2011年8月11日木曜日

投稿:小さな童(わらべ)に導かれー東海林 勤

東海林さんは日本基督教団の牧師さんで、韓国の民主化闘争や「在日」の問題、高麗博物館の建設などに長年、深くかかわってこられました。その彼が、3・11を経験して孫を放射線から守ろうと決断したとき、そこに去来したものがなんであったのか、これまでの自分のやってきたことはすべて他人事(ひとごと)だったのではないかという悲痛な自己批判を記しておられます。そしてそこから「赦されて一歩を踏み出すキリスト者のあり方を指し示しておられます。東海林さんと同人誌のご厚意で私のブログに転載させていただきました。

崔 勝久

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小さな童(わらべ)に導かれ
                  東海林 勤(編集同人)

大阪で三・一一を迎えて翌日帰宅
三月十一日の大地震の揺れを私は大阪で経験した。長ーい無気味な横揺れであった。生野区の韓国基督教会館(KCC)の五階で、李清一館長の講演を聴いている最中であった。新宿区大久保にあるNPO高麗博物館の「在日」百年史研修ツアーに参加し、京都と大阪を二日半めぐって、締めの講演を李清一さんにお願いしてあった。李さんは聞き手が「地震!」と言うのを意に介さず、「在日」が日本人と対等の立場で経済的、精神的に自立し貢献しあう関係をつくることについて、力強く語り続けた。
夕方帰途に付いたとき、ダイヤが乱れて遅れ、新大阪に着いたらここは大混雑。近くに宿をとり、翌日練馬の家に着いたらもう夕暮れだった。すぐテレビを見るや釘付けになった。津波の凄まじさには息を呑むばかり。続いて福島第一原発の原子炉内の燃料棒が露出し溶解しているようだとの報道。一~三号機が次々に水素爆発を起こすなどして、建屋の頭も吹きとばされた無惨な姿を見て、「しまった!たいへんなことになった!」と思った。

「お前は何をしていたのか」
私は二〇年程前から、日本キリスト教協議会(NCC)平和・核問題委員会や原子力行政を問い直す宗教者の会(以下「宗教者の会」)を通して、原発現地へ学習・交流に赴いたり、関係省庁へ要請に行ったり、人に話したりしたが、ここ三~四年は日韓キリスト教関係史や在日朝鮮・韓国人の歴史と生活、「韓国併合条約百年」の問題等に時間を割き、原発問題への関わりを疎かにしていた。それでも、私は『原発震災』はいつでも起こり得ると考えていたし人にもそう言っていた。しかしそれは私にとって他人事(ひとごと)だったのだ、と気がついて愕然とした。テレビを見ながら、「自分はいったい何をしていたのか」と自問しはじめたが、そのうちこの問いは、テレビの方から「お前はいったい今まで何をしていたのか」と問いかける声に変わってきた。この問いかけは繰り返し聞こえてきて、私は打ちのめされる思いであった。

孫たちの脱出
しかし一刻も猶予はなかった。同じ屋根の下に暮らす一歳と三歳の孫を少しでも事故発生地から遠ざけなければならない。今が肝腎なのだ、と心は焦った。これはつまり、自分の孫の被災を避けようと願って、はじめて原発問題が切実に自分の問題になりだした、ということでもある。人さまの苦難よりも身内の健康のほうが心配なのだ。情けないことだ。
それでも、今は何を措いても一先ず私たち家族に授かった幼児の安全を考えなければならない。これは未来世代に対するこの家族の義務だ。もちろんこれはそのまま子らの両親、つまり娘夫妻の思いでもあった。しかしこの二人はそれぞれの会社が緊急事態のため多忙を極め、休みを取るどころではない。そこでわれわれ老夫婦が幼児を連れ出さなければならない。

