2011年8月7日日曜日

投稿:気仙沼再訪 7/12~18 (1)~(4)ー朴鐘碩

(1)
蒸し暑い東北新幹線東京駅のホームに座りこんでいる年配の女性がいた。話しかけられた。青森・大湊に向かう、痩せたこの女性は施設で亡くなった弟の遺骨を隣に置いていた。冷房の効いたホーム待合室に行きたいが、重い遺骨を持ち運ぶのが辛そうだった。30度を超すホームで指定号車の入り口で一時間近く待つという。私が風呂敷に包まれた遺骨を持って涼しい待合室に運ぶ。女性はほっとした様子。新青森からローカル線に乗り換えて、さらに殆ど人が住んでいない村にタクシ-で行く。冬は風と雪だけで荒地となった故郷にあるお墓に弟の骨を納めるという。地震と津波の被害はなかったらしいが、冬の下北半島の厳しい自然の凄さを想像する。

3週間の休暇を取り、旅行するオーストラリア・アデレ-ドから観光に来た若い男女のカップルと列車の中で居合わせた。日光に行くという。宇都宮到着までの時間、話題となったのは地震、津波と福島原発。ニュ-ジ-ランド(クライストチャ-チ)の地震の直後だっただけにオ-ストラリアのマスコミも大きく報道したそうだ。地震・津波よりも原発が怖いと語っていた。

私が5月末に訪れた気仙沼港周辺の被災地は、状況は少し改善しただろうか?
前回、お世話になったボランティア青年S君が汚れた軽トラで気仙沼駅に迎えに来てくれた。ホテルに行く前に、早速、街全体が流され、地盤沈下し大型漁船が折り重なる鹿折地区、鰹の水揚げを開始した気仙沼港周辺を案内してくれた。瓦礫は、廃材、鉄骨などに分別され片付いているようだが、地盤沈下した地域は、海水量が増え冠水が深刻化している。現場に異臭は残るものの、蠅は大量に発生している。ホテル食堂テ-ブル上は、蠅を引き付ける液体が入った、上部に穴を開けたペットボトルが置かれている。

被災者の一部は仮設住宅に入居できるようになった。しかし、入居者は、無料支給されていた食料など自ら調達し自活(立)することが条件であるという。津波で全てを失った被災者は、仕事・職も失い自活することは困難である。そのため、仮設住宅から避難所に戻る住民もいるという。これは行政の「平等」という選別がそのようにさせている、という。

被災地の高台に建つホテル望洋に多くの人たちが宿泊している。陸地に流された大型漁船を港に戻すために横浜から曳航された日本最大のサルベージ船を持つ会社、日本最大級のクレーンを組立、解体し、大型漁船のバランスを保持して吊り上げる技術を持つ名古屋の重機会社の従業員、瓦礫の片付け・復興工事の土木関係者、兵庫、東京などの行政から派遣された職員、医師、看護師、保健師、マスコミ関係者、ボランティア(学生)などである。

地盤沈下した気仙沼港の復興に莫大なカネと人員が、今後どれだけ必要となるのかわからない。国家予算の援助が緊急課題であるが、被災地の将来に向けた復興の青写真は決まらない。大船渡線(気仙沼駅の次)鹿折唐桑駅前のメインストリ-トを遮断している大型漁船はそのまま残っている。津波に流された大型漁船を海に戻すあるいは解体するだけでも数十億円単位の費用だろう。重機があちこちでフル稼働している。港周辺の瓦礫処理だけでもかなりの時間を要する。地元の土建業者だけでは重機も人手も足りない。隣県の土建作業員は、「ダンプ、ブルド-ザなどの重機を持ち込んでいるが、殆どボランティアに近い」と語っていた。被災地への政府予算はどのようなル-トで復興事業に流れていくのか?街の復興は、被災住民の意思を無視して、国家、行政、(土建)会社主体で進むのだろうか?

