛ができたのだ、だから人は弱いんでそういう神信仰を強く持たないと、人を愛することができない、というように普通言われますよね。

(本田)それはあまり体験がない人たち、神父たち、牧師たちが言う話であって、実際に現場で体験している人は、神を意識するしない、イエスを意識するしないに関わらず、実際に仲間を大切にするときにその見返りがどれほど豊かで、どれほどこちらが元気になるか、本人もそうだし、お互いにそうですね、これはね、本当に聖霊が働いているんだという実感がそこにあるわけです。

ー(崔)なるほどね、それは実は聖霊が働いているからだというわけですね。今のような考え方だとあれですね、新約のいろんな学者の聖書学批判というか、あまり意味がなくなりますね。

(本田)あまり意味がない、私は最近は、聖書は読まなくてもよい本なんだというのが、ひとつの結論ですね。だって隣人を自分と同じように大切にさえしたら、後何の負い目もないよ、教会に行かなくてもいいよ、聖書読まなくても大丈夫、そのひとつだけ、実践してという。だから親ごさんがね、自分の子供が教会に行かなくなっちゃったと悩んで苦しんでいるけど、ただ一つだけね、教会に来なくてもいいけど、苦しんでいる仲間を放っておくなよって、それだけ守らせる。それで十分な、最高のキリスト教教育ですよ。

ー(崔)それ、非常によくわかりました。(崔勝久さんなんてとっくの昔にわかっていることばかりでしょうー本田) いえいえいえ、もうひとつキリスト教というものが、自分の罪、人を愛せないとかね、パウロも言いますけど、人を愛せない罪びとである自分が、教会に行くことによって、聖書を読むことによって救われるんだと言いますが、それは隣人ということではつながらないですよね。(そうそう、むしろ乖離させるー本田)で、教会は人の救いと言いますよね。うちの教会なんかは大変福音派的で、「魂の救い」と「弟子づくり」、教会の発展ですよね、このふたつが教会のレーゾンデートルだということを看板にして、多少大きくなって来ているんですよ。私はそれはとんでもない、って思っているんですが、多くの教会が霊魂の救いと仲間づくり、宣教ですよね、このことを教会の柱にしています。この点に関してはどのように考えられますか。

(本田)それはそのような誤解が生まれた原因は、掟の中で何が一番大事ですかという質問に対してイエスが答えたのは、第一は「神をこころを尽くして精神を尽くして神を愛しなさい」、第二は隣人を自分と同じように愛しないさいっていうこの二本柱を立てて見せたわけですよ。それに対して立と横、神との関係と横の関係、十字の記しでしょうみたいな、そんなんでみんな納得してそれをいつも土壌にしてそこでいろんな神学を組み立てたわけですね。聖書もそれに合わせるように、合わせるように再解釈してしまった。ところがパウロはなぜか、後半の一本の柱にしか触れないですね。神を愛しなさい、なんでそれを抜かしちゃったの、一番大事そうに思えるんだけど。そいうところで改めてね、申命記とレビ記の関連箇所、その前後、両方を読み合わせてみると、はっきりとしてくるんですね。やることはひとつ。レビ記の19章に書いてある、「隣人を自分と同じように大切にする・・・」

そういうことを一切含めて、隣人というのは、隣人を必要としている人にお前がなるんだよ、ってことを言っている。そういうことですよね。それは、結果的に申命記で、神を心を尽くして精神を尽くして愛せ、って言ている、具体的に愛するってどういうことをするのって言うと、申命記の12章にはっきりと書いてあるんです。孤児、寡婦、寄留者を神は大切にする、って。だからあなたたちも、自分がかつて寄留者であったことを思い出して大切にしなさい、これが神を愛するということなんです。やることはね、パウロは思い切って、ひとつに集約してしまった、両方を含んでいるんですね、だけど両方でなくひとつで充分だよ、これが、隣人を大切にすることが神を大切にすることなんだと、その意味で私は、パウロはイエスの教えを歪めた人のように言ってる神学者たちの言うことは一切、無視します。それ違うだろうって。ちゃんと読んでよって。

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