ところが肝腎の連れ合いが頑として応じない。三月末までは日本キリスト教婦人矯風会の女性用シェルターの責任者だから、そこの寮生、スタッフ、ボランティアを残して自分だけ避難することはできない、の一点張り。私は一九日(土)からの三連休には両親が来るから、われわれはすぐ東京に戻れる。その先のことはこれから考えればよい、と説得した。フランスにいる娘からは、早く関西にある夫の実家に行くようにと再三電話があった。やっと老人二人が孫を連れて東京を出たのは十六日であった。まず中部の娘夫婦の所で、それから関西の娘婿の実家でお世話になり、われわれ二人は一九日に東京に戻った。
あとで分かったことだが、私たちが脱出した十六日は東京都と千葉県の境の辺りを中心に首都圏が放射能雲に襲われた後であった。十四、十五日の汚染が一番ひどかった。そのような東京に、両親は連休の終わりに子ども二人を連れて、さえない顔で帰ってきた。仕事を続けるためと、友だちと遊べない子らの精神的不安定のためであった。

この脱出行から私は色々なことを考えさせられた。連れ合いは孫の顔さえ見れば喜色満面なのに、その孫を連れて東京を出ることにあれほど抵抗したのは、余程の思いがあったのだろう。退職前の調整や引継ぎもあろうが、やはり所長としては、一日でも自分だけ抜け出ることが自分に許せなかったのだろう。私はそのことをあまり考えずに押し切った。それは危機感のせいか、実はいつものことだったのか。今更問うのではもう遅い、大きな負い目となった。
おおよそ何か正しいことを押し通せば、もう一方の正しさを犠牲にする、ということが生じるのではないか。とくに危急の時にはどちらかをすぐ選択するほかないとしても、もう一方の正しさを却けることに痛みをもつことは最小限必要であろう。ところが私は咄嗟の場合に無情な振舞いをして後で後悔する。

ただし家族について言えば、私はこんなに家族・親戚の優しさを知らされたことはなかった。今後この経験は一族の宝となるだろう。けれどこの三ヶ月間、東北には危機に際してほとんど助けを得られず、孤独に過ごす人たち、子どもも連れ出せない人々が沢山いることが、たびたび報道されてきた。幸せを受けたのはそれを人に分け与えるためであることを、私はもっと具体的に学ばなければならない。そればかりか、私の幸せは多くの人々の犠牲の上に成り立っていることを忘れていたことが問題だ。人の犠牲の上に成り立つ生が罪であるなら、私は自分の生き方を問い直し、改めなければならない。このことは以前から考えていたことだが、福島第一原発の大事故は自分の生き方を根本的に問い直すための重いきっかけとなった。

癒しあるいは赦し
孫たちを事故の地から遠ざけたのは、わずか五泊六日、それも汚染ピークの後だったので、自分の無力さを覚えた。この思いが上記のような重い問いかけと重なって、しばらく心はやましい思いにふさがれた。そのようなある日、教団大阪教区核問題委員の山崎知行医師から電話がかかってきた。山崎さんはチェルノヴイリ事故で被災した子どもたちの医療活動をしてきたかたである。私が三月末に京都で被災地の子どもたちの受けいれについて「宗教者の会」緊急世話人会があり、そこでお会いした山崎喜美子さん│同委員長│にヨウ素剤などについて質問したのを、お連れ合いに取り次いで下さったのだ。山崎医師はいろいろ丁寧に、整然と答え、指示して下さったが、その中で、「短期間でも幼い子どもさんのために福島から距離をとったことは正解でした」と明言された。たしかに、あの時期に子どもが数日でも無害な環境で過ごせば、それだけ健康に益となったにちがいない。そう思ってようやく心が落ち着いた。

人はそれぞれ置かれた境遇の中で、自分で精一杯危機に対処するほかないし、それが一層広い行動や運動のための基本、土台となるのではないか。自分は自己本位、無力で、罪深い者であっても、神はなお受けいれて新しい生へと歩み出すように促してくださる。そのような赦しが、山崎氏の言葉を通して私に示され、私を支えた。