サルベ-ジ船会社と巨大クレ-ン車を操作する重機会社は、ライバル会社であるが、協働で大型(マグロ・カツオ)漁船を海に戻すため、慎重に作業を進めている。30度を超す炎天下の作業のため、夜間にできた製氷機にあった満杯の氷は、直ぐなくなる。重機会社・社長は、(怪我されたのか?)足を引きずって、作業員のために「氷をくれ」と空になった容器を何度も持ってきた。

災害支援自衛隊員とその関係車両が少なくなっているが、他県から治安のため警察官とパトカ-、大型車両が増えているのが目立った。ホテルのボランティア青年もS君以外にいなかった。個人より団体の受け入れを必要としているのか、ボランティア人員が少なくなっている、という。

九州・宮崎からヒッチハイクで気仙沼にボランティアに来た青年M君に出会った。震災以降、ホテルをベ-スにボランティア活動しているS君たちの友人である。M君は、会社勤めをしていたが「自らの道を求めて」辞めた。リ-ダである矢部君から、私のことを聞き、「いろいろ話したいことがあります。会うことを楽しみしていました」と、「日立就職差別裁判」について聞かれる。
M君は、「芸能界に入りたい。気仙沼でパクさんと出会ったことは忘れません」と冗談で語り、地元(宮崎)の居酒屋(バ-)で働くようだ。「気仙沼から宮崎までどうやって帰るのか」と聞くと「勿論、ヒッチハイクです」と自信に満ちていた。行き先表示されたスケッチブックは、ドライバの注意を引く重要なツ-ルである。気仙沼に着いて3日連続、夜中に地震があった。S君、M君、私の3人は、同部屋で寝る。

震災から4ヶ月以上経過して、ホテル社長は、「父親の鞄が瓦礫の中から見つかった」連絡を受けた。社長は、写真、書類、貴重品を鞄から取り出し、炎天下に拡げていた。泥で汚れているもののそのまま残されていた。

朝5時、起床して津波で破壊された建物、積まれた瓦礫を見ながら気仙沼魚市場周辺を自転車で回る。津波で破壊されたガソリンスタンドの壁の時計は、地震発生時の14時46分のままだった。震災後初めて、宮崎県から鰹の一本釣り大型漁船が港に接岸した。(TV)カメラ、マイクを携えた多くのマスコミ報道陣が魚市場に集まっていた。水揚げされたカツオ、両手で持ちきれない大きなビンチョウマグロも次々と船からベルトコンベアに乗せられ、選別され、一杯になった生簀は、フォ-クリフトで運ばれる。気仙沼港の活気が戻るまで、付随する港湾、冷凍、製氷施設の回復が急務である。


(2)
●気仙沼湾 大島
M君と私は、気仙沼湾に浮かぶ大島にフェリ-で渡ることにした。大島は、黒い壁・津波を直接受け、気仙沼港の「防波堤」の役割をし、震災時孤立した島である。片道400円。所要時間20分。船上から津波で破壊された気仙沼港全体が見える。大島の「浦の浜」に到着すると大型フェリ-と客船が陸地に乗り上げている。現在使用しているフェリ-は、期限付き無償で借りている、という。近くに積まれた瓦礫は、重機で分別されている。粉塵が飛んでいる。沿岸区域は流された家、壊れた防波堤が見える。都民ボランティアの人たちが被災したホテルの瓦礫を炎天下で片付けていた。民家を訪ねる。沿岸部で出していた店舗が流され中腹にある家で店を出していた。アイス・コ-ヒ-をいただく。

82歳のお年寄り夫婦が住む民家を訪ねる。同年齢の近所の人と3人でお茶を飲み、談笑していた。「何か手伝うことはありませんか?」と聞くと、「暑いから上がっておいで。お茶と菓子を召し上がれ。どこから来たの?調度いいところだった。携帯の調子が悪い。見てくれる?」と親切にもてなしてくれた。

