2011年8月31日水曜日

「在日」作家、徐京植のNHK番組を観てー『フクシマを歩いて・・・私にとっての「3・11」』

私はツィターを通して見逃がしたNHK放送の、『フクシマを歩いて、徐京植:私にとっての「3・11」』を観ました。http://www.youtube.com/watch?v=lq4xuXFKlDk

「在日」作家の徐の語る内容は簡潔で、正確な言葉使いによって的確に日本社会の問題を指摘していました。多くの人が感動したと思います。彼はゼミの学生に、「根こぎ」の説明をします。生命の基盤そのものを人間がはぎ取る植民地主義、暴力について語り、福島の南相馬に向かいます。

そこでは立ち入り禁止地域で働く農民、地域から出ることを拒む研究者と語り合い、散乱する海辺を見、閉鎖された朝鮮人の強制労働があった金山、朝鮮人学校を訪れます。基幹産業であった金や現代の原発はいずれも朝鮮人労働者と被曝労働者を犠牲にして働かせることによって成り立っている、その仕組みは何も変わっていないと喝破します。

自殺した酪農家の怒りと悲しみに想いを寄せ、ユダヤ人思想家のプリーモ・レーヴィと日本人詩人の原民喜の自殺を見たくない現実を直視すべき警告として受けとめます。そして最後に乗鞍岳の道路建設によって滅ぼされた「ハイマツ」を詠んだ藤田省三の詩から、市民がこぞって参加した「安楽全体主義」を読み取ります。

騙されてこのような原発体制をつくることに加担してきた人もまたライフスタイルを含めて、日本社会の「システムを変える責任を負っている」というのが彼の結論です。しかし徐京植自身は「たまたま乗り合わせた電車」に譬え日本社会との深い関わりを改めて述懐しますが、そこに自分自身も日本社会のシステムを変える当事者としての自覚があるのか、私はやはり疑問が残りました。

徐京植の多くの著作の中での日本社会の批判に賛同しながら、私は彼の日本人の立場性を問う問い方に疑問を持って来ました。一体、徐京植自身は自分の住む地域の問題にどのように関わろうとしているのか、そこで国民国家を相対化する具体的な働き、その地域社会を変革していく活動ということに対してはどのように考えているのか全く読みとることができなかったのです。

今回のNHK番組の中でも、原発を支えてきた日本人に対して語る、「システムを変える責任を負っている」と突き放す徐はそのシステムと無縁だったのか、自分もまた「原発の安全神話」の中にいたのではなかったのか、そしてその国民国家というシステムは韓国でも同様の働きをしており、「安楽全体主義」の下、原発建設に邁進し、輸出までしてアジアへの加害者の立場になろうとしているのではないのか、その日韓の動きに対して徐はどうするつもりなのか、ここが私には見えません。

いつか機会があり彼とじっくりと話し合えば、お互いの相違点より共通点が多いということになるのかもしてません。民族・国民国家の相対化の問題は日本人社会の問題にもかかわらず、私たち「在日」の課題として追及すべきだと私は考えています。しかしそのことは「在日」としてHate SpeechやHate Crimeには断固たる立場に立つということと私は矛盾しないのです。

参考文献:「「民族差別」とは何か、対話と協働を求める立場からの考察――1999年「花崎・徐論争」の検証を通して――」(『ピープルズ・プラン』52号、2010)




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