もう一つ同様の経験
四月八日、NCC平和・核問題委員会で話し合い、キリスト者が脱原発を自分の課題とするためのフォーラムを開き、第一回は田中三彦さんの講演を中心にしようと決めた。若い人たちの努力でNCC、カトリック正義と平和協議会、「宗教者の会」三者共催の形になり田中さんも快諾してくださった。

田中三彦さんは日立関係の設計会社で福島第一原発四号機の原子炉圧力容器の設計チームを指揮したかたである。そのため圧力容器が大地震には弱いことを知っていた。しかもその容器製造の過程では重大なゆがみが生じた。田中さんは特命を受けて工場に移り、ゆがみ矯正事業を成功に導いたが、なお容器はさまざまの危険を伴っていた。その一四年後、一九八八年に七〇〇人を集めたシンポジウムで、この問題を公表した。この間、八六年四月のチェルノヴイリ被災者の姿に衝撃を受けたことは岩波新書「原発はなぜ危険か」参照。

四月二二日(金)主の受難日、キリスト教会館大会議室に、一ぱいの人が集まった。田中三彦氏は福島第一原発が津波以前に、地震と同時に機器や配管に損傷、破断が生じ、重大な事態に陥っていたことを、東電、政府の情報隠しにもかかわらず推測し論証してくださった。これは地震列島日本の「脱原発」の最強の論拠になる。だから推進派│東電と原子力ムラはもちろん、ICRPもIAEAも│はこのことにはまったく触れず、事故をひたすら津波による電源喪失のせいにする。あれから四ヶ月以上経った今日も、市民をだまし続けているのだ。私たちは田中さんと、石橋克彦さんら最進の地震学者の主張を踏まえれば、原発を日本に残すことをキッパリ拒否することができる。

さて、私は閉会後に田中さんに挨拶しながら、自分の孫が死の灰をかぶると知ってやっと原発が自分の問題になったこと、それまでの関わり方は他人事であったことを、思わず口にした。田中さんはいつもの穏やかな口調で答えてくださった。「人間は大体そうなんじゃないですか。私も『チェルノヴイリ』が起きなかったらずっと黙っていたかもしれない。チェルノヴイリの放射能が気流に乗って日本も汚染したので黙っていてはいけないと思って、やっと自分の課題になったんですよ」。

私はご家族をとおして教会で田中さんとお会いしていたので、原子炉問題公表後の田中さんの困難を少しは知っていた。だから同じ「他人事」と言っても私のようないい加減とはちがうので、いっしょにされて恐縮したが、他面ここでも赦しと励ましを受けたのである。私は一度打ちのめされて、今までの生は終わった、私も新しく出直せばよいのだ、素人なりに脱原発を自分自身の課題として、新しい生に踏み出すのだと心から思った。

創造主の赦しの愛
神はただ愛ゆえに天地を創造された時、そのすべてをご覧になって「極めて良い」と喜ばれた。ただし人(アダム)には園の中央にある命の木と善悪を知る木の実を食べるな、食べれば死ぬと警告した。ところが二人が取って食べたとき、神は二人の命を取らなかった。そこで、「アダムは女をエバ(命)と名付けた。彼女がすべて命あるものの母となったからである」。また「主なる神は、アダムと女に皮の衣を作って着せられた」。神はエデンの園を去らねばならない二人を憐れみ、人間と同様に大切であるけものを犠牲にして、人間を皮の衣で被った。神の愛は創造の始めから赦しと励ましを含んでいた。