「この家の庭先まで津波が押し寄せ、津波に囲まれたが建物は残った。息子たちは家を出ているため、震災時安否の連絡ができなかった。TVの安否情報で生存が確認できたらしい。その後携帯電話を使用することになった。これまで3度の津波を経験したが、今回は本当に恐ろしかった。庭先から流された家が見えるが40代の人が犠牲となった。この島は、マグロ漁船に乗って退職した年寄りが多い。若者は島から出て行く。お祖父さんは、足を痛めている。お年寄りは、気仙沼にある病院に通うが数分の診察時間のために船に乗って一日かかる。バスがないためタクシ-を使う。交通費もかかる。遠いところから本当によく来てくれた。瓦礫除去の手伝いも大切だが、若い人たちが私たちのような年寄りの話し相手になることも大切だ。私たちはこのように談笑しながら余生をおくりたい。ありがとう。」3人の元気なお年寄りは涙を流した。ハエが飛び回っていた。1時間以上話した。青年M君とこうして歩いていると、私が裁判する一方で朝鮮人が多く住む川崎南部地区で地域活動した20代の頃を思い出す。

●大島 「田中浜」
さらに歩いて回る。「浦の浜」から島全体が見渡せる、観光名所「亀山」頂上に延びるリフトも根元部分が津波で破壊された。炎天下、坂を登って先を見るときれいな砂浜「田中浜」が見えた。この坂は、「浦の浜」と「田中浜」両サイドから津波が衝突した頂点となる。周辺の家は全壊。「田中浜」沿岸に廃材、電気製品、自動車などが積まれている。ダンプで次々と運ばれている。畑にひっくり返った軽乗用車がある。津波で壊れ、柱と屋根だけが残った「海の館」で休憩。手袋、作業着が干してあった。正午を過ぎていた。昼寝。

しばらくすると年配の男性5人と青年(M君と同じ27歳)が「海の館」に集まって来た。大島観光協会の方々だった。M君が「何か手伝うことはないですか。」と聞く。午後暑い中8人で浜辺に流れ着いたゴミを集め、重い材木を運ぶ。集積所まで長靴でガラスが散乱する砂浜を行ったり来たり。30度を超す暑さの中、長靴、手袋の中は、汗で水がたまる。順調に進む。休憩に入り、塩の入ったおいしい氷水をいただく。「うまい!」

「砂浜は、毎年今頃、海水浴でにぎわうが今年は駄目だ。ガラスの破片が散らばって怪我をする。ウニやアワビが獲れるが津波の影響が心配だ。この島の人口は減っている。10年前に比べると約6000人から3000人まで約半分になっている。年寄りと子どもだけになっている。若いもんは島から出て行く。戻ってくる人もいるが少ない。それに今度の津波で島周辺のホテル、民宿、漁船など観光産業は大打撃を受けた。津波は、あの先に見える無人島を越えてきた。島は孤立し、民家の灯油は盗まれ、ガソリンは1リットル200円になったこともある。あの沖合に米海兵隊の駆逐艦が停泊し、ヘリコプタ-で物資を輸送した。電柱や松の木の多くは津波の引き波で海側に倒れている。砂浜にあったテトラポットも海に流された。気仙沼市と大島の間に200m程の橋を架ける計画もあったが、どうなるかわからない」

M君が宮崎からヒッチハイクで気仙沼に来たこと、ヒッチハイクのエピソード、会社を辞めたこと、池袋のホストクラブで働いた体験、宮崎に帰ったらバ-で働くこと、彼の人生観を話すと、協会の人たちは驚き、笑顔を浮かべていた。翌日、砂浜の清掃はお休みのため、ホテルボランティアとなった。S君、M君、私の3人で浴場、客室、厨房の掃除。午後、M君は国道に出てヒッチハイクで第一の目標である群馬に向かった。S君に連絡が入る。高速SAで野宿したが、群馬に着いたようだ。無事、宮崎に到着することを祈る。


