2011年7月4日月曜日

投稿:原子力と天皇制ー荒井克浩

荒井克浩さん(無教会 駒込キリスト聖書集会主宰)が「原発体制を問うキリスト者ネットワーク」に投稿された文書を私のブログでも紹介させていただきました。崔勝久

「原子力と天皇制」ー荒井克浩

藤井創さんが「核時代に生きる神学」をつくる会」のニュースレターで、「原子力と天皇制」というタイトルで文章を書かれています。これには、東海林先生の文章も掲載されています。

東海林先生も文章も拝見し、発行が2000年のものですが、この時に、原子力を問題にこのような文章をお書きになられていたことに感謝しています。

なお、藤井創さんは、自書『アジアの風に吹かれて』(新教出版)にも、この「原子力と天皇制」を入れています(「第6章 反原子論」の中)。

この文章を読み、今回の天皇の被災地地方巡業も、あの高橋哲哉氏の言うあの靖国の「感情の錬金術」の論理が働いていると思いました。高橋哲哉氏の言う靖国の「感情の錬金術」とは、国策の犠牲者である戦死者が靖国の英霊とされ神とされ、天皇が靖国神社を参拝すると、それを見た家族は、「ああ、天子様がわが息子を拝んでくださる」と感慨にふけり、本来なら悲しくて死にたいくらいの気持ちが喜びに変わってしまう、という“魔法”です。靖国の英霊の顕彰のトリックです。

この同じ論理を藤井氏の、1990年の時の六ヵ所村の近くの三沢漁港で行われた「海づくり大会」に明仁天皇と皇后が来たときの文章で見出しました。ようするに、核燃料サイクル施設推進の結果「底なしの汚染地帯」に変わることになることが現実なのに、天皇が来て「限り無い夢を育てる海作り」と称して天皇が稚魚の放流を演じることで、青森県民の不安と恐れ、本来の危険を封じ込め、喜びに変えてしまうのです。
 
そして結果として、天皇の来訪が決定打となり、知事選は原子力推進派の現職の北村知事の勝利におわったそうです。藤井氏は、「核燃料サイクル施設推進という国策がなかったら、天皇が青森県に来ることはおそらくなかったでしょう」と書いています。

今回の天皇・皇族の地方巡幸も、原発の犠牲者であり、不安に喘ぐ人々の不安を喜びに変えて、感情の高まりで「きっと天皇様ならなんとかしてくれる」と思わせ、その背後にいる政治家、御用学者の動きをも助け、原発推進を促進させる働きをしているような気がしてなりません。

いわゆる天皇派の政治家、学者、経済人が原発推進派を占めていることも、天皇を頂点とする国家体制のもとに原発が推進されているということは、見えてきます。

原発問題に関しても、天皇制という日本の最大の偶像崇拝が根底にあるにも拘らず、脱原発を目指すキリスト者がそれを無視するようなことがあれば、戦前の天皇主権の時代の国策に呑み込まれていった教会・キリスト者と大差ないことになりましょう。

天皇制に対してはキリスト者は、恐怖を覚えたり、周囲の天皇を支持する信徒や教友との関係、教会維持のことを考えると、それを問題にすることに二の足を踏む方が多いかと思いますが、その躊躇が戦前・戦後の信仰をダメにしてきたことを反省したいと思います。

各自の信仰が問われているのではないでしょうか。

藤井創さんの記事は以下のアドレスにあります。お読みいただければ、幸いです。

http://www.jca.apc.org/~maki_t/2000kaku.htm

2 件のコメント:

  1. 天皇制の理解には民俗学的な視点も欠かせないと思います(参考文献:吉本隆明『共同幻想論』)。その観点から、天皇が外から、つまり非日本人(ノン・ジャパニーズ)からどう観えているのかが鍵になると思います。天皇制の射程は、と言い換えることもできるのではないでしょうか。「日本人」(民族主義的日本人)の根底にあるシャーマン崇拝は見逃せません。

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  2. そういえばICUの教授だった長清子氏の専門も「天皇制」でしたね。

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