2011年8月1日月曜日

投稿:キリスト者が「反原発・脱原発」に関わる歴史的・社会的視座について

7月28日に信濃町教会でもたれた、「原発体制を問うキリスト者ネット―ワーク」の第二回目の集会において発題された、城倉啓(志村バプテスト教会牧師、NCC副議長)、滝澤貢(日本基督教団川崎教会牧師、「新しい川崎をつくる市民の会」代表)両氏の発題内容を公表します。

最近の私のブログは大体毎日300名ほどの人が訪れるのですが、そのうち海外の比重が多くなり、30-40%になります。アメリカ、ドイツが圧倒的ですが、香港、ロシア、韓国など20か国以上の方が見ていらっしゃいます。どのような方が何語で、どのような問題意識で読んでいらっしゃるのかはわかりませんが、「在日」の立場からの日本社会の問題を見る視点や、具体的な活動内容に関心をもたれているのかと思われます。私たち自身の闘いのために、そして海外の方にも私たちの闘いの思いや、その視点を理解いただくために、長文ですが、発題内容を全文掲載します。

3・11以降、私のブログはほぼ「脱原発・反原発」関連の記事が圧倒的に多くなりました。私がそのことに時間を費やしている証左でもあります。このキリスト者の集会の今回のテーマは、「原発事故と「戦争責任」・「戦後責任」告白について」というもので、キリスト教会と縁のない方には聞きなれない言質でしょう。しかし日本のキリスト者は、数は少ないとは言え、明治の内村鑑三以来、戦時下の抵抗、矢内原忠雄や賀川豊彦など社会的な関心を持ち続けた歴史があります。何よりも、日本の戦争責任が曖昧にされてきた中で、日本基督教団が1966年に議長名で「第二次大戦下における 日本基督教団の責任についての告白」を出したことは、70年7・7の華青闘(華僑青年闘争委員会)による新左翼糾弾に先立っており、他の教派や仏教会にも影響を与えたものと思われます。

今回の3・11の原発事故は、人災であり、戦後日本社会が国策として進めてきた結果です。明治以降の富国強兵策の結果最終的に迎えた第二次世界大戦に責任があったことを神の前に悔い改めたキリスト者が、原発体制を黙認してきた罪を神の前に告白し、全身全霊をあげてこの問題に取り組むべきではないのかという考えから、上記の主題を設定しました。宗教界が組織をあげて国家の政策に反対するということはどこの国でもなされていません。それは日本でも韓国でも同じです。「魂の救い」を求め、心の慰めを求めるのが宗教だという理解は救いがたく根付き、社会問題に無関心な教職者や信者が多いのも事実です。

しかし私は、今、観念的に宗教批判をしているときではないと思います。周恩来や毛沢東が自分を殺そうとする蒋介石らとも手を組み、日本軍の侵略に立ち向かった「国共合作」を思い出せば、いと小さき、弱い者たちの立場で生きたイエス・キリストを主とするキリスト者が、この事態に至って「脱原発・反原発」の立場を明確にしえないというようなことがあってもいいのでしょうか。イエスに従って自分の十字架を担うというキリスト者は、原発難民や放射能のおびえる乳飲み子を持つ母親、職場を失った多くの人々の立場に立ちきり、アジアの「脱原発・反原発」を願う民衆とも祈りを共にして一緒に立ち上がるべきなのではないでしょうか。

私はこのような問題意識から主題を設定したところ、二人の若い(と言っても40代後半、50歳でしょう)牧師が発題を受けてくださいました。心から感謝いたします。意見の違いはあることでしょうが、できるだけ教会関係者だけでなく、一般の人にも読んでいただく価値があると判断いたしました。なお講演内容、質疑応答はUstreamの録画でご覧いただくことができます。
http://www.ustream.tv/recorded​/16287259
http://www.ustream.tv/recorded​/16288699

ご理解いただければ幸いです。なお、発題のタイトルは私の判断でつけさせていただきました。ご了承ください。

崔 勝久

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「一人の主権者として」ー城倉 啓

0.はじめに
前回、欠席だった者が発言する無礼をお許しください。6月30日は、文部科学省・原子力安全委員会・厚生労働省の官僚との行政交渉が急に入り込んで、申し訳ありませんがそちらを選びました。
 