(3)
●「気仙沼ちゃんの宿」
5時に起床。学生・青年たちがホテル前に作った花壇に蒔いたひまわりの種は、大きく成長している。8月に満開になるだろう。十分水をやる。相変わらず30度を超す暑さだ。再び大島に向かい、午前中浜辺の掃除。5月に朝日新聞で「気仙沼ちゃん」記事を読んだことを思い出した。「この島にあるのでは?」と思い尋ねる。浜辺から「気仙沼ちゃんの宿」まで歩いて15分程、瓦礫が積まれている道沿いの坂を越えればいい、と教えてくれた。途中まで車で送ってくれた。道は一部窪んで海水が流れ込んでいた。きれいな砂浜、小田の浜海水浴場があるが人気はない。基礎部分から剥ぎとられた民家の屋根部分が流されている。汗で重くなった長靴を片手に持って坂を上ると「気仙沼ちゃんの宿 アインス くりこ(ドイツ語:お客様が一番)」の看板とマイクロバスが見えた。

ドアを開け、娘さんが笑顔で対応してくれたが、「気仙沼ちゃん」は不在。写真撮ってこのまま歩いて「浦の浜」に行こうとしたところ、「何してんだ。これから昼飯食べるから入れ。」と声をかけてくれたのは、偶然、庭に出てきた経営者の白幡修さんだった。挨拶、自己紹介も無く、いきなり厨房で冷しうどんをいただく。(私はお腹を空かしていた) これが白幡さんとの初対面である。受付カウンタ-上には萩本欽一氏はじめ多くの芸能人、歌手の写真、サインが飾ってある。気仙沼ちゃん自家製のアイスクリ-ムもいただく。落ち着いたところで改めて挨拶、自己紹介する。白幡さんは、震災直後、数日に亘って友人であるMさんと一緒に民宿にあった食糧、布団を全て避難所に提供した。「くりこ」の家電品は全部HITACHI製品だ、と教えてくれた。「以前にも気仙沼に来ました。その経験をblogに書いています」と話すと、すぐ事務室に案内された。

「blogを開いて「お気に入り」に登録して」と依頼される。名前を入力した。白幡社長も娘さんもPC画面を見ている。「仙谷由人って前の官房長官か。関係あるの?」と聞かれ、「裁判時の4人の弁護士の一人です」と事情を説明する。社長は、女将さん(気仙沼ちゃん)の携帯に電話した。「よければ明日、ここに泊まっていいよ。夕方から庭で被災者、ボランティアが集まってBBQする」「連れ合いが、午後、気仙沼駅に来ますから、相談して決めます」と別れ、車で港まで送っていただいた。

連れ合いは、ホテルに到着。挨拶して炊事を任され、私と厨房で社長家族とSTAFFの食事準備。簡単な料理を作り、喜んで食べていただいた。被災地の小中学生を励まそうと横浜から関東学院大学ラグビ-部員がホテルに宿泊していた。監督と挨拶を交わす。トップを目指すレベルだけあって部員たちは、驚くほど筋肉質で逞しい。「被災地の子どもたちは、みんな素直で驚くほど元気がいい。逆に私たちが励まされました」と語っていた。大阪・桃谷出身、朝鮮中高級学校を卒業した学生にも出会った。連れ合いが「日立裁判」のことを話したが、彼は「知らない」ようだった。明日は、TV朝日の「朝の顔」であるアナウンサ-がボランティアとしてホテルに宿泊するそうだ。

翌日午後、ホテルを後にして大島「気仙沼ちゃんの宿」に向かう。白幡さんが車で迎えてくれた。どんな人たちが集まっているのか、事情もわからないまま、私は長野県から自動車で来られた、常連客であるKさんと一緒に津波で流された瓦礫の片付けに追われる。民宿は、一階部分が1m近く海水に浸かった。津波から4ヶ月以上になる。宿はすっかり綺麗になっていたが、損傷部分を修繕し来年の再開を目指し休館している。

裏手の斜面には、いろんなものが流され積み重なっている。廃材、ガラス、布団、洋服、トイレの便器、調味料、食品、あらゆる日用品全て混ざっている。その上に蠅と蚊が飛んでいる。分別して一輪車でゴミ置き場まで運ぶ。ティ-シャツは汗でびしょ濡れ。ゴム手袋も汗で水が溜まっている。入浴後、白幡さんの挨拶で広い庭の片隅でBBQが始まる。


