2011年5月22日日曜日

原発事故についてのキリスト者の「悔い改め」について

クリスチャンが信じる「救い」とは自分の魂の救いのことで、社会的な抑圧とか矛盾とは別の次元の、精神的なものなのでしょうか?旧約聖書の「出エジプト記」では、奴隷状態にあったユダヤの民をモ―セが救出したことが記されています。それが歴史的事実としていつ起こったのか、本当に40年も砂漠で放浪していたのか、モ―セは実在の人物なのか、それらのことは学問的に、実証的に証明されたわけではありません。

しかしそのような「神話」をユダヤ人は数千年に渡って信じ、信仰の根拠であった神殿や国が滅ばされてもその苦難の意味を問い続けてきました。今日はクリスチャンが多い韓国から日本の「福音化」のために来日した、架空のK牧師が今回の原発事故について「キリスト者の悔い改め」という説教され、その内容に感動してお送りした私信を公開します。

K牧師は今日の説教の最初のところで、原発事故に触れられ、この人間のもたらした災害をキリスト者として「悔い改め」をもって捉えるべきだということを述べられました。これは今日の日本のキリスト教会にあって、これまで私の聞いたことのない重要な視点だと痛感いたしました。

しかし残念ながら今日は時間の所為か、説教の中ではその「悔い改め」の内容は何かについての説明はありませんでしたが、いつか聖書に基づいて、原発事故についてキリスト者が何を「悔い改め」なければならないのかお話しをされることと信じます。そのメッセージこそ、日本の全教会、そして韓国のキリスト者に伝えられるべきでありましょう。

私は今日の福島原発事故についてキリスト者が「悔い改め」なければならない内容は、「無関心」であると考えます。原発現場の被曝を覚悟しなければならない労働者の実態、使用済み核燃料は何万年にもわたって未処理のまま地下深く埋めることしかできない状態であること、そして絶対安全であると政府・企業・マスコミがこぞって「嘘」をついてきたこと、また何よりも、東北や裏日本の貧しい地域社会に原発を作るためにお金をばらまき、地域社会が自発的な発展ができないように崩壊させてきたこと、このことにキリスト者が無関心であったことを心から神に謝罪し、悔い改めるべきなのではないでしょうか。

「悔い改め」とは生きる姿勢、方向を根本的に変えることだとK牧師は強調されました。残念ながら、日本と韓国は自国では歓迎されない原発をお金儲けのためにアジアに輸出し、自国で埋めることのできない使用済み核燃料をアジアの国にお金を渡して埋めようとしています。

今日の原発事故の悲惨な状況をもたらしたのは実はキリスト者の「無関心」であるならば、「悔い改める」べき内容は明白です。キリスト者が政府、企業、マスコミに対して原発の無謀さ、それがいかに神の摂理に背くものかという警鐘を鳴らすことです。それはまた聖書にあっては預言者が担った役割でした。

原発はもっとも儲かるビジネスであり、同時に政治の政界では核兵器に直結するもっとも危険なものです。世俗の論理に惑わされず、キリスト者は神の御言葉にのみ従うべきです。自分で制御できないものを安全だと嘘で固め、貧しい地域の人をおかねでそそのかし、そして自国では都心から離れた貧しい地域、アジア諸国に原発を売り運営し続けるのをキリスト者は、また知らぬ振りをして「無関心」を装っていいものでしょうか。それではあの傷ついた旅人を素通りした「信仰深い」宗教者と同じになってしまいます。

被災地の実態を私もボランティアとしてこの目で見て来ましたが、サマリア人の働きは傷ついた人を看病するだけでなく、これ以上、傷ついた人を作りださせないようにすることでもあると私は確信し、その警鐘を鳴らすことはこの危機的状況におけるキリスト者の「悔い改め」であり信仰告白であると考えるに至りました。

サマリア人の役割は何か、被災地の人への奉仕の意味は何か、若い人には是非、仙台の地に行きただただ何の対価もなく、困った人に奉仕活動をしてほしいと願います。また同時に、原発に対するこれまでの「無関心」であったことの「悔い改め」の意味をしっかりと考えてほしいと願います。

このふたつのことはお互い対立したり、矛盾することではないということをしっかりと話し合い理解するようになってほしいと願ってやみません。

私の原発事故についての「悔い改め」の解釈を、日本と韓国のキリスト教社会に大きな影響力をもつK牧師がさらに聖書的に深め、大胆に預言者の働きをしていただきたいと祈ります。被災地で困っている人たちに手を差し伸べ、彼らが望む床下のヘドロを掻きだすというような奉仕すべき仕事はいくら手があっても足りないでしょう。それは事実です。私も目撃しました。

しかしそのような目の前の困っている人に手を差し伸べる、壊された教会を修理するということでとどまっていいものなのでしょうか。私の聞いたところ、ドイツは日本の教会のそのような趣旨の募金の依頼を断わってきたというのです。そうでなく、地域の復興に向けて地域の人々と一緒に歩むために具体的に何をするというプランがあれば、援助のお金は送ると約束したそうです。

壊された家や街並みを元に戻す「復旧」に全力で手を差し伸べるべきは当然ですが、その後、地域住民が勇気を失わず、自分たちの地域社会の「復興」のために自らが主権者として、「偉い政治家先生」にお願いするのでなく、自ら当事者として立ち上がり、新たな地域社会をつくっていくことができるように、教会は地域に根を張った存在として地域住民を支援すべきなのではないでしょうか。

原発事故の「悔い改め」はこのような新たな、未来に向かった視点を生み出すものと信じます。K牧師、祈りの中に覚えてください。失望することなく歩み続けることができるようにお祈りください。

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