今日、わたしは三つのことを申し上げて自分の責任を果たしたいと思います。一つは原子力行政を問うということを、一人の主権者として行うことの必要性です。それは、立憲主義とか憲法という考え方、つまり800年ぐらいかけてできた人権思想と関係があります。二つ目は、支配/被支配の問題、特に地球規模の植民地主義や帝国主義の問題についてです。それは600年ぐらい遡る欧米列強を中心の構造ですし、日本でも明治政府以来の問題です。三つ目は、現在わたしがこの原子力行政や核・放射能に脅かされた世界で何を取り組んでいるのか、小さな活動の紹介です。全体に戦争責任告白・戦後責任告白という課題に対して、もう少し長い目で歴史を眺めます。そのために、1945年を時代の区切れとはあまり捉えていないのでお含みおきください。

1.一人の主権者として。立憲主義と憲法。
 わたしたちはどのようにして原子力行政にからめとられたのか。あるいは多数派を形成されてしまったのか。わたしの考えでは主権者意識の欠落が一つの要因です。政・官・財・学・報という悪の五角形にまんまと「必要神話」「安全神話」を刷り込まれて、深刻な事故が何度起こっても、それすら悪用されてだまされてきました。この悪循環を止めるにはどうすれば良いのでしょうか。

 一人の人として堂々と意見を言うこと、つまり主権が市民にあるということを地道に実践していくことに尽きるのではないでしょうか。子どものときからそのような習慣を身に付けなくてはいけないでしょう。
憲法を用いて権力者を縛ること、力の濫用を監視すること、それを立憲主義と言います。特に少数者・社会的弱者の人権を守るために憲法を使うのです。わたしたちの社会ではまだまだその立憲主義が成熟していません。そのような人々は権力にだまされやすいという傾向を持ちます。そこに問題があります。

原子力行政は憲法違反です。平和的生存権を脅かしているからです。核は人類と共存できません。原子力損害賠償法(原子力行政の推進を謳っている)や電源三法(地方自治に反する)は憲法違反の法律です。だから、憲法81条を用いて違憲立法審査権によって裁かれなくてはいけません。憲法を用いて憲法違反の法律を廃することが、主権者にはできるはずです。

この国において裁判官が官僚であって完全に政権よりであること、憲法判断を避けることは悲劇的状況です。しかし、地元を疲弊させない東京での違憲訴訟という運動も立憲主義の立場からありうるのではないかと思います。

明治憲法の時に初めて日本に近代憲法が導入されました。同じ頃足尾鉱毒事件などもあったわけです。しかし憲法を用いて国策・国是に否ということにまで至りませんでした。生産者や納税者の主権という運動に至りませんでした。その弱さが戦争に協力した時代にも、あるいは今でもあるのではないでしょうか。日本国憲法に改訂されても、まだ主権者意識が弱いと思うのです。天皇制の存置もそこに関係があるでしょう。

わたしは、預言者たちやイエスというのは神の法を用いて国家権力・国策・国是に対抗した個人というように考えています。その結果、不当な裁判にもかけられます。不正な裁判官にも、また不正な為政者にも、個人として立ち向かい続けることが原発体制を問うことにおいても必要だと思います。

2.支配/被支配の構造を問う。植民地主義の問題。
 欧米で発展した立憲主義ですが、しかしそれだけでは原発体制を問うことに不十分です。というのも、核兵器によって支配している者たち、原発体制を維持して金儲けをしている連中が欧米を中心にした列強だからです。いわゆる植民地主義による支配/被支配の関係はいまだに続いています。近代天皇制の問題もそこに関係があります。

ここで人権思想が次第に深まり広がっていったという歴史をふりかえらなくてはいけません。人の平等の問題、逆から言えば差別の問題、両方から言えば支配と被支配の問題を、たとえばジェンダー論やハラスメント論、暴力論、性的少数者の人権など、今に至るまでわたしたちはより厳密に広範に捉えてきているのです。言い換えれば、現場での民衆からの働きかけによって人権思想は鍛え直され修正されてきたということです。

たとえば、アメリカ独立宣言には先住民の人権、アフリカ系住民の人権、女性の人権、子どもの人権は考えに入れられていなかったのです。だからご立派な人権宣言も、結局は白人・成人・男性の人権だけを含んだものだったのです。どんなに立派な憲法の文言も、良い意味で解釈して良い意味を盛り込んで行かなくてはいけません。わたしは憲法九条を単なる武力放棄から、あらゆる暴力の放棄というところまで拡大して解釈しています。