だとすると「善悪を知る木」からとって食べたことの意味は明らかである。エバとアダムは神への信頼なしに自立を試み、自分で善悪を知るものとなることを選んだ。神の「良し」という祝福によらず、自力ですべてをきめるための知識を得たと思った時、かれらは神および自然との調和の関係を失い、人間同士も信頼を失って相手を非難するようになった。その結果、生の不安・恐怖が募り、これを自力で克服しようとして一層敵対し合うようになった。人間は不安・恐怖をのがれるため、自然を征服して富を得、その富で人間を征服して自分に栄光を帰する道を走り出した。それはとりも直さず一人勝ちまたは覇権を目指して戦う生、所詮は達せられず、不安・恐怖を更に増し、空しく労苦して土に帰る生である。これが楽園喪失あるいは追放、すなわち祝福されて祝福するあらゆる関係からの断絶の道である。原爆は一人勝ちを目指す人間の罪過の頂点であると同時に、人智ではもはや制御しえない「核分裂」による大量殺戮を引き起こしたことによって、人間の過誤の度合いを従来とは全く異質な新しい段階に至らせた。原発もこの殺傷をより一層日常生活に浸透させただけで、恒久的に人間とすべての生きものの命を奪いつづけることは原爆と同様である。
しかし祝福をもって万物を創造された神は、この祝福を取り消すことはない。神は愛と祝福をなお貫いて、人間を神への信頼に立ち帰らせようとされる。神の忍耐は、神ご自身が痛みを負われること意味した。それはイエス・キリストの十字架の死に極まった。

新約では神の赦しの愛と人間の新生は、イエス・キリストの十字架と復活によって確立されている。それゆえ私たちは確かに新しい生き方を始めることができる。

「在日」との新たな出会い
四月二二日脱原発キリスト者フォーラムは、もう一つ大切な出会いを与えてくれた。旧友、川崎の崔勝久さんとはこの会をきっかけに改めて話し合い、「キリスト者の発言」を共同で出していくよう人々に呼びかけることとした。崔さんはたたき台になりそうな呼びかけ文を作って下さった。青森の岩田雅一・白戸清牧師を迎え、六月三〇日に三〇名が信濃町教会に集まって一人ひとりすばらしい発言をされた。崔さんはそれを集約して、次回は私たちの戦争責任、戦後責任をテーマにしようと呼びかけた。私は気がついた。三・一一の地震を大阪のKCCで李清一さんたちといっしょに経験したことは、私にとっては単なる偶然ではなかったのだということに。原発大事故は日本が百年経っても植民地主義つまり覇権主義を改めることができないことの結末なのだ。戦時中川崎に徴用された朝鮮の若者たちは「日本鋼管・命と交換」と言い交わした。原発では多重下請け制度によってすでに数十万人もの労働者が命と「交換」させられてきた。現代も変わらない植民地主義と原発問題とは通底する。あるいは一つのことだとも言える。

ということは、在日韓国・朝鮮人への私の関わり方も、実は他人事であったということになる。そしてそうと分かったことは幸いなことなのだろう。私はこの関わりも、自分自身の問題・課題として捉え直し、新しく本気で関わっていきたい。きっとそのように導かれるだろう。

幼子のようにならなければ
この地震列島では、すべての人が大惨事の危険と隣り合わせで暮らしている。そんなことはもう本当に止めなさいと、死者たちと未来世代の子どもたちが訴えている。その声を聴こう。政府と電力会社はもちろん、マスコミも市民もそれぞれの責任においてすべての原発の停止、核燃料と使用済み燃料とすべての核廃棄物の適切な管理に、できる限り力を注がなければならない。今やアジアは、原発急増による凄まじい覇権主義の嵐が吹き荒れている。これ鎮めるのは、その元兇というべき日本国の私たちキリスト者の贖罪的使命であろう。

預言者イザヤは「小さい子どもに導かれ」て誰もが他を損なうことなく共に生きる世界を詩い上げた(イザヤ一一章)。子どもは大人が妨げないかぎり、自分を信頼し、人を信頼することを知っている。それゆえイエスは「幼子のようにならなければ神の国に入ることはできない」と言われた(マルコ一〇・一三│一六)。また子どもは「いと小さき者」の代表でもある(マルコ九・三三│三七、マタイ二五│四〇)。子どもは小さいままで尊い存在として、人間の愛の関係の中心である。被爆しやすい幼児が原発の被災と救護の焦点になっているのは、このような意味がある。このことを、とくに被災地の人々と共に受けとっていきたい。

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