2011年9月14日水曜日

釜ヶ崎の本田哲郎さんとの対談ー(その3)釜ヶ崎の中の外国人

ー(崔)寄場の外国人の数はどうですか、増えていますか。一時は外国人労働者が増えて日本人に仕事がなくなっているという話もありましたが。
(本田)むしろ減っているんじゃないですかね。外国人労働者の中で特に目立っていたのは韓国からの出稼ぎですね。南米の人たちは寄場にはほとんど顔をださなかったですね。あの人たちはある一定の受け皿になる業者があってそこを軸にどこかに派遣されるというかたちで、単独で寄場に来てどこかの現場で働くというのは文化的にも、言語的にもむつかしいでしょうね。ただ韓国人の場合は人夫出し業者が「在日」の人が8割以上9割くらいですから、韓国語も日本語も通じるという関係もありますね。

ー人夫出しとやくざは関係してるんですか。
(本田)そうですね、無関係ではなくて、上納金のようなものを納めていたりだとか、「ケツもち」を頼んでいたりとかそういうことはあるみたいですね。

ーそういう「在日」が多い。それは社会の縮図ですね、「部落」の人も多いんですか。
(本田)ほとんど「部落」の人はカミングアウトしませんからわかりにくいけど、事情通の活動家から見たら、多分あの人、被差別部落出身だと思うとかね、そんなことくらいしかわかりません。

ー日本名を使っていたら人夫出しが「在日」だってことがどうしてわかるんですか。
(本田)人夫出しが「在日」で日雇いが韓国からの出稼ぎ労働者ですね。その人夫出しが韓国語を使いますから。

ー韓国語ができるというのは、「民族学校」を出た「在日」ということですね。
(多くの日本の学校を出た人は)ほとんど韓国語をしゃべれませんから。そうですか、そうすると朝鮮学校を出た人がそういう仕事をしているということですね、それはまた複雑な関係になっていますね。それで韓国からの労働者が段々いなくなったということですか。
(本田)そうですね、これだけ不景気になって仕事がなくて、単価が下がったでしょう。韓国の日雇いの単価と日本の単価は同じような仕事であったとしてもやっぱり倍くらいの差が前はありましたから、メリットがあったんですね。こちらで日雇いで稼いでかつかつの生活をして韓国に送金するということをやってたんですね。今はもうそれもなくなって、そうですね、リーマンショック以降ですね。もう少し前くらいかな。
今カトリック信者でパクさんという日雇い労働者、ミサにも来られているんですが、その人なんかはレイマン(平信徒ー崔)で、どんな仕事でもやりたいということで日曜日の仕事でも行って、この間は仕事でミサに来れなかったとわざわざ言ってくる、ものすごい真面目な人でね。いちいち断りに見えるような人でね。そういう人を見てると韓国からの仲間たちというのは減ってますね。韓国に帰って日雇いの仕事をした方がまだいいかもしれないみたいですね。ただ本人はかなりすごい「紋々」をいれてるんでね、韓国で暴力団組織と関わっていたということでしょうか。

ー「紋々」をいれたカトリック信者ということですね。韓国は政府が独裁だった時代、強権的に徹底的にやくざを逮捕するということをしたんですねよね、昔は。日本のやくざの中にも「在日」が多く、今は韓国に日本のやくざが「在日」を介してどんどん進出しているということも耳にしたことがありますが。そうするともう今は、外国人がいるから日本人の仕事がなくなったというような排外主義的な雰囲気というのはなくなりましたね。
(本田)あんまりそんな風に考える人はいないですね。中にはいますけれどね。
単価自体が下がってきているということもあってね。今は9000円から1万円というところですかね。鉄筋とか鍛冶屋さんとか、大工さんとかはやっぱり1万2千円、1万4千円というのがあるけれども、景気のいい時はみんな2万円くらいもらってましたから。

ーそういう仕事はここではずっと続くと思われますか。大企業は正規社員としては抱えないければ下仕事として必要なわけですよね。
(本田)恐らくね、解体作業というのは人手がいるし、造成にもユンボだけでできるわけでないし。いわゆる人夫業者の仕事というのは必ずいるわけだから、なくなることはないと思うのですが、ただ寄場を介してそいう人たちが仕事に行けるかというと、その辺は段々と違ってきてますね。直接、その人夫出しの事務所に本人が携帯で電話をいれるとかね、だからプリペードカード式の携帯を持てるか持てないかでも仕事にいける確率が随分と変わってきますよね。

ー川崎あたりでは、解体はブラジルの日系人が多いですね。企業の下請けとして組み込まれているように思います。
(本田)大阪はあまりそれはないですね。

ー以前お会いしたときに、外国人との「多文化共生」ということが言われだし、一般市民との「共生」ということを訴えるホームレスの支援運動があったようにお聞きしたんですが、今はいかがですか。
(本田)「多文化共生」という言葉は寄場の中ではほとんど使われませんね。響きがないというか、言っても響かないと言うか。一般の市民運動の中では「多文化共生」という言葉は尊重される傾向があるようですが、それは崔勝久さんが文書で書かれているように、結局それは、上手に黙らせるひとつの呪文みたいな、弱い立場の人を放任してしまう、ひとつの手続きみたいなものですよね。放っておかれる危険性の方が強いというか、「共生」と言っても、釜ヶ崎では目に見えるつながりのない「共生」なんてのは何の値打ちもないですね。その辺は相変わらずだと思いますよ。

ー一般市民との関係をよくするという意味での「共生」ということはないですか。
(本田)釜ではそれはないですね。なんだかんだ言っても善意のボランティアを含めて、野宿者に対する関わり方というのは、「共生」の感覚ではない。助けてあげるとか、分けてあげるとか、教えてあげるとか、上から目線の関わりがやっぱりメインですから。一般市民との「共生」をしていくというのは、釜の中ではすくなくともそういう動きはなかったと思います。

ー釜でなくとも、一般論ですが、ここの水準を上げて一般の人と同じようにしてあげるんだ、していくんだと、ここの水準を上げて分散させ寄場をなくす解決策として一般の人並みにするんだという方向はありうるんではないですか。
(本田)それは基本的にそうですね。つまり仕事があって住居に住めるようになるというのを目指すのが支援の基本的なスタンスですからね。むしろ「共生」というと野宿のままで認めさせようとみたいな理解にどうしてもなってしまいますね。そういう「共生」はおかしいだろう、と思います。だから「共生」という言葉に関してむしろアレルギーというのがありますね。

ー寄場をよくすることによって一般社会がよくなるんだというのは言葉では言えても、そこは無理がありませんか。根本的にどうして寄場が生まれたのかということを考えると。
(本田)多分、釜ヶ崎をクリンアップしたとしてもどこかにこういう所というのは必ず都市構造的に必要とされるわけですから。そいう意味でなくなればいいだけど、あまり希望的には観測できないなと思いますね。資本主義の基本的な構造ですからね。
(続く)

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