広島・長崎・南太平洋・イラクその他で核爆弾を使用して、おびただしい生物に被ばくを強いた理由は差別にあります。沖繩に基地が集中している理由は差別にあります。朝鮮半島の多くの女性たちを軍隊強制性奴隷にした理由は差別にあります。若狭湾に原発が集中している理由は差別にあります。オーストラリアの先住民と命の重さが同じならば、ウラン鉱山で被ばくさせることなどできないはずです。原子力発電所を「安全に事故無く」動かす際にも、40万人とも言われる被ばくを強いられた人々の労働があります。その人たちの多くは貧しさのゆえに被ばく労働に仕向けられているのです。その人たちの命の重さを、都会で豊かに生きている人と同じと思っているのかどうかが問題です。思えないならばそれは差別です。

さに人を人とも思っていない人が、原発体制を構築し維持し、それによって毎秒大金を儲けて、そのお金によってさらに支配体制を強固にしています。いわゆる原子力ムラの支配であり、国際的な原子力マネーです。原子力発電所の輸出もそこに関わります。

もちろん核・原子力は人間や地球上の生命が共存できるものではありません。あまりにも毒性が強く、長い間その毒性を維持できるからです。安全な放射性物質などはないし、許容量などはありえません。きわめて危険であるからこそ、最悪の暴力だからこそ未来世代に責任を持つためにわたしたちは核を否定します。核のゴミの問題、核兵器への転用も、危険さゆえの反原発論です。それはすべての命への冒涜であるから、創造主への冒涜です。

しかし、そこで気をつけなければなりません。「危険だから核を否定する」という理由だけを強調してはいけないと思うからです。それは「安全な原子力発電ならば許すべき」という詭弁の入り込む隙を与えます。あえていえば、「もしも原子力発電が安全だとしてもわたしたちは原発体制に反対」なのです。なぜならば、原発体制というものが差別の上に成り立ち、社会的弱者から搾取をする支配者のための構造だからです。今、福島第一原子力発電所の過酷事故において、この国は住民に被ばくを強いています。もし、福島の子どもたちとわたしたちの命の重さが同じなら、わたしたちはやはり国家権力に向かって反対の声をあげなくてはなりません。
 
旧約聖書においても、当時認知されていた社会的弱者の人権保障という考え方は明記されています。寄留者、夫のいない女性、保護者のいない子どもなどがその代表です。イエスはさらにそれを広げました。周縁に押しやられた人々、しょうがい者、忌み嫌われた病気の人、忌み嫌われた職業の人、子ども、女性、非ユダヤ人などなど。支配者たちは、それぞれに御用学者を雇います。サドカイ派にも、ファリサイ派にも、ヘロデ党にも、律法学者たちが雇われ、そして権力者たちに都合の良い聖書解釈を提供していました。命に差をつける聖書解釈です。それに対してイエスは、「わたしは言う。すべての人は神の子だ」と言って抵抗していったのです。ユダヤ政府だけではなく、植民地支配を押しつけるローマ帝国に対しても抵抗しました。「ローマ皇帝も神ではない」と言って。それゆえに十字架で殺されたわけです。

3.行政交渉という取り組み。
3月28日以降から、原子力行政に関する行政交渉に混ぜてもらっています。市民運動の方々の最後尾にくっついて微力ながら携わっています。もともと、月に一度内閣府に自衛隊派兵中止要請を仏教者の人と行なっていますから、少し慣れてもいます。東京に住む者の責任だと思って、no-moxというMLやたんぽぽ舎、原子力資料情報室などから情報を得て、友人知人に国会周辺の集会参加を呼び掛け、フクロウの会、美浜の会、FoEなどと一緒に動いています。

4月21日に初めて福島からひとりの女性が参加し、それ以降大手報道機関もとりあげるようになりました(ただ若干気になっているのは「福島のお母さん」というような取り上げられ方です。ジェンダー論から言うと問題があるでしょう。子どもの被ばく=母親のみの関心ごとのような図式が性役割分担を前提していますから)。いわゆる20mSv問題で5月23日には650人の市民が文部科学省を取り囲み、5/27の「1mSv目標指針」を引き出しました。楽観はできませんが、行政交渉で短期間にここまでの成果を上げることは難しいので、ある程度評価できると思います。

今は「避難の権利」を、憲法の平和的生存権を根拠にして認めさせ、原子力賠償紛争審査会の議論に盛り込むことや、原子力損害賠償法の改悪反対(そもそもの原賠法の廃法)、つまり東京電力の責任を薄めさせるような措置に反対することなどが目の前の課題です。

