2011年4月21日木曜日

東日本の「復興」を考えるーその(2)、川崎との類似点

横浜国大の中村剛治郎教授は、昨日の授業で、先週話された「原発危機」を「原発震災」と変更されました。これは原発による災害は一過性で今後どうなるか分からないというより、東日本を襲った他のふたつの災害(巨大地震、巨大津波)と同列に扱うべき深刻な事態という意味で、「原発震災」と敢えてされたのでしょう。(参照:「東日本大震災(巨大地震、巨大津波、原発危機の多重災害)」の影響と「復興」を考える」http://anti-kyosei.blogspot.com/2011/04/blog-post_13.html)

教授の立場は、ミクロとマクロ経済の中間に位置するメゾ領域として、地域経済を重視するというものです。その立場からすると東北地方の「復興」をどのように捉えるのか、私にとっては、それは東北地方だけの問題だけでなく、例えば、川崎の臨海部のあり方を考えるに際しても最も核心的な問題であるように思えるのです。

マスコミでは「復興」と「復旧」の区別は曖昧ですが、中村教授はこのふたつを分けて考えておられます。中村教授は、後者は現状の悲惨な状態を元に戻すということであり、前者の「復興」はこれからのあるべき地域社会をめざした、未来志向の再建とでも言うべきものです。

大前研一はいちはやく「復興」に関心を示し、ネットで被災地はこのまま放っておくと、神戸のときのようにバラックが立ち並ぶようになるので、政府は早急に「復興案」をだすべきだと言っていました。彼は、住民は津波に遭った同じところには住みたくないだろうから、高台に住宅を作り、生産活動と住居の場を分離すること、小さな魚港は統合し、漁民はその高台の住宅地から通うようにすればと提案していました。

高台に建てられる住宅は間違いなく、集合住宅で、エコを前提にした、ITを活用した最先端の技術を駆使したものになるでしょう。そうすると農業は海辺と高台の間で行われ、漁港は大前研一の言うように統合され水産の大企業が中心になるのでしょう。当然、農地では大規模な農業が推奨されるでしょう。TPPが既定路線であるならば、廉価な農産物が入り(これがTPPに日本を入れようとするアメリカの目的)日本の零細な農業はやっていけるはずもありません。

東北地方でのそのような「復興」計画はいずれ、日本全国に広がるものとして画策されているに違いありません。一方大都会(東京)の下請けと位置つけられ、廉価な労働力が武器であった東北の産業はどうなるのでしょうか。大学の研究開発は地元産業のためというより、資金が潤沢な大企業中心に依存せざるをえず、ますます大都市(東京)に本拠地を置く大企業が全ての覇権を握ると思われます。「世界市場のニッチ分野で強いオンリー・ワンの素材、部品」製造に活路を見出してきた東北地方の産業は、大企業に依存せずに研究開発を自前でするような、自立した形で持続していけるのでしょうか。おそらくそれは無理でしょう。

地元の伝統を活かし、地元で資金が循環するような、まさに地域が内発的な発展をしていくための経済政策はどのようなものなのでしょうか。東北地方の被災者で、高台に建てられた最新鋭の集合住宅に住みたいと願う高齢者がいるのでしょうか。価格の面でも無理でしょう。同様に、川崎の南部に集合住宅が増えるだけでは、今木造のアパートに住む高齢者や多くの人にとっては何の意味もないことになります。

人の住むことのない、石油コンビナートや化学工場、鉄鋼所が中心の臨海部の50年、100年先を考えて街づくりを計画するとき、脱工業化時代に相応しい知識と技術をもった人だけが住むような街になれば、今いる多くの「単純」技術者、労働者はどうなるのでしょうか。再教育のシステムもなく、非正規の社員になれてよかったと言う地元の青年たちの将来は、脱工業化の産業を担うことはなく、ますます寂れる川崎南部で埋没していくしかないのでしょうか。

私見では、産業政策は経済のことだけを考えていけばいいものではないはずです。私は未だ見ることのないアメリカのポートランドの自治のあり方に目を見張りました。大企業がポートランドを支えたのでなく、自然を慈しみ自立して生きようとする旺盛な独立心をもった人たちが支えてきたのです。それが可能であったのは、住民主権による地方自治のシステムではないかと私は睨んでいます。

成長が望めない、或いは低成長な時代に突入する日本社会にあって、東北地方の受けた災害に同情するだけではパターナリズムに終わる危険性があります。勿論、ボランティアをはじめやれることはやるべきです。しかし自分たちの住むところはどうなのか、東北地方の「復興」のあり方が自分たちの地域社会のあり方と直結していると捉えるべきではないでしょう。

私が危惧するのは、地方自治は東北地方の「復興」をきっかけにして道州制に進み、ますます住民主権からは遠のき、弱者が住みにくい世の中になっていくのではないかということです。それらのことは間違いなく、ナショナリズムの強化と結びつくでしょう。このような時代の流れの中で個人はどう生きればいいのか、何をすべきなのか、対話と<協働>による社会変革を願う私のような「在日」がやれることは何のか、しっかりと考えたいと思っています。みなさんのご意見はいかがでしょうか。

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