(4)
●被災者を囲んでBBQ
BBQの準備をしていただいたのは、白幡さんと親交の深い岩手・盛岡からワゴン車で来られた4人の年配の男性の方々だった。ワゴン車に一切のBBQ道具、テント、食材、飲料、ビ-ル、お酒などを積み込んで来られた。「気仙沼ちゃん」の地元食材も提供された。(民宿のすぐ下の)民家が流され、被災し仮設住宅に住むSさんは、入院されていた母親が亡くなり、奥さんは未だに見つからない。毎年、夏休み全国の子どもたちが大島の自然、海洋体験を楽しみにやってくる。その子どもたちを乗船させた2隻の船を失ったMさん夫妻、学生ボランティア、近所の民宿に泊まり、通りかかりに誘われ、加わった沖縄出身で小田原、埼玉から来られた2人の女性ボランティアなど30名近く集まった。

大島は、孤立し、2ヶ月以上ライフラインが停止した。プ-ルの水を浄化し飲料水にした。沖合に米海兵隊の駆逐艦が停泊し、ヘリコプタ-輸送により艦上で入浴できた、とSさんは話してくれた。
Mさんは写真を撮り、花火まで準備してくれた。女性2人は、一旦民宿に帰ったが再登場し、被災者を元気付けようと沖縄の歌を披露してくれた。被災されたSさん、生活の糧であった船を失ったMさんは、震災後初めての楽しいひと時だったと笑顔を浮かべていた。翌日、仮設住宅が建つ大島小学校での支援イベントがあり、その準備のためBBQには参加されなかったが、JICAで働く人たちも「くりこ」に来られ、挨拶を交わした。

5時起床。砂浜に打ち寄せる波の音が聞こえる。近くを散歩しようしたら、岩手から来た方々と一緒にMさんの自宅に招待された。Mさんは大型マグロ漁船に乗り、退職された。その後、子どもたちが海洋体験をする「無人島クル-ズ」のNPOを自ら立ち上げた。子どもたちからの心のこもった感謝の手紙、写真も見せていただいた。失った2隻の船の写真も飾られていた。近所の家の庭に子船がある。大島に住む人たちは海と共存し、船は生活の糧である。
「子どもたちが伸び伸びと遊べる従来の砂浜にするためには、ガラスの破片を除去しなければならない。そのためには多くのボランティアが必要です。砂をすくってガラスを除去する地道な作業が必要である。一日も早く震災前の砂浜にしたい」とMさんは語っていた。昨夜、BBQで撮った写真を印刷していただいた。

連れ合いは先に横浜に帰った。ボランティアに来て昨夜のような接待を受け申し訳なく思い、私は延泊しKさんと瓦礫を片付ける。梯子をかけてびわの実も収穫する。この日、栃木、岩手から来られた年配の御夫妻が持参した料理をいただいた。マイクロバスに同乗し2組の御夫妻、Kさんと一緒に被災した大島周辺を、白幡社長に案内していただいた。大島から気仙沼湾を一望できる亀山に登った。流れ出した油から飛び火して燃えた松、杉が黒く焦げている。延焼を防ぐため、住民は手作業で周囲の木を切り倒した。燃え尽きたフェリ-が対岸に残っている。絶壁のリアス式海岸も見た。

沖で助かった「ひまわり」の船長の自宅は全壊。「ひまわり」は、孤立した大島で、唯一、人と食料を運ぶ海上交通手段であった。「ひまわり」は、現在も気仙沼港を往来している。白幡社長は、船着場に客が待合室として利用できるようにマイクロバスを提供した。お菓子やコ-ヒ-も準備されている。「これは官と民の経営の差別化」だと説明してくれた。その夜、ボランティア学生たちが食事に来ていた。社長は、宿泊客と学生に私を紹介する。学生は、「日立就職差別裁判は学校で習ったことがあります。聞いたことがあります。」携帯を取り出し、「日本における多文化共生とは何か」をNet検索し、「ああ、出ています。ここで会えるなんて・・」と驚いた様子。宿泊された婦人から、「奥さんにも是非会いたかったです」と言われた。