とある日の行政交渉交流会で、福島から来ている市民が言った言葉に心打たれました。また励まされました。「はじめて国会に来て、国会議員や官僚の前で意見を言った。自分の子どもも連れてきたいと思った。今までお上にたてつくなんて考えたこともなかった。被災者・被ばく者になってはじめていたたまれなくなってきたけれども、東京にはこんなに意見をはっきり言う仲間がいることに気づいた。ありがたかった。いままで無関心だったことを恥じた。自分も意見を堂々と言って良いということを学んだ。子どものときからそういう教育が必要だ。そうでなければ権力にだまされるのだから。」

現場にはこういう宝のような言葉があるのだと思います。わたしは抽象的な立憲主義・人権思想・環境問題・植民地主義を論じたくはありません。現場にイエスが先にいて、現場でイエスが小さくされた姿で、わたしの生き方をゆさぶり、より良い生き方を示す言葉を教えてくれるのです。東京に住んでいるわたしも福島をはじめとする被ばく者たちとつながり、連帯して生きることができます。こちらが良心的に生きるときに、良心的な仲間が与えられ、そして交渉相手である国家権力の窓口・「敵」の良心に働きかけることができます。だからいつも官僚に「誠実に、責任ある態度で、良心に恥じない答えを」とわたしは言っています。上司を説得したいと思わせるように、官僚の良心に問うのです。

行政交渉、デモ、政治家への働きかけ、裁判支援(全国連絡会ができた)など国会周辺の活動が、この事態における東京周辺に住んでいる者にとって、一つの責任の取り方なのだと思います。なぜなら、東京で抑圧的な法律が通り、ひどい判決が出され、非人間的な行政が執行されているからです。

戦争責任告白・戦後責任告白ということが課題でした。言葉づくりそのものが目標になってはいけないでしょう。日付付きの「見解」を出すことは意味があると思います。見解を固定化しないで現場の責任ある行動で修正して欲しいからです。告白とは生き方です。つまり、告白に重点を置くのではなく、責任に重点を置くことが必要だと思うのです。だから「原発体制を問うキリスト者ネットワーク(仮)」が、既存の市民運動に一人でも多く関わっていくことを励ます会であってほしいと思います。

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「当事者性の回復を」-滝澤 貢

はじめに
 どうしてこういうテーマが設定されることになったのかについて、未だにわたしはぼんやりしていて良くわからない。崔さんといろいろお話しする時に思いを語ってくれたし、メーリングリスト上では膨大なやりとりがあって、それを丹念に拾った中でこのテーマが生まれてくる必然だと思われるものを読み直し、このテーマの必然を自分なりに考えてきた。
 
崔さんは「日本基督教団は聖餐論ばかりやっていて観念的だ.それでは現場になんの力にもならない」という思いを語られた。聖餐論は突き詰めれば「誰と飯を食うか」「イエスは誰と飯を食うためにやって来たのか」を問うこと.教会にとっての必然、問わなければならない課題。教団が「聖餐論議ばかりする」ということは、教会にとって大事な、真剣な議論だと思う、もしそれをやっていたなら。今問題になっているのは「聖餐論」ではない、だから問題なのだ。

 もう一つ、「戦後責任という言葉は定着していない」と崔さんは書かれている。そもそも定着するとはどういうことなのか、定着すること自体にどれくらい意味があるのだろうか。日本基督教団戦責告白を毎週唱えている教会もあるらしい。毎週唱えたら形骸化するのではないか、と心配する向きもある。形骸化であれ何であれ、そうなっていたらよかったのではないかと思う、今、毎週唱えるところは極端に少ないし、毎月、あるいは8月になれば唱えるということろはあるだろう。しかし大半はあることすら知らない。形骸化どころではない、なぜそこなで至らなかったのか、がわたしの問題意識としてある。

(1)山口県・防府教会で
 わたしは秋田県出身、秋田県は奥羽越列藩同盟 但し後に久保田藩(秋田)だけは新政府に寝返るという歴史を持っているが、長州に感情的なしこりはないまま育ってきた。
 だが、防府市の中心地桑山に4月29日、大きな日の丸がはためいているのを見る。
登ってみるとその山は防府市護国神社、「招魂場」だった。
「 防府に引っ越してきて、最初の年のゴールデンウィークでした。市内中心部にある桑山のてっぺんに大きな日の丸が掲げられていました。4月29日は昭和天皇の誕生日でしたから、尤も1999年にはとっくに平成になっていてその日は「みどりの日」、これもまた良くわからないけど植物をこよなく愛した昭和天皇を偲んで付けられたのだそうですが、その4月29日に、市内の山のてっぺんに日の丸がはためいているのを驚いて見ていたのです。そして後に桑山には招魂場があると知りました。今は「防府市護国神社」となっていますが、その一角に今も「招魂場」の碑が建っています。
 