前回も感じたが、ボランティアとして被災地に来ている学生・青年たちは、地震・津波災害と日立就職差別裁判をどう結びつけているか、ということだった。裁判は知っていても、日本が朝鮮半島を植民地にした近代の歴史は知らないようだ。

横浜に帰る前夜、白幡社長は、海上保安庁がホテル望洋から撮影したDVD、気仙沼港(三陸沖海岸)を襲った3月11日の黒い壁・津波のDVDを見せてくれた。流されていく漁船、破壊されていく家屋、街を破壊する津波の恐ろしさを改めて実感した。

翌朝5時起床。暑くなる前に瓦礫を運び分別する。朝食をいただきフェリ-が出る時刻まで作業を続ける。宿泊客の婦人は、作業現場まで来られて、「いい出会いができてよかったです」と別れの挨拶を述べて帰宅された。休憩時間となり、急いで着替えて荷物をまとめる。社長は、「浦の浜」まで送ってくれた。「気仙沼ちゃん」が手を振ってくれた。女将さんと娘さんは、心のこもった精一杯の手料理でもてなしてくださった。「くりこ」のキャッチラインは、「心ほのぼの 味わい深いおつきあいです」とホ-ムペ-ジに書かれている。白幡社長は、「人間はどのような状況になっても素直な温かい心が大切だ」と車の中で話された。短い滞在であったが、大島「気仙沼ちゃんの宿」で多くの人たちとの出会いがあった。

2 件のコメント:

  1. 佐藤(佼成学園教職組)です。

    >10代、20代の日本の青年が
    > どうして日立闘争のことを知っているのでしょうか。学校で習った、教科書にあっ
    > たということでしょうが、それにしても彼らの心に残る何かがあったからでしょう。

    その通りです。教育現場が右傾化・反動化しても、民主教育をめざす教育労働者は、可能な限り真実を教えようとするし、背後には良心的な教科書・資料集の編集者は存在します。そして就職氷河期以降、生徒は近い将来、不条理な形で選別・差別されることを直感的に知っています。ですから、日立による就職差別に直面した朴鐘碩氏の状況と心情を、彼らは他人事ではないものとしてとらえ、それなりに理解するのではないでしょうか。

    本日、川崎市教育委員会・教科用図書採択会議がありました。注目の中学歴史と公民の教科書ですが、自由社版も育鵬社版も採択されず、教育出版版になりました。教科書のいわば内容的な議論はほとんどなく、生徒を主体にし生徒に発見させる授業展開にとって、教育出版の教科書が資料も多くて使いやすい構成である、という議論がなされていました。換言すれば、教師主導で教科書の知識を生徒に詰め込むという、古典的なスタイルの授業は否定されたということです。

    戦後民主教育・平和教育の現場で、先輩教師らが積み上げてきた実践的研究的成果が、いまだ川崎では生きているということでしょう。

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  2. 岩井健作さんからメールをいただきました。

    SK Che(崔 勝久)様

    何時もメール通信を戴きながら、「応答」なしで失礼している事をお詫びいたします。岩井健作と申します。かなり以前川崎の市民集会でお目にかかった事がある
    くらいです。

    日本基督教団は隠退教師ですが、単立の明治学院教会(戸塚の横浜校舎チャペルを
    使用)の牧師として応援をしています。

    日立闘争は岩国の牧師をしている時代に多分神戸の飛田雄一さんに誘われてしんがりで応援していたような記憶です。「教団」では「沖縄キリスト教団との合同のとらえなおし」に取り組んでいましたが、主流派に切られてしまいました。有志で運動は継続しています。先般の信濃町教会でのキリスト者の「脱原発」の会の発足は大久保徹夫さん経由で知り、出席できなかったので名だけ連ねさせていただくように伝言は致しました。今後ともよろしくお願いいたします。

    さて、このたびの通信にありますような「日立闘争のスライド」は討議資料として使わせて戴きたいので「希望者は私に連絡を」と言う言葉に甘えて、申し込みを致します。入手に必要事項などありましたらお教え下さい。

    鎌倉在住 岩井健作

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