この事実、つまり防府市護国神社の上に大きな日の丸が掲げられているという事実を知ったとき、わたしはそれこそ初めて、自分のからだの中に東北人の血が流れていることをはっきりと自覚したのでした。わたしは、自分の育った環境の中では、長州や薩摩に対する特別な感情は注入されて来なかったのです。にもかかわらず、山口県で護国神社の上の日の丸を見たとき、文字通りからだの中で血が騒いだ、煮えたぎったのでした。自分のルーツを生々しく教えてくれたという意味では、山口県に感謝しなければならないかもしれません。この日の丸事件は、勝利者が勝利者だけを顕彰する記念碑の上に勝利者のシンボルである旗を掲揚する事実に対し、敗者の歴史に連なるわたしがそれを見ることを強制させられる経験でした。もっと感情に則して言えば「勝利者」というところを「支配者」「侵略者」と言い換えたいところです。「日の丸・君が代」が初めて、事実としてわたしにとって苦痛となったのでした。」

 衝撃的なことだった。護国神社は各県にあるが、山口県には各市町村にある。そういう土地だ。日の丸がどういうものであるか、知識としては知っていたが、自分の血のうねりにはならなかった。この時、事実として初めて苦痛になったという経験をした。これはわたしにとって大きな出来事だった。

(2)日本基督教団の成立と弾圧事件
 日本基督教団は6月24日が創立記念日。6月23日は沖縄の日。もう一つ6月には記念日がある。26日。旧6部9部弾圧記念日。事柄の順序で言えば教団創立が1941年、旧6部9部弾圧が1942年、沖縄の日が1945年。
 
当時キリスト者の願いは教派を超えた連帯だったという事実はある。けれども、教会をリードした人たちはまず教会がこの世から認められること、この場合の「この世」とは天皇を頂点、現人神を抱いた国。そこで認められることを願っていた。だから42年6月に旧6部・9部の教会に弾圧が加えられるという事件が起こる。一般にホーリネス教会のグループと言われているが、この教会に属する96人の牧師が治安維持法違反で検挙されるという事件が起こる。81人が起訴され、実刑19名、うち獄死3名、保釈後死亡者4名。6部・9部の201教会と63伝道所は宗教団体法第16条の規定により解散処分とされる。

 この事態に対して教団は何をしたか。まず検挙された教師への「寛大な処置を望む嘆願書」が提出される。その嘆願書を出すにあたっては、これらの教師を再度錬成するという誓約がついていた。つまり、「この人たちは間違っているのだから、正しいキリスト教、正しい牧師に練り直しますので勘弁してください」ということ。弾圧の内容は、特高による弾圧だと思っていない。錬成するとした教団の姿勢こそ弾圧だと思っている。後になって、このときの教師たちの名誉を回復するために教団総会で「旧6部・9部教師及び家族、教会に謝罪し、悔い改めを表明する集会」がもたれた。が、それが行われたのは1986年11月。悔い改めるのに44年かかっている。
 なぜ悔い改められなかったのだろうか。

(3)なぜ悔い改められなかったか
 物の本を読むと戦後、天皇は人間宣言をしたという。どういう宣言だったのか内容はわからない。しかし、人間宣言は権力の放棄に繋がらなかった、繋げられなかった。それは、「主権者」という当事者性が希薄だったからではないか。当時学校の教師たちは教科書に墨塗りをした。自分の教えてきたことが嘘だったと教師たちは墨を塗ることによって子どもたちに伝えた。そうしなければ職を失ったのだろうが、しかしそれまでは、そう教えなければ職を失っていたのだ。どれほど苦痛に満ちた、悔い改めに満ちた行為だったことだろうか。
 
しかし、戦前・戦後で教会は何一つ変わったところを見いだせない。なぜなら教会の指導者たちは戦後も指導者であり続けたから。たまたま占領軍の教えがキリスト教だったから、戦後この国を立て直す精神的支柱として、トップはトップのまま居続けた。自己否定もせぬままにしてしまった。その結果、戦後22年経って、当時の罪を告白することさえ受け入れなかった。44年経って行われた旧6部9部弾圧を謝罪し悔い改めを表明する集会も、もはや忘れ去られている。残念なことだ。集会をやったこと、記念の冊子が出来たことだろうが、それだけ。その精神を継承・克服したのか。
 
遠野教会・防府教会・川崎教会では「沖縄の日・教団創立・旧6部9部弾圧記念礼拝」を毎年6月23日〜26日に近い日曜日に行っている。何をするのでもないが、繰り返し覚え、罪を自覚し告白すること、それを続けることが必要だと思ってのこと。当事者にならなければならない。

(4)「告白」とは何か
 告白は文章にではなくその思想に、その方向性にこそ意味を持つ。そこに示されている思想、方向がそのたびに新たに語られるのが「告白」だろう。必然的にその方向へと顔を向け、足を向けることになる。メーリングリストの中で「行動ではなくことば」という投稿もあったが…。
 
ついでに教会は天皇制を批判できないだろう。それはとても便利で、教会がそれを用いているから。その自覚がどれだけあるだろうか。例を挙げる。牧師が聖書の言葉を持って説教すれば反論できないという。だがそうだとすればそれこそ天皇制だろう。反論できないのではなく、反論しないことで自己決定権を教師に委ね続けてきたのではないか。そうすることで自己の責任を回避し続けてきたのではないか。誰が何の立場で何を語るか、言うかは問題ではない。わたしが、あなたが、何を語ってどう生きているかが問題なのだ。

(5)当事者性に生きられるか
 戦争責任告白・戦後責任告白は当事者性の自覚に基づいた自己批判が伴わない限り意味はない。ステートメントに取り組んでいるのはそれ故ではないか。当事者としてことばを発しようとするからこその議論ではないか。秋田県人にとって、福島県浜通り・中通りは一種のあこがれの場所であった。夜行列車がそこ(福島・郡山)を通過する時の少年の心、憧れ以外の何物でもない。
 
奥羽本線は福島で東北本線に合流し、様々な支線を綯い交ぜながら郡山から先は一直線に東京へむかう。だから福島・郡山は憧れの町なのだ。そこがとんでもないことになっている。わたしが福島県人だったら、東京電力の恩恵を浴びる関東、特に首都圏と戦争をしたくなる。それくらい当事者性の自覚のない首都圏。自分もそこに住む者に成り下がってしまったという後悔を感じる。首都圏に住むとは、それだけで「罪」だ。
 だからせめて当事者性を回復したい。そこからのみ再出発は(不可能に近いながら)道が開かれるのではないだろうか。

おわりに
 クリスチャンがこういうことに取り組むということが、わたしにとっては不思議なことだ。わたしたちになにがしかの「善なるもの」があるだろうか。世に対してわたしたちのもっている何か善なるものを知らしめよう、としていないか。恵みは常に垂れ下がるものなのか。現場にこそ善があるのではないか。そこに聞かなければならない。その痛みに共感することを通して、わたしも当事者性を開発されていかなければならない。そこにのみ希望がある。

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1 件のコメント:

  1. 3人の方のコメントをご紹介します。
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    崔勝久さま

    参加できなかったため、Youtubuを見て、
    二人の発題を読ませて頂き、感動しました。
    居ながらにして勉強させて頂けるありがたさを
    感謝しています。

    申 英子(シンヨンジャ)

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    城倉さん、滝澤さん

    お二人とも、昨夜の発題は、理念だけでなく体験と実存に裏付けされた説得力と、また迫力があり、帰り道、栗原さんとしばしそのことで感動の振り返りをしました。

    告白には責任が不可欠であり、またこの首都圏にも首都圏ならではの、虐げられた小さき者たちとの連帯の現場がしっかりと待っていることを(たとえそこに参加できなくても、そこに携わっている者たちを覚え、また意識を共有し、共に闘っていくことができるのだということを)、提示してくださりほんとによかったと思います。

    栗原さんと、原稿をいただけるとのことで、楽しみにしていましたが、さっそくの感謝です。お二人とも、大きな難しいテーマでしたが、現代の私たちの立ち位置を示すのに十分な掘り下げを、ほんとにありがとうございました。

    内藤新吾

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    今日は、
    ご無沙汰しております。添付の「発題要旨」を拝読しました。
    3,40年昔のことですが、「土着」ということが宣教に不可欠
    であると、やかましく言われていた時代がありました。その土着
    という意味をしみじみと味わいました。感謝!
    滝澤様
            11/07/29
    望月 文雄

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